ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『お前が殺ったんだ!』 使徒言行録2:22〜36

礼拝メッセージ 2019年6月16日

 

f:id:bokushiblog:20190615160550j:plain

 

【脅迫的な結び】

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです*1」……ペンテコステの日、聖霊を受けたペトロが最初に語ったメッセージ。非常に生々しい言葉で終わっています。

 

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」「あなたがたが、最も残酷な処刑法で、死に貶めたあのイエスを」神は主とし、救い主となさった。誰がどう聞いても、聞き手が責められている印象を受けます。「お前が殺ったんだ!」という響き。

 

 あなたは間違いを犯した。正しい者を、善良な者を、自分を救い出す者を殺してしまった。さあ、これから報いが待っている! どうすればいいか聞きたいか?

 

 暗にそう言っているんだとしたら、人々は狙いどおりに聞いてきます。「わたしたちはどうしたらよいのですか?*2

 

 ペトロは次の箇所で答えます。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい*3

 

 私には、この流れがどうしても不穏に感じます。というのも、恐れや不安をかきたて、人々を入信させる破壊的カルトの手口を彷彿とさせるからです*4

 

 ペトロは別に、人々へ無理やり洗礼を施したわけじゃありません。「あなたたちは自分たちの救い主に拳を向けた」「今すぐ悔い改めて洗礼を受けなさい」そう勧めてきただけです。

 

 でも、あの生々しい言葉を聞けば、何となく次のような印象を受けるでしょう。「このままでは罪を赦されず、メシアを殺した罰を受ける!」

 

 ある霊媒師を訪れた相談者が言いました。「この前、息子が道端で蛇を殺して以来、何だか不安が消えないんです」

 

 霊媒師は答えます。「その子が殺した蛇は神の使いです。今すぐ赦しを乞うて、お供えしてください。このままでは罪を赦されず、一家全体に呪いが降りかかるでしょう」そうして後から、高額なお布施を要求する。

 

 途中まで、よく似た流れですよね? 別にユダヤ人の多くは、直接イエス様に手をかけたわけじゃありません。死刑に賛成したか、反対しなかっただけです。しかし、ペトロははっきりと、容赦なく彼らに責任を突きつけます。

 

 「あなたがたが十字架につけて殺した」「あの日、あそこで殺された、私たちの身代わりとなった方の死に、あなたも関わっている」「あなたも、彼の死に責任がある一人だ」

 

 同様のことが、私たちにも言われます。2000年という時を越えて、あなたもキリストを十字架につけた、罪ある人間の一人なんだと語られます。

 

 神に背き、良心に背き、自分自身を正当化するあなたもまた、救い主を死に貶め、捨ててしまった一人なんだと。だから、悔い改めて洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。

 

 私は自分自身が多くの過ちを犯し、罪を抱えている一人だと認めますが、じゃあ他の人に対しても、「あなたは罪人だからこのままじゃいけない」「洗礼を受けないと救われない」なんて脅すような伝道をしていいものか、いつも疑問に思うんです。

 

 だってそれ、「救いの確信」じゃなくて、「恐怖の押し付け」じゃないですか?

 

【語り手の背景】

 問題のメッセージは、復活したイエス様が天に上った10日後に語られました。弟子たちが約束された聖霊を受け、他の国々の言葉で話し出したとき。集まっていた人々は皆驚き、戸惑いながらこう言います。

 

 「いったい、これはどういうことなのか?」中には嘲ってこう言う人も出てきます。「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」*5

 

 ペトロが口を開いたのはこのときです。彼は今まで一人だけ座っていたのか、ようやく立ち上がって、他の11人と並びます*6。そして、声を張り上げて言いました。

 

 「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります!*7

 

 ペトロの説教の始まりです。彼は弟子たちを指してこう言います。「この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません*8

 

 彼は「私たちは」と言わず、「この人たちは」と、自分以外の11人について話します。彼だけは、他の国々の言葉で話し出さず、今まで沈黙していたんでしょうか?

 

 ペンテコステの日、私たちは12人の弟子たちが、一斉に他の国々の言葉で語り出したとイメージします。

 

 でも実は一人だけ、他の弟子たちが立っているとき、まだ座っている者がいた。みんなが語り始めたとき、まだ沈黙している者がいた……改めて読むと、そんな印象を受けるんです。

 

 この異常な光景の中で、一人座って沈黙していた男が、立ち上がって声を張り上げる。周りにいた人々は思わず注目したでしょう。最後に立ち上がった彼こそが、弟子たちの中心的人物、イエス様の、最も近くでお仕えしていたペトロです。

 

 同時に彼こそが、弟子たちの中で唯一、イエス様を三度も否定した人物……「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております*9

 

 そう言っておきながら、自分が捕まりそうになると「わたしはあの人を知らない」「仲間じゃない」と言ってしまう*10。その場から逃げ出し、イエス様が死ぬときも、遠くから見ていることさえできなかった。

 

 「あなたがたが十字架につけて殺したイエス!」ペトロがそう口にするとき、同様に彼も言われるでしょう。

 

 「あなたが三度否定したイエス!」「あなたが見捨てて置き去りにしたイエス!」「あなたが見るまで信じなかったイエス!」……彼はよく、こんなこと口にしたと思います。

 

 「いやいや、あんたこそ!」「お前もやった一人じゃないか!」確実にそう言われるであろうこと、自身の失態を思い出させる厳しい言葉を、わざわざ言ったわけですから。

 

 私が今日講壇から「あなたがたもキリストを十字架につけた一人です」と言えば、皆さんも言うべきでしょう。「あなたも自分のことを棚に上げ、キリストを捨てた一人でしたね」と。

 

【死んだままじゃない】

 ところが、ペトロがこのメッセージで語るのは、「あなたも私も、イエスを捨てた」という事実だけじゃありません。むしろ、彼が語りたかったのはこっちです。「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、復活させられました!*11

 

 この後くどいほど、「イエスは死んだままじゃない」という言葉が出てきます。

 

 「イエスが死に支配されたままでおられることは、ありえなかった*12」「神はその魂を陰府に捨ておかず、朽ち果てるままにしなかった*13」「キリストの復活は前もって預言されていた*14」「ダビデも言っている。『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と*15

 

 弟子たちが突然他の国々の言葉で話し出したのは、このイエス様が神様のもとへ行き、天から聖霊を送ってくれたから。ペトロはそう説明します。

 

 ユダヤ人が、律法を知らない異邦人の手を借りて、十字架につけて殺したイエスはもう死んでない。生き返り、姿を見せ、天に上られた。みんなで殺したあのイエスは、死を打ち破った! そう宣言するんです。

 

 かつて、自分のことを三度否定したペトロに、イエス様は現れた。かつて、自分を見捨てた弟子たちに、自分に背いた人々に、自分を信じなかった者たちに、殺されたイエスは現れて、彼らの真ん中で言いました。

 

 「あなたがたに平和があるように!」そして、こう約束します。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る」と*16

 

 約束されたもの、それが今、自分たちに注がれた聖霊だ。あなたがたが見ている光景だ。イエス様は自分を捨て、自分を裏切り、自分を殺した人々へ、ありえない和解を果たしに来た。

 

 聖霊によって、キリストの死と復活を証言させ、自分を死なせた人たちへ、和解と平和を語りに来た。だから、悔い改めて、洗礼を受けなさい。この方を信じなさい。

 

 はっきり知らなければならないこと、繰り返し思い出すべきことがあります。それは、私たちが死に貶めた方によって、神様は私たちを救ったという事実です。

 

 本来、私たちに怒りを向け、報復をするはずの方が、私たちを赦し、救う者となった。物語の終わりに、報いを受けるであろう敵を、身内に受け入れた方がいた。

 

 ヒーローに手をかけてなお、ヒーローは私のヒーローだった。ペトロが力強く、心の底から絞り出すのはこのことです。「あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです」

 

 あなたが手をかけてなお、この方はあなたの救い主です。私が見捨てても、否定してもなお、この方が私の救い主であったように。

 

 人々は、これを聞いて大いに心を打たれました。いたずらに、不安や恐怖をかきたてられたからでしょうか? いえ、それ以上の動揺でした。だって、自分を罰するはずの方が、自分を憎むはずの方が、あなたを助けに来た救い主だと語られたから。

 

【『そのとおり』という事実】

 「お前が殺ったんだ!」というニュアンスの言葉に、私たちは「そのとおりです」「信じます」と言うことにためらいがあります。

 

 認めたら、自分は何をしなきゃいけないんだろう? もう手遅れと言われるのか? 償っても足りないと言われるのか? これをしろ、あれをしろと脅されるのか?

 

 しかし、ペトロが強調したのは「殺されたイエスは甦った」という事実です。彼が求めたのは、殺されて、復活したイエス様が救い主であることに「そのとおり」「アーメン」と答えることです。

 

 私が見捨てたイエスは復活し、再び会いにきて、「平和があるように」と言われた。自分を捨てた仕返しではなく、和解のために生き返って、「私はお前を赦している」と示してくれた。

 

 あの日、あの時、あの方を、十字架につけて殺したあなたは、復活した主に赦されている。この事実こそ、「そのとおり」「アーメン」と言って、信じるべきことなんだ。

 

 私たちが礼拝で、いつも唱える『主の祈り』に、こんな言葉が出てきます。「我らが罪を赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」……現代の言葉で言い直せば、こうなります。「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします*17

 

 皆さんはこの祈りに、「アーメン(そのとおりに)」と言えるでしょうか? いや、私は正直、人を赦せる自信がない。今だって、赦せない人がいる。

 

 だから、「我らが罪を赦すごとく」なんて言えないし、「そのとおりに(アーメン)」なんて付けることもできない。言ったらそれこそ、「あなたは人を赦してないじゃないか!」と言われてしまう……そう感じる人もいるでしょう。

 

 しかし、だからこそ思い出して欲しいんです。ペトロもそうでした。「あなたがたが十字架につけて殺したイエス」……「お前もな!」と言われることを彼は言いました。

 

 「悔い改めて、罪を赦していただきなさい」……「あんたもな!」と言われることを彼は勧めました。間違いなく、分かった上で。

 

 私たちは、イエス様が復活させられたことの証人です。口にできないはずのことを、聖霊によって語らされる主の群れです。頼まれるはずのないことを、頼まれてしまった証し人。

 

 あなたを赦しにきたイエス様が、彼や彼女のもとにも来たことを、今から伝えに行きましょう。さあ、出て行きなさい。

*1:使徒2:36

*2:使徒2:37

*3:使徒2:38

*4:日本脱カルト協会集団健康度チェック第18項より「無力感や切迫した恐怖感などの危機的状況を煽った上で入会の意思決定を求める」

*5:使徒2:12

*6:使徒2:14参照

*7:使徒2:14

*8:使徒2:14

*9:ルカ22:33

*10:ルカ22:54以下参照

*11:使徒2:24

*12:使徒2:24参照

*13:使徒2:24参照

*14:使徒2:27参照

*15:使徒2:30、31参照

*16:ルカ24:36〜49参照

*17:日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳