ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『気がつくと、いない』 ヨハネの黙示録19:6〜9、ルカによる福音書24:13〜35

2019年4月28日

 

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【墓から消える】

 私が信じるイエス様は、目の前に「いる」ことよりも「いない」ことの方がはるかに多い。私が辛いとき、助けてくれと祈るとき、イエス様の姿は見えません。

 

 天から降りてくるようにも見えません。一瞬、不思議な導きを感じても、気がつくとそこには誰もいない。あの時私を助けた出来事はイエス様だったのか、たまたまだったのか分かりません。

 

 イエス様は確かにいる。救い主はここにいる。絶望の中で光を見つけ、困難を乗り越えたとき、確かにそう感じるときがあります。

 

 しかし、気がつくともう私の中にはいない。この前までいるように感じたのに、平穏な毎日を過ごし、新たな困難に遭遇する中、イエス様が見えなくなっている。

 

 聖書に記されたイエス様の生涯も、気がつくと人々の前からいなくなることばかりでした。

 

 彼の両親は、毎年過越祭の時期になると、家族でエルサレム旅行に来ていましたが、イエス様が12歳のとき、気がつくと息子を見失い、3日間見つけられませんでした。いつの間にかイエス様は両親を置いて、神殿の境内で学者たちと話をしていたんです。

 

 また、成人したイエス様があちこちで聖書を教えるようになると、たくさんの人が集まってきました。病人を癒し、歩けない人を立たせていると、さらに多くの人が押し寄せてきます。

 

 しかし、その度にイエス様は人々の間を通り抜け、立ち去っていきました。イエス様の奇跡を見て興奮した人々も、気がつくと彼を見失っていました。

 

 イエス様に従っていた弟子たちも大変です。村へ行き、町へ行き、人里離れたところへ行き、少しするとまた別の村へ行く。ナザレ、カファルナウム、ベトサイダ、カナ、ティベリアス、ナイン、ベタニア、エルサレム……

 

 ガリラヤからサマリアへ、サマリアからガリラヤへ。気がつくと別の場所へ行ってしまうイエス様に、ついて行くのもやっとです。

 

 そんなイエス様が、もうどこにもいかないと思えるようになったのは、彼が人々に捕えられ、殺されてしまった後でした。

 

 イエス様は死んだ。もう一緒に話せないし、もう一緒に食事もできない。だけど、もう私の前から消えることもない。だって、遺体は動かないから。これから先は、いつだってお墓の中にいる。

 

 ところが、イースターの朝、イエス様はまたも人々の間を通り抜けて行きました。女性たちがイエス様と最後のお別れをするために、遺体へ香油を塗りにやって来たとき、墓石はわきへ転がされ、中には誰もいませんでした。

 

 気がつくと、遺体までなくなっていたんです。

 

【エルサレムを出る】

 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」先週礼拝に来た人は、女性たちが空っぽの墓の前で、天使にそう告げられたのを聞きました。

 

 彼女たちは急いで帰って、弟子たちにこのことを話しますが、誰一人信じてくれません。みんなたわ言だと思っています。たわ言だと思っていますが、ペトロは思わず墓へ走りました。

 

 いない、確かにいない。イエス様はまた消えている……彼は驚きながら家に帰ります。「大変だ、本当に遺体は消えていた」「彼女たちの言ったとおりだった」

 

 どうやら、ペトロの後にも、何人か墓へ行ってみた人がいるようです。そして、全員が女性たちの言うとおり、墓から遺体が消えていると言いました。

 

 「イエスは生きておられる」天使が告げたというその言葉を、みんなが思い巡らしました。たわ言だと思いつつ、考えざるを得ませんでした。

 

 遺体はどこへ行ったのか? 誰かが持ち出したのか? 隠してしまったのか? みんなが家の中で議論している間、2人の弟子が仲間のもとを離れ、エルサレムから出て行きました。

 

 一人はクレオパ、もう一人は名前も記されない男です。クレオパという人物も、何者かは一切紹介されません。ここ以外に出てくることもありません。12使徒ではない、無名の弟子たちです。

 

 彼らは、イエス様が生き返ったと聞いた朝、エマオという村へ向かって出発しました。

 

 このままエルサレムにいたら、処刑されたイエスの仲間だという理由で、自分たちも捕まって殺されてしまうかもしれない。彼らはイエス様の復活を聞いても信じられず、身の危険を恐れるあまり、別の村へ避難しようとしたのだ。

 

 多くの人はそう思ってここを読みます。私もそう思って読んできました。しかし、本当にそうなんでしょうか?

 

 エマオの村は、エルサレムから60スタディオン、たかだか11キロの村。歩いて2時間ちょっとです。ここからだと各務原ぐらい。意外と近いですよね。

 

 過越祭が終わって、多くの旅行客がエルサレムから自分の村へ帰って行く中、イエスが処刑された話はあちこちに広がっています。

 

 なあ、知ってるか? 3日前にエルサレムでイエスという男が十字架刑になったんだ。その男が捕まったとき、途中までついてきた弟子もいるみたいだが、どうも周りの人間に気づかれて逃げ出したらしい。

 

 今も、彼の弟子たちがどこかに隠れているはずだ……こんな噂が出回ってる中、エルサレムを出て、エマオへ向かう。

 

 かえって危険ではないでしょうか? しかも、この2人は歩きながら、一切の出来事について話し合い、論じ合っていました。誰かに聞かれたら、あっさりイエスの弟子だとバレてしまいます。

 

 案の定、彼らの話すことを耳にして、急に割って入る者がいました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか?」

 

 同じエルサレムの方からやって来た人間が、いきなり自分たちの話に割って入る。もし、その人が2人をイエスの弟子じゃないかと怪しんでいたなら、一貫の終わりです。

 

 彼らも思わず聞き返します。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存知なかったのですか?」

 

 存じないわけがない……だって、公衆の面前でイエス様は処刑されたのだから。過越祭に来た人が、あの騒ぎに気づかないはずがないのだから。

 

 この男は知らないふりをして、自分たちがあの方の仲間かどうか探っているんじゃないか? そう考えてもいいはずです。というか、普通そうでしょう。

 

 しかし、「どんなことですか?」と尋ね返されると、2人はあっさり、「ナザレのイエスのことです」「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」と語り始めます。

 

 見知らぬ男に対して、ちょっと無防備過ぎないでしょうか? あまりに警戒心がなさすぎる。

 

 これが本当に、捕まるのを恐れて逃げ出した人たちの行動なんでしょうか? むしろ、私は別のことを思うんです。

 

 2人は自分たちが捕まるのを恐れて逃げ出したんじゃなく、復活したイエス様に直面するのを恐れて逃げ出したんじゃないか? イエス様が生き返った、墓から出て来たというのが認められなくて、エルサレムから出て来たんじゃないか?

 

 彼らは見知らぬ男に対して、こう告白します。イエス様は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者だったと。それなのに、祭司長や議員たちは死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったと。

 

 そして、口にはしないものの、自分たちがあの方を見捨ててしまい、逃げてしまったことを繰り返し思い出していました。

 

 死んでもついていくと言ったのに、どこまでも一緒にいくと決心したのに、無様に自分たちは逃げてしまった。あの方に合わせる顔がない。

 

 イエス様が甦った? そんなはずはない。墓から出て来た? たわ言に決まっている。もし、そんなことが起きたなら、あのとき逃げ出した私たちはどうすればいいのか? 会えるわけがないだろう。

 

 2人は、生前のイエス様が一度も訪れたことのないエマオに向かって歩き始めました。どこにいるのか分からない、イエス様から離れようとして。ところがそこに、見知らぬ男が割って入り、いきなり語り始めます。

 

 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか!」そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体を教え始める。

 

 実は、この見知らぬ男こそ、復活したイエス様でした。2人は気がつきません。この人こそ、自分たちが合わせる顔がないと思っているイエス様だと。彼らの目は遮られていたからです。

 

 自分から離れていこうとする者に、イエス様はその目を遮ってまで近づいて来ました。気がつくと、いなかった人がそばにいた。

 

【食卓から消える】

 やがて、3人は目指していた村、エマオに到着しました。イエス様はなおも先へ行こうとします。

 

 クレオパともう一人の弟子は、先へ行こうとするイエス様に「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めました。

 

 ここは私たちが出しますから。一緒に食事をして泊まってください。もう少し話をさせてください。

 

 見知らぬ人を食事へ招待したとき、彼らはイエス様を迎えていました。自分たちが離れようとしていた方を、合わせる顔がなかった方を、知らず知らずのうちにもてなしていたんです。イエス様はそのもてなしを拒否しませんでした。

 

 むしろ、一緒に食事の席へついたとき、彼らのためにパンを取り、賛美の祈りを唱えてそれを裂き、2人に渡しました。

 

 すると、遮られていた2人の目が開け、一緒にいるのがイエス様だと分かります。かつて、十字架につけられる最後の夜、同じようにイエス様は弟子たちのためにパンを裂きました。

 

 「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」

 

 思い出しなさい。パンが裂かれる度に、わたしがあなたのために自分の体をささげたことを。思い出しなさい。杯が飲み交わされる度に、わたしがあなたのために血を流したことを。

 

 わたしと顔を合わせられないあなたのために、わたしは十字架にかかって復活したんだ。あなたは再び、わたしと一緒に食事の席につけるんだ。

 

 「イエス様、あなただったんですか!」「わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです!」2人がそう叫びかけたとき、気がつくとイエス様はいませんでした。

 

 「主よ、わたしから離れてください」……跪いてそう口にするのを、イエス様は許しませんでした。むしろ、2人に立ち上がることを求めました。

 

 自分から離れようとして、出て来たエルサレムへ戻るように。他の仲間たちに、この出来事を伝えるように。2人は時を移さず出発します。明かりのない暗い夜道、獣や盗賊に襲われる最も危険な時間帯に。

 

 彼らがエルサレムへ帰ってくると、他の弟子たちもみんな集まっていました。そしてこう言われます。

 

 「本当に主は復活して、シモンに現れた」……先週、礼拝で読んだところでは、ペトロはまだ、イエス様と会っていませんでした。

 

 女性たちの話を聞いて急いで墓へ走り、遺体がなくなっていることを確認しただけ。どうやらその後、読者が気づかない間に、イエス様はペトロにも現れていたようです。

 

 この話はとても不思議です。弟子たちの中でも中心的存在であったペトロの方ではなく、無名の2人、一人は名前も残っていない弟子たちの方が取り上げられる。

 

 きっと他にも、我々の気づかないところでイエス様と出会い、エルサレムに帰ってきた無名の仲間がいると思わされます。

 

 気がつくと、いない。ここでもイエス様は見えません。気がつくとすぐ、いなくなる。私たちも日々そんな体験をしています。

 

 確かにいる。救いはある。そう思った次の瞬間消えている。何でそばにいてくれないのか、助けてくれないのか、恨み言を言っている自分がさらに嫌になって、神様わたしを見ないでください……という気分になる。

 

 でも、見知らぬ誰かを食事に招き、もてなしているとき、イエス様は姿を現される。わたしはずっと一緒にいたよと語られる。

 

 私たちの目を遮って近づき、合わせる顔のなかった私と出会われる。「離れてください」と言う間もなく、姿を消して……

 

 わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしは決して見捨てない。