ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『父親のルールを破る?』 マルコによる福音書2:23〜28

聖書研究祈祷会 2019年5月8日

 

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【ルールを破ってもいい?】

 「腹を立ててはならない」「悪人に手向かってはならない」「だれかがあなたの右の頰を打つなら、左の頬をも向けなさい」「敵を愛しなさい」

 

 イエス様が教えた新しい掟、キリスト者が守るべきルール。その中にはかなり厳しい、ハードなものが含まれます。守れと言われても難しい。破っている人がほとんどで、まともに実行している人はなかなか見ない。

 

 スピード違反、信号無視、ゴミの分別、駐車違反……日常的に多くの人が犯しているルールと大して変わらないかもしれません。あってないようなルール、ちょっとくらい破っても仕方がない、問題がないと思われる掟。他にもたくさんあります。

 

 「地上に富を積んではならない」「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな」

 

 これをリアルに守れる人は、シスターか修道士、世捨て人くらいじゃないでしょうか? 毎日の生活に必死になって、あれやこれやと思い悩む人にとって、暴力的にも感じられる掟です。まだまだあります。

 

 「人を裁くな」「互いに愛し合いなさい」「七の七十倍まで赦しなさい」……許せない人がいる、愛せない人がいる。それが私たちの現実です。この現実に対して、なんて空気を読まない要求でしょう?

 

 我々は聖人じゃありません。「こういう場合は許せなくても仕方がない」「こういう場合は例外を認めてもいい」そういった注意書きが欲しくなります。

 

 しかし、イエス様は復活した後、弟子たちにこう命じました。私を信じる者には、これらを全て守るように教えなさい……なんという無茶ぶり!

 

 日頃から言い争いを繰り返し、自分たちの地位や財産に固執していた弟子たちに対し、「はい、分かりました」と即答できないことを命じられる。こう言ったからには、イエス様もきちんと掟を守ったんでしょうか?

 

 イエス様のお父さん、神様が人々に与えた掟、十戒をはじめとする「律法」には、613もの細かい戒律が定められていました。神の子であるイエス様は、それらを当然守っていたはずです。

 

 ところが、先ほど読んだ聖書箇所には、イエス様が父親の定めたルールを破る、神様の掟を蔑ろにするようなエピソードが記されていました。

 

【イエス様がルールを破る】

 ある安息日、「仕事をしてはならない」と定められた休日に、イエス様が麦畑を通っていかれると、一緒についてきた弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めます。

 

 他人の畑から勝手に摘み取るなんて、なかなかの問題行動です。しかし当時は、空腹に困っている人が、隣人のぶどう畑や麦畑から、ちょっと摘み取って食べる程度なら許されていました。ある意味、現代よりもゆるくて寛容な雰囲気です。

 

 ところが、それを見たファリサイ派、旧約に精通する律法に詳しい人々は、イエス様に「御覧なさい、なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言い始めます。

 

 そう、麦の穂を摘むことは、平日なら別にかまわないものの、安息日には禁じられた行動の一つとされていました。

 

 出エジプト記34章21節に、「あなたは6日の間働き、7日目には仕事をやめねばならない。耕作の時にも、収穫の時にも、仕事をやめねばならない」と書いてあります。

 

 にもかかわらず、弟子たちは畑で麦の穂を摘むという作業をしてしまいました。イエス様は、自分の弟子たちが神様の掟を破るのを、黙って見ていたことになります。

 

 それくらい別にいいじゃないか? 腹が空くのは仕方ないんだし……で済ませるには、ちょっと部が悪いものがありました。

 

 ついさっき話してきたように、イエス様が私たちに守るよう教えられた新しい掟にも、「それくらい別にいいんじゃないか?」「破っても仕方ないでしょ」と言えることが山ほどあるからです。

 

 腹を立てるな、思い悩むな、愛し合え……それができない理由なんて、いくらでもあげつらえます。イエス様と弟子たちだけはルールを破っても認められるなんて、何だかフェアじゃありません。

 

 守るべきルールが侵されると言えば、ここ数年の間、ルールを守らない政治家のニュースが繰り返し報道されてきました。

 

 不正の発覚、議事録の改ざん、それらの隠蔽……国会で定められたルールに則って行動するのが彼らの立場のはずですが、多くは未だ罪に問われないままスルーされています。

 

 仕舞いには、ルールそのものを都合よく解釈し、自分たちが罰されないようにしている。イエス様は、彼らと同じじゃないと証明してくれるんでしょうか? よっぽど説得力のある説明を私たちにしてくれるんでしょうか? 

 

【例外が成り立たない?】

 気になる私たちに、イエス様は語り始めます。

 

 「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」

 

 これ、どんな話かと言うと、自分の暗殺を図るサウル王から逃れたダビデが、親友ヨナタンの手引きで祭司アヒメレクのところに立ち寄り、自分と従者のためにパンを求めたという場面です。

 

 ところが、その日は神殿の祭壇に供えるパンを「供え替える日」で、あいにくアヒメレクのもとには普通のパンがありませんでした。その日も仕事をしてはならない「安息日」だったからです。

 

 そこで彼は、「聖別されたパン」すなわち「焼きたての供えのパンに替えて、祭壇から取り下げた供えのパン」をダビデと従者に与えます。

 

 ようするに、本来祭司しか食べることが許されていない「供えのパン」を、ダビデが空腹のために食べたことを持ち出して、安息日に麦の穂を摘んだ弟子たちの行為を正当化したわけです。

 

 なるほど、サウル王から命を狙われ、死ぬほど空腹だったダビデたちが、禁を犯して供えのパンを食べたことは、確かに弁護に値します。しかし、それを理由に、イエス様が弟子たちの行動を弁護するには、いくつかの難点がありました。

 

 まず、この理由を用いるなら、弟子たちも「空腹のために」麦の穂を摘んだのでなければなりません。ところが、マルコによる福音書には、弟子たちの空腹について一言も述べられていませんでした。

 

 そう述べるのは、同じ出来事を後から記したマタイによる福音書12章1節ですが、これは明らかにマルコの不足を補ったものです。

 

 また、弟子たちが摘んだ穂を「食べた」と述べるのも、マタイによる福音書とルカによる福音書6章で、今日読んだマルコによる福音書には「摘んだ」ことしか書いてありません。

 

 ここだけ見れば、彼らが麦の穂を摘んだのは、その場で食べ始めるほど切迫していたからでも、空腹だったからでもなく、たまたま畑を通りかかったかのように見えてくるわけです。

 

 しかもイエス様、ダビデの話を持ち出す際に、本来は祭司アヒメレクが出てくるところを、祭司アビアタルと言っています。アビアタルはアヒメレクの息子です。

 

 単に、福音書の記者が書き間違えただけかもしれませんが、ちょっと突っ込みたくなりますよね。ファリサイ派の人たちは絶好のチャンスです。

 

 あなたはたいそうなことを言いますが、してはならないことを放置しているし、引用した話には間違いがあります! さあ、弁明し直して御覧なさい!

 

【そんなルールない?】

 ところが、です。ダビデの話を持ち出して、弟子たちの行動を正当化しようとするイエス様の引用に間違いがあると気づいたとき、ファリサイ派の人たちも突っ込もうとして、ふと立ち止まざるを得なくなります。

 

 なぜなら、「麦の穂を摘む行為が安息日にしてはならないことである」という自分たちの主張も、何から引っ張ってきたか問われる可能性があるからです。

 

 確かに、「安息日に麦の穂を摘んではならない」という主張が、イエス様の時代に存在したことは疑いの余地がありません。しかし、実は旧約聖書そのもの中に、この規定を記した直接の証言は出てこないんです。

 

 申命記23章26節には、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」と出てきますが、安息日は関係ありません。

 

 最初に持ち出した出エジプト記34章21節にも、安息日には一切仕事をしてはならないとありますが、麦の穂を摘むことがそれに反するとは書いてありません。

 

 むしろ、安息日に禁じられた作業の中に「麦の穂を摘む」という行為が含まれるようになったのは、旧約聖書が作られたずっと後でした。

 

 ファリサイ派の人たちは、イエス様が旧約に立ち返ってダビデの話を持ち出したことで、彼ら自身も旧約に立ち戻って、何を持ち出すべきか考えざるを得なくなりました。

 

 それによって、彼らは自分たちこそ神の掟を勝手に解釈し、勝手に付け加えていることに気づかされます。「安息日にしてはならないこと」とは何だったのか、改めて考えさせられたんです。

 

【何のためのルール?】

 イエス様はさらにこう言います。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」

 

 一切の仕事を休むよう決められた安息日が、何のために定められたのか、皆さんは知っているでしょうか?

 

 創世記に出てくるように、「神様がこの世界を造るとき7日目に休まれたから」これが最も有名な理由でしょう。しかし、安息日の由来について、もう一つ説明してくれている箇所があります。それは、出エジプト記23章12節で、こう言われています。

 

 「あなたは6日の間、あなたの仕事を行い、7日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」

 

 安息日は人のために定められた。人が命を維持するために、人が回復するために、神様が定めてくださった。神様のルールは、人を縛り付け拘束するためではなく、人を救い解放するためにある。イエス様はそう語られます。

 

 最初に、皆さんに語った数々の掟、「腹を立てるな」「人を裁くな」「敵を愛せ」……イエス様の教えた新しい掟も、決して人を拘束するために語られたものではありません。怒りや憎しみに囚われてしまう私たちを、解放するために語られた掟です。

 

 イエス様は、かつて神様が与えた掟の例外を作って、罪に問われるのを避けたわけではありませんでした。むしろ、神様が何のためにその掟を与えたのか、一番分かっていたからこそ、ダビデの話を語り、安息日の意味を教えようとしたんです。

 

 そして、これらの掟を与えた神様に従って、自ら十字架につけられるまで、イエス様は人を赦し、愛し、守られました。

 

 やがて、復活したイエス様は改めて私たちに命じます。「互いに愛し合いなさい」……この掟を、もう一度よく見つめたいと思います。

 

 厳しい、難しい、守れない、それでも仕方ないよね……で済ませる前に、何のためにイエス様がこの教えを語られたのか、一緒に考えていきましょう。