ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『権威がない?』 マルコによる福音書2:21〜28

聖書研究祈祷会 2019年5月1日

 

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【律法学者は権威がない?】

 皆さんは、誰かがある人を「権威的だ」と表現したとき、その人に良いイメージを持つでしょうか? どちらかと言うと、悪いイメージを持つ方が多いんじゃないかと思います。

 

 「権威」……他を支配し、服従させる力。ある方面で抜きん出て優れ、一般に認められていること。

 

 決して悪い意味じゃありませんが、誰かに支配されることを好まない私たちには、あまり歓迎できる表現じゃありません。ところが、聖書はイエス様について、こんな記事を残しています。

 

 「人々はその教えに非常に驚いた。律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」

 

 神の子であり、救い主であるイエス様に「権威ある者」というイメージが付されている。人によるかもしれませんが、私はあまりこの記事が好きじゃありません。

 

 両親から、兄弟から、上司から、先輩から、権威的に振る舞われ傷ついた人たちが、イエス様に対しても恐れを抱かざるを得ないように感じてしまうからです。

 

 ただ、ここで少し気になることが出てきます。イエス様は「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」……これって逆に言えば、律法学者には「権威がなかった」ともとれる話ですよね?

 

 律法学者といえば、聖書の中でイエス様に何度も敵対した人たちです。旧約聖書の掟に精通し、研究を重ね、人々の生活を指導した者たち。

 

 彼らは、自分たちより人気を集めるイエス様に嫉妬し、繰り返し陥れようとします。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか?」「何の権威で、このようなことをしているのか?」「だれが、そうする権威を与えたのか?」

 

 どうも、権威については彼らの方がうるさい印象です。イエス様自身も彼らについてこう言っています。

 

 「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする」

 

 彼らについて一言で表すとしたら、まさに「権威的」という言葉がぴったりのように感じます。でもここでは、律法学者の教えには「権威がない」と言われている。

 

 何だか不思議です。教会にしばらく通っている人たちには、どのように聞こえるでしょうか? 人々に権威をもって接していたのは、イエス様だったのか、律法学者だったのか?

 

【権威を持つのは悪い人?】

 おそらく、皆さんの中で「権威的」に見えるのは、やはり律法学者の方でしょう。私もそうです。

 

 ときどき「権威的な牧師」の噂を耳にすることがありますが、ほとんどが否定的な意味で、律法主義的、高圧的、排他的なイメージで使われます。そう、権威って我々が持つと「嫌な感じ」に見えるんです。

 

 私自身、できるだけ「権威的な牧師」に見えないように、メッセージを語るときはけっこう気を遣います。皆さん、あなたは自分の隣人を愛せていますか? 愛せていないですよね? いい加減悔い改めて、互いを思いやってください!

 

 ……こんな言い方できません。もしそんなふうに言えば、信徒の誰かが手を上げてこう言ってくるかもしれません。

 

 「ところで先生、昨日あなたは電車の中でお年寄りに席を譲りませんでした。あなたの隣人は目の前で30分立ちっぱなしの高齢者ではないということですね?」

 

 別の人はこう言います。「先生はこの前、『子どもたちともっと関われ』とおっしゃいましたが、最近幼稚園で牧師の姿を見ないんです。先生は例外ですか?」

 

 これでは困ります。権威を持つということは、言葉と行動が伴っているかどうか常に見られるということです。そんなの私はごめんですし、あまり覗き込まれたくありません。だから、こう言います。

 

 皆さん、私も隣人を自分のように愛せません。非常に難しい教えです。でも、イエス様がこう言っているんだから、お互いできるだけがんばりましょう。

 

 あるいはもっと簡単に、「悔い改めるべきはあなたです!」なんて言わないで、ここにいない第三者、私にもあなたにも関係ない、かわいそうな人たちのことを話します。

 

 そうすれば安心してみんな聞くでしょう。こういう悪い人たちがいますね。こうならないように気をつけましょう。大丈夫、あなたを責めているわけじゃない。

 

 こう言えば、私も皆さんも自分の生き方を変える必要はないし、自分の考えを覆される心配もありません。当たり前だと思っていた態度、常識、行動が、実は変えなければならないものだなんて、今更聞きたくないでしょう?

 

 もしも、こちらの生き方を変えようとする者がいれば、それこそ「何の権威でそんなことするんですか?」と聞けばいい。

 

 そう、「権威がある」ということは、何を根拠に我々を教えているか、常に問われるということです。

 

 これって相当厄介で、大胆なことを言えば言うほど、みんなから突っ込まれることになります。だから、牧師や教師は先手を打って、自分ではなく別の誰かの権威を借ります。

 

 皆さん、私がここで話すのは、決して私が勝手に考えてきたことではありません! 注解書にこう書いてあるんです。カール・バルトもこう言っています。フォン・ラートによれば……E.P・サンダースは……フィリス・トリブルが……

 

 もしも、今まで誰かが言ったことのない定説に反するようなことを言えば、ブログやSNSでメッセージを公開している私に、すぐさま突っ込みが来るでしょう。

 

 それは誰の意見か? 何の権威で言っているのか? 旧約学会では聞いたこともない! 組織神学の教師の前で同じことが言えるのか?

 

 いえいえ、誤解なさらないでください。私はこれまでの解釈に従っているだけです。教義にも教理にも反していません。ほら、この人もこう言っているし、あの人もああ言っています。キリスト教会の根幹を揺るがす問いかけなんて、今更するわけがない!

 

 でも、イエス様は私と正反対のことをやりました。「権威ある新しい教え」を語った。

 

 律法学者たちは、むしろ私に近かったと思います。旧約にこう書いてある。それについて、ラビの誰々はこう言っている。また、別のラビもああ言っている。だから、この規定についてはこう解釈するのが正しいんだ。

 

 私は勝手なことを言っているじゃない。この教えは、誰々と、誰々と、誰々の教師3代に渡って語られてきたことなんだ!

 

 権威についてうるさかった彼らこそ、慎重に自分ではない誰かの権威にすがりました。そして結局は、自分の言いたいことを言っていました。

 

 みんなから突っ込まれない、受け入れられやすい、伝統的で安心できる解釈を。それは自分自身の行動や思考も変える必要がない、安定した日々を送れる教えだったんです。

 

【権威を持ちたくない人々】

 一方イエス様は、「何世代前の教師が」「どこどこのラビが」という言い訳がましい前置きを一切付けず、自分自身が責任を持って一つ一つの教えを語ります。

 

 しかも、その内容はかなり厳しい。「人を裁くな」「敵を愛せ」「七の七十倍まで赦しなさい」……それってあなたもできているんでしょうね?

 

 この問いに答えるためには、最も辛い結末を迎えなければなりません。自分を裏切る者を「友」と呼び、自分を見捨てる者にパンを裂き、自分を殺す人々の赦しを神に願う。

 

 権威をもって語ったばかりに、彼の人生はめちゃくちゃです。言葉と行動を伴わせる、自らの発言に責任を持つ……本来の意味での「権威」は、その人をギリギリまで追い詰めます。

 

 さらに、イエス様は誰に対しても権威をもって接しました。普通、どれだけ権威的な人間でも、自分の存在を脅かす相手には、なるべく権威を振りかざしません。

 

 この国の首相だって大国の大統領にはへつらいますし、会社の社長だって株主を叱りつけることはありません。

 

 でも、イエス様はあろうことか民の指導者である祭司長やファリサイ派、律法学者たちを公然と非難し、悔い改めを迫ります。そんなことすれば、どうなるか分かりきっているのに。

 

 案の定、彼らは徒党を組んでイエス様を罠にはめ、処刑する段取りを整えます。権威をもって行動すれば、変化を求められた一部の人から反感を買います。

 

 俺たちはそんな変化を求めていない。あんたに言われる筋合いはない。そして攻撃を受けるようになる。

 

 こんなとき、「権威的な牧師」なら誰かを盾にして自分を守るでしょう。危険が迫れば身代わりにできる従順な信徒を側に置く。でも、イエス様は自分の身が危うくなると、誰かを盾にすることなく、人々の間をすり抜けていきました。

 

 むしろ、彼が近くに置いていたのは、いざと言うとき自分を見捨てて逃げてしまうような弟子ばかり。結果、人々の身代わりになったのはイエス様の方でした。

 

 全ての人の罪を背負って、その罰を身に受けられる。自分が代わりに十字架へつけられる。イエス様の権威は、人々を押さえつけるためではなく、みんなを解放するために振るわれました。

 

【悪霊を黙らせる権威】

 私の中にあるイエス様のイメージは、権威的というよりは優しく穏やかで、慈愛に満ちたイメージです。

 

 でも、実際にイエス様が言ったことはけっこう厳しいし、神殿の中から商売人を追い出したり、弟子たちを叱りつけたりした行動は、なかなか激しく権威的です。そして、今日読んだところでも、イエス様の権威的な振る舞いが描かれていました。

 

 「黙れ、この人から出て行け」こんなこと誰かに言われたら、震え上がっちゃいますよね。ある場所から、ある人を追い出す。私にはその権威がある。これ以上ない象徴的な台詞です。

 

 記者会見をしている人間が、一部の記者を指差して「出て行け」と怒鳴りつける。学校の教員が生徒たちの目の前で、一人のクラスメートを追い出してしまう。

 

 でも、一歩間違えれば大変な目に遭います。「何の権威でそんなこと言うんですか?」「私の権利を侵害しましたね?」「訴えさせてもらいます」

 

 だから、多くの権力者が追い出すのは、抵抗する力のない弱い者たちです。しかし、イエス様はどうでしょう?

 

 イエス様が叫んだのは、いつものように会堂で教えているときでした。安息日、私たちと同じように聖書を開き、みんなで礼拝を守っていたとき。その日、厄介なことに汚れた霊に取り憑かれた男が来ていて、急に叫び始めました。

 

 「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか」……権威ある者としてこの場にいたら、皆さんはどうするでしょうか?

 

 自分が教室で教えているとき、急に泣きわめき始めた一人の生徒。誰かに虐められたらしい。やれやれ、困った。授業をぶち壊されてしまった。

 

 その子が助けを必要としているのは分かります。いじめに苦しめられている。解放されたいと願っている。だけど、そんなことより、今はこの場を何とか鎮めたい。

 

 「黙れ、ここから出て行きなさい」「泣き止まないなら教室の外で待っていなさい」……これがたいてい見られる反応です。

 

 権威を持った多くの人間はこうします。いじめた人間を追い出すよりも、いじめられて泣いている子を追い出してしまう。そうじゃないと、自分の立場が保てない。

 

 しかし、イエス様は違います。イエス様が追い出したのは、泣き叫んでいる人間ではありません。その人を苦しめている力そのものを追い出します。

 

 「黙れ、この人から出て行け!」男を苦しめていた悪霊は大声をあげて出て行きました。生徒を泣かせたいじめっ子は、悪態をつきながら出て行きました。

 

 この後、保護者や教育委員会やらとの厄介な話し合いが待っています。いじめっ子の両親はモンスターペアレントかもしれません。しかし、その場にいた生徒たちは、この人を見て思いました。

 

 「権威ある新しい教えだ」……誰も今までこんなことしなかった。この人は僕らに寄り添ってくれる。私たちの教室を変えてくれる。

 

 イエス様の評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まって、私たちのところにまで聞こえてきました。私もこの方に従いたい……だから、皆さんの受け入れ難いことも言っていきたいと思います。

 

 「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」……そう、悔い改めるべきは、あなたです。