ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『機嫌が悪いイエス様?』 マルコによる福音書7:24〜30

聖書研究祈祷会 2019年5月29日

 

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【冷たい態度のイエス様】

 イエス様が女性や子どもに対し、冷たい態度をとる。無視や拒絶の意志を見せる。そんな話、なかなか受け入れられません。

 

 あらゆる所で悪霊を追い出し、病人を癒し、困っている人をたくさん助けてきた。周りから蔑ろにされる弱い人にも、他の人と変わらない態度で接してきた。

 

 そんな思いやりあるイエス様が、ここではとんでもない姿を見せます。「悪霊に取り憑かれた娘を助けてほしい」そう願う外国人の女性に、はっきりと拒絶の意志を示す。

 

 彼女たちを「犬」呼ばわりし、同胞のイスラエル人と比較する……あってはならない態度です。イエス様らしくありません。

 

 マタイによる福音書の並行箇所でも、イエス様は彼女を無視し、「わたしはイスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えます。

 

 完全に外国人を排除しにかかっていますよね。「わたしはあなたと関係ない」「あなたたちがどうなろうと、知ったことではない」そんな冷たい態度です。

 

 イエス様は、誰に対しても、優しく温かく接してくれる方ではなかったか? 人種・性別・立場を超えて、救いをもたらす方ではなかったか? 

 

 どうしてここでは、偏見と思い込みに満ちた差別主義者のような発言をするのか? 障害者、皮膚病患者、徴税人、罪人と呼ばれる人たちを受けとめながら、なぜ彼女にはそうしてくれないのか?

 

 最終的に、イエス様はこの人の頼みを聞き、娘を助けてあげますが、それは彼女が模範的な信仰を見せたからでしょうか? 本来は助けるに値しない者を、その卑屈さとへりくだった態度に免じて、特別に助けたということでしょうか?

 

 彼女は神様から選ばれていない外国人にもかかわらず、イエス様に信頼したから、特別に面倒を見てもらえた……そう捉えろと言うんでしょうか?

 

 だとしたら、これは相当上から目線の話です。「ある人たちは本来救いから外れているが、模範的な態度を見せたら、こうやって助けてもらえるぞ」「下賤で卑しい存在でも、ここまで謙虚にへりくだれば、キリストは救ってくれるんだ」

 

 色々な言葉でオブラートに包みながら、結局はそういうメッセージを、我々は長いこと聞いてきた気がするんです。

 

 でも、たぶん違います。この話は外国人のお母さんが、イスラエル人のおこぼれをもらったという話じゃありません。むしろ、あらゆる垣根を超えて救いを求める彼女の姿勢が、自分の生き方と一致していることをイエス様が示した話だと思うんです。

 

 なぜなら、イエス様はこの出来事の前と後で、あらゆる区別を超えて行動する姿を見せているからです。

 

【境界線を越える】

 実は、この箇所の直前で、イエス様は律法学者の人たちと「身を清める」ことについて論争し、弟子たちとも「身を汚すもの」について議論していました。

 

 「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」

 

 こう言って、イエス様は「口にしたら汚れる」と言われていた食べ物や、「こうしないと汚れてしまう」と言われていた行動よりも、自分の中にある悪意や貪欲、傲慢や無分別などを避けなさいと語ります。

 

 よく考えればこれは「異邦人と接触すれば汚れてしまう」「外国人を避けなければ」と考えている人たちに、「外からの者があなたを汚すのではなく、あなた自身の悪意や高慢があなたを汚す」というメッセージにつながってきます。

 

 事実、イエス様はこの話をした後、ゲネサレトを立ち去って、非ユダヤ人地域であるティルスの地方へやって来ます。

 

 さっそく、汚れをもたらすと考えられる境界線を超えてくるんです。ただ、もしかしたらイエス様は、単に人々から離れて、一人きりになるためにこの地方までやって来たのかもしれません。

 

 イエス様がある家に入ったとき、「だれにも知られたくないと思っていた」ことが書かれているからです。わざわざティルスまでやって来たのは、ここまでは誰も追ってこないと思ったからでしょうか?

 

 律法学者との論争に疲れたのか、押し寄せる群衆に嫌気が差したのか、あるいは、洗礼者ヨハネが殺されたことに、まだショックを受けていたのか。

 

 いずれにせよ、イエス様には人々から離れて休もうと思っているようでした。ところが、イエス様が家に入って間もなく、あっさり人々に気づかれてしまいます。

 

 他の箇所なら、イエス様に気づいた群衆は、すぐ押し寄せてくるのが常でした。ここでもそうなるかと思いきや、人々がいきなり押し寄せることはありません。

 

 もしかしたら、さすがにイエス様が人目を避けようとしていることに気づいて、みんな気遣ったのかもしれません。あるいは、ティルスの人々は自分たちが押し寄せてやって来ても、相手にしてもらえないと思ったのかもしれません。

 

 そう、ここはユダヤ人ではなく、非ユダヤ人が住むところ。ユダヤ人の王として来たというイエス様が、わざわざ自分たちを救うだろうか? 神に選ばれたイスラエル以外の者を助けるだろうか?

 

 そもそも、異教の神々を持ち込む外国人との接触は、ユダヤ人にとってタブーでした。ティルスに住む人たちも、そのことはよく知っていました。わざわざ近づいて、波風立てることはない。

 

 いずれにせよ、一人になるため、弟子たちでさえ席を外していたイエス様に近づくのは、避けるべきことでした。

 

【どうしてそこまで?】

 ところが、一人空気を読まず、イエス様のことを聞きつけて、足もとにひれ伏した女性がいます。彼女は、汚れた霊に取り憑かれた幼い娘を持つ母で、ギリシア人の女性でした。

 

 唯一絶対の神を信じるユダヤ人に対し、多神教の神々を拝む異邦人。その上、イスラエルにバアル宗教をもたらした、悪名高いシリア・フェニキアの出身でした。

 

 ユダヤ人にとって、異邦人の中でも特に接触を避けたい相手……そんな彼女が、イエス様のところへいきなり押し入り、足もとにひれ伏して頼み込みます。「娘から悪霊を追い出してください」と。

 

 やっと群衆から離れたのに、一人になれたと思ったのに、この女性は空気を読まずにやって来た。一人の頼みを聞けば、「私も!」「俺も!」と次から次へとやって来るのは目に見えています。

 

 イエス様が不機嫌になるのも無理はありません。とはいえ、その後イエス様が続ける言葉は、さすがに辛辣だと思います。

 

 「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」……ここで言う「子供たち」とは神に選ばれたイエスラエルのことで、「小犬」はそうでない異邦人のことを指していると考えられます。

 

 ようするに、「わたしはイスラエルを助けるために来たんであって、あなたの娘を助ける義理はない」と拒絶したわけです。

 

 ただしこの言葉、聖書に出てくる格言とか、ユダヤ教資料にあることわざとか、そういうわけではありません。どこかに合致する言葉がないか探してみても、一向に出てこないんです。

 

 つまり、本来なら正当性のない言葉、無理やり断るために作った言葉でした。マタイによる福音書の並行箇所では、「主よ、ごもっともです」と女性が答えますが、実のところ、「ごもっとも」なんて言える言葉じゃなかったんです。

 

 やっぱり、イエス様らしくありません。断るにしても、もっと別の言い方があったんじゃないか? 何でわざわざ突っ込まれそうな、反論されそうな言い方をするのか? 

 

 かえってこの違和感が、私たちに不審感を抱かせます。もしかしてイエス様は、単に彼女を拒絶しようとしているわけじゃないんだろうか?

 

【女性の反論】

 案の定、彼女は言いました。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と……

 

 あなたがイスラエルのために来られたことは分かっています。でもどうか私たちにも目を留めてください! あなたとイスラエルの関係を損なうことなく、親が子どものパンを奪うことなく、私たち小犬に恵みを与えることは可能です!

 

 イエス様はこれを聞いて、「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と答えます。

 

 もっと直接的に訳すなら、「この言葉のゆえに、家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出ている」となるでしょう。ニュアンス的には、「その言葉を待っていた」「もう大丈夫だよ」でしょうか?

 

 私たちは最初、女性の方がイエス様を必要として、無理やり押し入ったように感じていました。しかし、この言葉を聞くとき、イエス様が彼女の言葉を必要として、これを待っていたようにも感じるんです。

 

 「悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」「あなたの願うように、わたしもそうなることを最初から願っていた」マタイによる福音書だとこうなっています。「あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」

 

 さらに、物語はこれで終わりません。イエス様はこの後、ティルスの地方を去り、シドンを経て、デカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へ帰っていきます。地図を見ればすぐ分かりますが、これはたいへんな遠回りです。

 

 わざわざ、非ユダヤ人の地域をぐるりと通っていく道筋……イエス様は、彼女の言葉を契機として、非ユダヤ人にも積極的に癒しと回復の業を行っていきます。

 

 神様はあらゆるものの区別を超えて、救いをもたらす方でした。人間は本来、自分たちで引いた境界線をなかなか越えることができません。

 

 しかし、イエス様は私たちに、境界線を越える告白をさせられます。彼女のように、助けを求めてひざまずく者へ、さらに大胆な言葉を語らせます。そして、その力をより多くの人へ広げていくんです。

 

 この方が与えるパンを、私たちも受け取りたいと思います。