礼拝メッセージ 2019年6月16日
【脅迫的な結び】
「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです*1」……ペンテコステの日、聖霊を受けたペトロが最初に語ったメッセージ。非常に生々しい言葉で終わっています。
「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」「あなたがたが、最も残酷な処刑法で、死に貶めたあのイエスを」神は主とし、救い主となさった。誰がどう聞いても、聞き手が責められている印象を受けます。「お前が殺ったんだ!」という響き。
あなたは間違いを犯した。正しい者を、善良な者を、自分を救い出す者を殺してしまった。さあ、これから報いが待っている! どうすればいいか聞きたいか?
暗にそう言っているんだとしたら、人々は狙いどおりに聞いてきます。「わたしたちはどうしたらよいのですか?*2」
ペトロは次の箇所で答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい*3」
私には、この流れがどうしても不穏に感じます。というのも、恐れや不安をかきたて、人々を入信させる破壊的カルトの手口を彷彿とさせるからです*4。
ペトロは別に、人々へ無理やり洗礼を施したわけじゃありません。「あなたたちは自分たちの救い主に拳を向けた」「今すぐ悔い改めて洗礼を受けなさい」そう勧めてきただけです。
でも、あの生々しい言葉を聞けば、何となく次のような印象を受けるでしょう。「このままでは罪を赦されず、メシアを殺した罰を受ける!」
ある霊媒師を訪れた相談者が言いました。「この前、息子が道端で蛇を殺して以来、何だか不安が消えないんです」
霊媒師は答えます。「その子が殺した蛇は神の使いです。今すぐ赦しを乞うて、お供えしてください。このままでは罪を赦されず、一家全体に呪いが降りかかるでしょう」そうして後から、高額なお布施を要求する。
途中まで、よく似た流れですよね? 別にユダヤ人の多くは、直接イエス様に手をかけたわけじゃありません。死刑に賛成したか、反対しなかっただけです。しかし、ペトロははっきりと、容赦なく彼らに責任を突きつけます。
「あなたがたが十字架につけて殺した」「あの日、あそこで殺された、私たちの身代わりとなった方の死に、あなたも関わっている」「あなたも、彼の死に責任がある一人だ」
同様のことが、私たちにも言われます。2000年という時を越えて、あなたもキリストを十字架につけた、罪ある人間の一人なんだと語られます。
神に背き、良心に背き、自分自身を正当化するあなたもまた、救い主を死に貶め、捨ててしまった一人なんだと。だから、悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。
私は自分自身が多くの過ちを犯し、罪を抱えている一人だと認めますが、じゃあ他の人に対しても、「あなたは罪人だからこのままじゃいけない」「洗礼を受けないと救われない」なんて脅すような伝道をしていいものか、いつも疑問に思うんです。
だってそれ、「救いの確信」じゃなくて、「恐怖の押し付け」じゃないですか?
【語り手の背景】
問題のメッセージは、復活したイエス様が天に上った10日後に語られました。弟子たちが約束された聖霊を受け、他の国々の言葉で話し出したとき。集まっていた人々は皆驚き、戸惑いながらこう言います。
「いったい、これはどういうことなのか?」中には嘲ってこう言う人も出てきます。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」*5
ペトロが口を開いたのはこのときです。彼は今まで一人だけ座っていたのか、ようやく立ち上がって、他の11人と並びます*6。そして、声を張り上げて言いました。
「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります!*7」
ペトロの説教の始まりです。彼は弟子たちを指してこう言います。「この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません*8」
彼は「私たちは」と言わず、「この人たちは」と、自分以外の11人について話します。彼だけは、他の国々の言葉で話し出さず、今まで沈黙していたんでしょうか?
ペンテコステの日、私たちは12人の弟子たちが、一斉に他の国々の言葉で語り出したとイメージします。
でも実は一人だけ、他の弟子たちが立っているとき、まだ座っている者がいた。みんなが語り始めたとき、まだ沈黙している者がいた……改めて読むと、そんな印象を受けるんです。
この異常な光景の中で、一人座って沈黙していた男が、立ち上がって声を張り上げる。周りにいた人々は思わず注目したでしょう。最後に立ち上がった彼こそが、弟子たちの中心的人物、イエス様の、最も近くでお仕えしていたペトロです。
同時に彼こそが、弟子たちの中で唯一、イエス様を三度も否定した人物……「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております*9」
そう言っておきながら、自分が捕まりそうになると「わたしはあの人を知らない」「仲間じゃない」と言ってしまう*10。その場から逃げ出し、イエス様が死ぬときも、遠くから見ていることさえできなかった。
「あなたがたが十字架につけて殺したイエス!」ペトロがそう口にするとき、同様に彼も言われるでしょう。
「あなたが三度否定したイエス!」「あなたが見捨てて置き去りにしたイエス!」「あなたが見るまで信じなかったイエス!」……彼はよく、こんなこと口にしたと思います。
「いやいや、あんたこそ!」「お前もやった一人じゃないか!」確実にそう言われるであろうこと、自身の失態を思い出させる厳しい言葉を、わざわざ言ったわけですから。
私が今日講壇から「あなたがたもキリストを十字架につけた一人です」と言えば、皆さんも言うべきでしょう。「あなたも自分のことを棚に上げ、キリストを捨てた一人でしたね」と。
【死んだままじゃない】
ところが、ペトロがこのメッセージで語るのは、「あなたも私も、イエスを捨てた」という事実だけじゃありません。むしろ、彼が語りたかったのはこっちです。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました!*11」
この後くどいほど、「イエスは死んだままじゃない」という言葉が出てきます。
「イエスが死に支配されたままでおられることは、ありえなかった*12」「神はその魂を陰府に捨ておかず、朽ち果てるままにしなかった*13」「キリストの復活は前もって預言されていた*14」「ダビデも言っている。『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と*15」
弟子たちが突然他の国々の言葉で話し出したのは、このイエス様が神様のもとへ行き、天から聖霊を送ってくれたから。ペトロはそう説明します。
ユダヤ人が、律法を知らない異邦人の手を借りて、十字架につけて殺したイエスはもう死んでない。生き返り、姿を見せ、天に上られた。みんなで殺したあのイエスは、死を打ち破った! そう宣言するんです。
かつて、自分のことを三度否定したペトロに、イエス様は現れた。かつて、自分を見捨てた弟子たちに、自分に背いた人々に、自分を信じなかった者たちに、殺されたイエスは現れて、彼らの真ん中で言いました。
「あなたがたに平和があるように!」そして、こう約束します。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と*16。
約束されたもの、それが今、自分たちに注がれた聖霊だ。あなたがたが見ている光景だ。イエス様は自分を捨て、自分を裏切り、自分を殺した人々へ、ありえない和解を果たしに来た。
聖霊によって、キリストの死と復活を証言させ、自分を死なせた人たちへ、和解と平和を語りに来た。だから、悔い改めて、洗礼を受けなさい。この方を信じなさい。
はっきり知らなければならないこと、繰り返し思い出すべきことがあります。それは、私たちが死に貶めた方によって、神様は私たちを救ったという事実です。
本来、私たちに怒りを向け、報復をするはずの方が、私たちを赦し、救う者となった。物語の終わりに、報いを受けるであろう敵を、身内に受け入れた方がいた。
ヒーローに手をかけてなお、ヒーローは私のヒーローだった。ペトロが力強く、心の底から絞り出すのはこのことです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」
あなたが手をかけてなお、この方はあなたの救い主です。私が見捨てても、否定してもなお、この方が私の救い主であったように。
人々は、これを聞いて大いに心を打たれました。いたずらに、不安や恐怖をかきたてられたからでしょうか? いえ、それ以上の動揺でした。だって、自分を罰するはずの方が、自分を憎むはずの方が、あなたを助けに来た救い主だと語られたから。
【『そのとおり』という事実】
「お前が殺ったんだ!」というニュアンスの言葉に、私たちは「そのとおりです」「信じます」と言うことにためらいがあります。
認めたら、自分は何をしなきゃいけないんだろう? もう手遅れと言われるのか? 償っても足りないと言われるのか? これをしろ、あれをしろと脅されるのか?
しかし、ペトロが強調したのは「殺されたイエスは甦った」という事実です。彼が求めたのは、殺されて、復活したイエス様が救い主であることに「そのとおり」「アーメン」と答えることです。
私が見捨てたイエスは復活し、再び会いにきて、「平和があるように」と言われた。自分を捨てた仕返しではなく、和解のために生き返って、「私はお前を赦している」と示してくれた。
あの日、あの時、あの方を、十字架につけて殺したあなたは、復活した主に赦されている。この事実こそ、「そのとおり」「アーメン」と言って、信じるべきことなんだ。
私たちが礼拝で、いつも唱える『主の祈り』に、こんな言葉が出てきます。「我らが罪を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」……現代の言葉で言い直せば、こうなります。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします*17」
皆さんはこの祈りに、「アーメン(そのとおりに)」と言えるでしょうか? いや、私は正直、人を赦せる自信がない。今だって、赦せない人がいる。
だから、「我らが罪を赦すごとく」なんて言えないし、「そのとおりに(アーメン)」なんて付けることもできない。言ったらそれこそ、「あなたは人を赦してないじゃないか!」と言われてしまう……そう感じる人もいるでしょう。
しかし、だからこそ思い出して欲しいんです。ペトロもそうでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」……「お前もな!」と言われることを彼は言いました。
「悔い改めて、罪を赦していただきなさい」……「あんたもな!」と言われることを彼は勧めました。間違いなく、分かった上で。
私たちは、イエス様が復活させられたことの証人です。口にできないはずのことを、聖霊によって語らされる主の群れです。頼まれるはずのないことを、頼まれてしまった証し人。
あなたを赦しにきたイエス様が、彼や彼女のもとにも来たことを、今から伝えに行きましょう。さあ、出て行きなさい。