礼拝メッセージ 2019年6月9日
【一体感がない!】
初めて教会に来た人も、何度か礼拝に出ている人も、今日は戸惑いを覚える人が多いでしょう。何せ、特別な行事が2つも重なっているんです。
一つは、少年少女のために、子ども中心のプログラムを用意する「花の日子どもの日」の礼拝。もう一つは、教会の始まりを覚える「ペンテコステ」の礼拝です。
2つが同じ日曜日に重なったせいで、どこの教会も大変です。いったいどうやって、これらを同じ日にやれと言うんでしょう?
花の日は、一年で最も多くの花が咲く時期に、信徒たちが花を持ちよって教会に飾り、礼拝後、子どもたちに花束を持たせ、病院や警察、消防所などを訪問し、奉仕と感謝を教える日です。
一方ペンテコステは、弟子たちに聖霊が送られた日で、もともとはイスラエルの民が「先祖に対する律法の授与」を記念する日でもありました。
この日に、弟子たちは力強くイエス様の教えを語り始め、各地に教会を建てていきます。まさに、教会の誕生日と言えるでしょう。
一見するとこの2つ、全然別の異なる行事です。一日で両方取り上げるのは、けっこう無茶かもしれません。簡単にまとまるわけがない。
事実、今日の礼拝にチグハグな印象を持った方もいるでしょう。「子どもの日」と言いながら、子どもの姿はあまりない。行儀よく落ち着いて歌う賛美歌と、赤いスカーフを振り回す賛美歌。
おまけに、ペンテコステだから聖餐式もあります。子どもの日だから、教会学校を大人の礼拝と合同にしたものの、子どもたちのほとんどが参加できない聖餐式を、礼拝の中心に据えている……そこで頭を悩ませている教会だってあるでしょう。
一つになって集まったけど、みんながみんなバラバラです。
去年、一昨年と参加して慣れている人、今年初めて参加して戸惑っている人。子どもと大人、古参と新人、新来者と教会員……当然ながら、今この場所に一体感はありません。
てんでバラバラ、人によっては「怪しさ」さえ感じます。こんなのが教会の誕生日、教会の始まりを覚える礼拝なのか。そう思った人もいるかもしれません。
しかし私は、このバラバラな雰囲気で始まった礼拝こそ、ペンテコステにふさわしいと思うんです。だって、聖書を見てくださいよ。
弟子たちが一つになって祈っているところへ、場をかき乱すような激しい風が吹いてくる。炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人にとどまると、彼らは聖霊に満たされる。
だけど、話し出すのは別々の言葉。パルティア、メディア、エラムから、ユダヤ、クレタ、アラビアまで、全部合わせて15の地域、民族の名前が出てきます。弟子たちの数が12だから、言葉と人の数も合っていません。てんでバラバラ、めちゃくちゃです。
しかも、ここに出てくる土地の人々は、だいたい共通語としてギリシャ語かアラム語を話せました。これだけ一斉に別々の言葉を話し始めるより、誰もが分かる共通語で話し始めた方が、よっぽど聞きやすかったんじゃないか?
何かこれ、一体感のない出来事だと思いませんか? まるで今、私たちが一体感を得られないまま、礼拝に与っているように、初代教会の始まりも、てんでバラバラな様子を見せています。
【弟子たちの裏切り】
いやいや、ペンテコステは異なる言語の人々が、同じメッセージを共有した感動的な始まりなんだ。そう主張する方が、牧師としては正しいかもしれません。確かに、聖霊が降るという出来事は、とても魅力的に感じます。
子どもたちなら、きっとこう言うでしょう。「弟子たちみたいに、外国の言葉が話せるなら、僕も聖霊に満たされたい!」「私だって、今まで出来なかった英語やドイツ語が話せるようになってみたい!」
大人でも、弟子たちを羨むことに変わりはありません。「聖霊を受けて、自信や勇気が湧いてくるなら、我々もぜひあやかりたい!」「うちの教会にもリバイバルが起こされ、たくさん信徒が増えてほしい!」
五旬祭の日に起きた聖霊降臨の出来事は、良いことずくめに感じます。羨ましいし、憧れる。
でも、これって単なる喜劇とは違うんです。必ずしも良いことだけじゃなかったんです。むしろ、この出来事に触れた人たちは、思い出したくもない過去の回想を余儀なくされます。神を前にして一つになれない、バラバラになった自分たちの姿。
ペンテコステは最初、沈黙から始まりました。エルサレムの宿に皆が集まり、縮こまって祈っているところから。使徒言行録の前編に当たる、ルカによる福音書の最後とは随分異なる様子です。
彼らは、イエス様が天に挙げられた直後、大喜びで神殿の境内に入って神をほめたたえていました。
しかし、それから間もなく家に入り、身を隠すように一つとなって、静かに祈り始めます。まるで、復活したイエス様と出会う前の彼らに、逆戻りしてしまったかのようです。ユダヤ人を恐れて戸に鍵をかけ、家に閉じこもっていたあの頃に……
いったい何があったら、さっきまで大喜びしていた人間が、ここまでしんみりするんでしょう?
実はこの直前に、ちょっと生々しいシーンがありました。それは、イエス様を裏切ったユダに代わって、新しい使徒が選出される場面です。ペトロはそのとき、自分たちから欠けたユダが、どのような結末を迎えたか語ります。
「このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その地面にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました」
実際に、ユダがそのような死を迎えたかは疑問です。他の福音書では、裏切りを後悔したユダが、自ら首を吊って死んでしまったとも書かれています。
もしも、ペトロがその死を脚色しているのなら、私たちは聞くに耐えません。ユダの結末を語るペトロもまた、繰り返しイエス様を裏切った人間だから。
彼はイエス様が敵に捕まったとき、遠く離れて従ったものの、自分がイエス様の仲間だとバレそうになると「わたしはあの人を知らない」と3度にわたって否定しました。マタイによる福音書では、彼がそのとき、呪いの言葉さえ口にしたと書かれています。
裏切り者が、ユダ一人でなかったことを思い出すとき、ペンテコステの直前に、ペトロが殊更、ユダを非難し、代わりの者を選び出そうとしたことは、何だか空虚な気持ちになります*1。
その場にいた全ての弟子が、自分もイエス様を見捨てて逃げたこと、その死に目にさえ会わなかったことを思い出したことでしょう。
本来は自分も、イエス様を裏切り見捨てた者として、地面に落とされ、体を裂かれ、はらわたを出していたはずではないか?……罰の悪い空気が部屋の中を満たし、12使徒は沈黙します。
神をほめたたえていた彼らの口は、自らの罪、過去の行いによって重くなり、再び閉ざされてしまいました。ユダの代わりを選出することは、確かに必要だったんでしょう。
しかし、振り返りたくない過去に触れ、自分の行為を回想した彼らは、12使徒が揃った今も、重苦しい雰囲気の中、動くことができません。イエス様を離れ、ついていけなかった自分、バラバラに逃げ出した自分たちの過去が、重くまとわりついていました。
【共同体の裏切り】
もちろんこの後、彼らのもとに聖霊が降ると、弟子たちは元気を取り戻します。沈黙を破る新しい風が吹いて、重い空気が押し出されます。
よかった、これで重苦しい雰囲気が取り払われた! そう思ったのも束の間、今度はイスラエルの民全体の振り返りたくない過去の断片が出てきます。
一箇所に集まっていた者たちが、別々の言語で話し出す。それは、創世記11章に記されたバベルの塔の出来事を思い出させるからです。
新しい技術を得た民が、天まで届く塔を建て、全地に散らされないよう有名になろうとした。けれども、彼らは先に神様と約束してました。
「産めよ、増えよ、地に満ちよ」……ノアの洪水後、神様から命じられた言葉をあっさり忘れ、彼らは地に満ちるのではなく、一箇所で生活しようとします。塔を中心に、排他的閉鎖的な集団を形成し、どこにも散らされないようにする。
しかし、神様はこれを見て、人々の言葉をバラバラにし、結局全地に散らされました。神様の教えを守れなかった、人類の痛い記憶です。
これからまた、神様の教えを語っていくというときに、あまり思い出したくない過去です。何せ、神様との約束を破り、民がバラバラにされるというのは、痛いほど繰り返してきたことだから。
人々は、神様に背いてはアッシリアに、バビロニアに、ローマ帝国に攻め入れられ、捕虜にされ、母国と引き離されました。
遠く離れた外国の地で、いつか先祖の故郷、エルサレムに帰ることを願い、ついに自分の国へ帰って来たユダヤ人の子孫たち。それが、各々の出身の言葉を聞いたディアスポラの民でした*2。
彼らにとって、故郷の言葉を聞くことは、果たして望ましいことだったのか? 捕虜だった親、寄留者だった過去、国へ帰って来たにもかかわらず母国語が話せない自分。
かつて住んでいた土地の言葉は、触りたくない過去の歴史も回想させます。礼拝ができず、教えが守れず、仲間と一緒に帰ってこれなかった自分たち。置いてきた者、見捨てた者、あるいは、神様を裏切り続けた以前の生活。
各々が出身地の言葉を聞いて感じたのは、喜びや感動ではなく、驚きと戸惑い、怪しさでした。
なぜ、神の言葉を聞き得なかった、受け入れてもらい得なかった、あの頃の私を呼び起こす? どうして、改宗する前だった、回心する前だった、罪深い私へ語るように、その言葉で話すのか?
信心深いユダヤ人たちは、信心から離れた自分の姿を思い出し、うろたえていたことでしょう。
ちょうど、弟子たちがイエス様を裏切り、見捨てた過去に打ちのめされていたように。誰もが皆、神様を離れ、ついていけなかった自分、仲間と一緒に神様を信じてやってこられなかった過去を引きずっていました。
【世代を超える出来事】
てんでバラバラ、一体感のない様子……唯一、全ての人に共通するのは、聖霊による言葉が自分に語られるのを聞いたということです。私のために、私の言葉で語られた。12人しかいない弟子たちから、それ以上の言語で一人一人に語られた。
ただでさえ、あり得ないことですが、もっとあり得ないのは、ここに出てくる全ての地域・民族から、人々が集まってきたという話です。
たとえば、メソポタミアからエルサレムへ来るには、160㎞以上の旅をしなければなりません。地理的に相当無理のある帰還者です*3。
パルティア、メディア、エラムからの者というのは、それぞれ民族を指していますが、これらの人々が集まるのも、歴史上あり得ないことでした。
なぜなら、メディア人は少なくとも2世紀前に全滅していた民族だから……本来、使徒たちの時代にはいなかったはずの人たちへも、聖霊の言葉は語られました*4。
この日、この時、エルサレムでは、今いる者も、既に亡くなった者も集められ、あらゆる言語を語る者、あらゆる世代を生きる者に、聖霊が注がれていたんです。そう、あなたもあなたの両親も、亡くなった祖父母たちでさえ、集められていたんです。
場所を超え、時間を超え、聖霊はあらゆる人へ注がれました。神様から離れた者も、イエス様を見捨てた者も、過去を引きずり、過去に潰されそうだった者も、皆聖霊によって語られました。
イエス様は、あなたを罪から救うために十字架にかかり、あなたと和解するために復活してきてくださった。バラバラの民を一つにし、生きている者も召された者も、共に神の国で食卓につくように。
「いったい、これはどういうことなのか?」人々の驚きと戸惑いは、最初に驚き怪しんだ反応とは、いくらか違ったものだったでしょう。
過去を回想した自分たちが、過去に分断された者たちと、なぜか同じ場所に居合わせていた。一緒に集まれないはずの者、一つになり得ないはずの者が、共に言葉を聞いている。
てんでバラバラな人たちが集まるとき、私たちは一人の神様と出会いました。私たちを繋げる方と出会いました。それは、今日でも同じです。みんなで賛美を歌うとき、かつての歌詞と今の歌詞とが聞こえてきます。
主の祈りを唱えるとき、文語訳と口語訳が聞こえてきます。古参の信徒は懐かしい言葉に力づけられ、若者は自分に向けられた言葉を聞いています。同時に、召された信仰者たちもそこにいます。
私たちは、かつて自分のために語られた言葉を、今度はここに集う誰かのために語ります。バラバラだった私たちが、今ここに集められたことを感謝して、共に祈り、共に歌い、共に食べ、共に飲むんです。
この後、私たちはキリストの十字架と復活を思い起こす聖餐式に与ります。聖餐式は、死者と生者の隔てを超えて、天においても地においても、共に神様との食事に与るときです。
今日、私たちは時間と場所を超え、信仰の先人たちと、同じ食卓につこうとしています。
この聖餐式には、洗礼を受けていない、子どもや大人も出ています。「いったい、これは何だろう?」「何か怪しいことをやっている」……戸惑い、不思議がる者もいるでしょう。その一人一人に語るため、聖霊はあなたの口を開かせます。
この子のために、この人のために、その人の言葉で語ること、歌うことを促します。かつて、キリストの弟子だと言えなかった、家に閉じこもっていた、あなたの口を開かせて……だから、彼らのために祈り、歌い、語りなさい。