礼拝メッセージ 2019年6月23日
【理想的な共同体?】
「救われたければうちに来い」……そんな上から目線の教会があったら、足を運ぶのがためらわれますよね。
世の中には、多くの宗教団体があります。どこも、救いを求めて信者たちが集まってきます。ここに来れば、病気が治るかもしれない。あそこに行けば、心が安らぐかもしれない。あるいは、安心して天国へ行けるだろう。
そんな人々の思いを利用するように、いくつかの団体は、破壊的な集団を形成します。「救われたければうちに来い、それ以外に道はない」「我々の教えを信じなければ、問答無用で滅びに至る」「地獄に落ちたくないのなら、私たちと一緒に信じなさい」
そうして信者を集め、お金を集め、組織の拡大を図っていく。別に珍しいことでもありません。
キリスト教会でも、程度の差こそあれ、似たようなことを言ってきました。「教会の外に救いなし」「救いの道はここだけだ」
今歌った賛美歌も、若干そんな意味を含んでいます。「すくいのわざを受けついできた、主の教会はただひとつ*1」……ですが、あまりにこれを強調し過ぎると、強引な勧誘をするカルトと同じように見られます。
だから、もうちょっとマイルドに、「私たちは決して他の宗教を否定しないし、無理やり誘ったりもしない。怪しくない、危険じゃない、健全な団体だから、どうか安心して来てほしい……」というように、なるべく警戒されない態度を取ろうとします。
一方で、確かに私たちの多くは、キリスト教以外に道はない、ここにこそ救いがあると思って集まっています。私もその一人です。ある者は道端で配られた聖書を手にし、ある者は自分の親や子どもに連れられて、ある者はフラッと礼拝に出て、教会に来るようになりました。
しばらく通ううちに、礼拝のメッセージや教会員との交流を通して、神様を信じるようになり、自分も信仰を告白し、洗礼を受けていきました。
ペンテコステの直後、ペトロのメッセージを聞いた人々も、大勢が洗礼を受けました。その数、なんと3000人*2……尋常じゃない勢いですよね。
まさに、信仰の覚醒、リバイバル! 私たちは、このときの人々、初代教会の様子を、たいへん理想的な共同体の姿と捉えます。
「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった*3」……教会として申し分ない姿ですよね。私たちの教会もこんなふうになれたら、何千人も信徒が集まる、豊かな教会になれるんでしょうか?
【カルト的な特徴】
しかし、よく見るとこの状況、必ずしも「理想的な共同体」で終わっていいものじゃありません。ペトロが勧めた言葉を聞いてください。彼は力強く証をしながらこう言います。「邪悪なこの時代から救われなさい*4」
この世を邪悪、悪魔的だという主張は、反社会的事件を起こした、いくつもの破壊的カルトに当てはまる行為です。
短期間に大勢の信者が集まる様子も、その団体が、次第に成果主義へ陥っていく危険を孕んでいます。事実、数年で急成長を果たした宗教団体の多くが、強引な勧誘や奉仕の強要で、後から批判されるという歴史を持っています。
残念ながら、私たちのルーツであるメソジスト教会も、今は健全なグループに見られますが、かつてはそういう要素を多分に含んでいました。
「すべての人に恐れが生じた*5」「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った*6」
どうやら、ペトロの説教を聞いた人々は、共同生活を始めたようです。皆さんはこれを聞いて、どんなイメージを持ったでしょうか?
古代や中世の修道院、シスターや神父が共同で暮らす質素な生活を浮かべたでしょうか? 私が最初に思い浮かべたのは、大学にいた頃、8回以上勧誘された破壊的カルトの団体です。
そこでは、信者たちが狭いアパートに詰め寄って暮らし、テレビやゲームを売り払って、互いの生活を管理しながら、共同で暮らしを営んでいました。
「すべてのものを共有する」と言えば聞こえはいいですが、逆に言うと、「自分の持ち物を持つことが許されない」という話です。
それってなかなか窮屈ですよね。初代教会の人たちは、共同生活を営みながら、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まって食事や礼拝をしています。
彼らが、喜びと真心をもって食事や賛美をしているのを見て、民衆も好意を寄せていたとあります。しかし、私は疑わしいと思っています。だって、もしもこんな集団が現れたら、皆さん微笑ましく見てられますか?
突然、共同生活を始めたよく分からない集団が、公民館にやって来て、毎日のように祈りや賛美をささげている。解散したと思ったら、それぞれの家に集まって、また何か礼拝や儀式を行なっている。
マンションで、アパートで、謎の集団が部屋に集まり始めたら、普通にちょっと気味が悪いですよね? 私はこの光景、当時の人々もけっこう異様に感じてたんじゃないかと思います。
【3世紀の教会】
いやいや、初代教会はあくまで新新宗教や破壊的カルトとは違う。彼らは本当に、民衆から好意を寄せられるような理想的共同体を築いていたんだ! そう主張する人もいるかもしれません。
じゃあ実際に、かつての証言を聞いてみましょう……アメリカの著名な神学者、スタンリー・ハワーワスが、ある講義の中で、一人の父親が政府関係者に送った手紙を読みました。
この父親の息子は、最高の教育を受け、良い学校を卒業して、法律家として働き始めたばかりでした。その子が、妙な宗教のセクトに巻き込まれたというんです。このセクトの会員たちが、いまや息子の行動をすべて管理しています。
誰とデートすべきか、誰とつきあってはいけないかまで指示しています。持っているお金はすべてとりあげられてしまっています。何とか、政府がこのあやしい宗教グループに手を打ってほしい……そう父親が嘆願する手紙です*7。
スタンリー・ハワーワスは、講義に集まった学生たちに、この手紙に書かれているのは、いったい何のグループと思うか聞きました。ほとんどの学生が、有名な事件を起こした幾つかの破壊的カルトを挙げました。
私も、真っ先にオウム真理教を思い浮かべました。ところが、この文章は3世紀のローマで書かれた手紙を組み合わせたもので、問題にされたグループとは、キリスト教会のことだったんです。
新約聖書が1世紀から2世紀の間に書かれたことを考えると、使徒言行録に記された頃の教会と、そう様子は変わっていないことが想像できます。
どうやら、かつてのキリスト教会は、みんなが仲良く一緒に暮らす、理想的な共同体を作っていたというよりも、今でいう、カルトやセクトと近い雰囲気を持っていたようです。
なかなかショッキングですよね。教団の聖書日課では、この箇所のテーマを「教会の一致と交わり」としています。
ここまでの話を聞いて、素直に初代教会の姿を、理想的な一致、連帯のモデルとして見ることは、もうできなくなっているでしょう。ただ、私は別にかつての教会を批判したいんじゃありません。
今日言いたかったのは、キリストの教えに生きる教会が、誤った方向、危険な方向に彷徨い始めても、イエス様の導きは、必ず共同体に癒しと回復をもたらされるという話です。この後に続く出来事が、そのことを象徴的に示しています。
【癒しと回復】
今日の続きである3章で、いつものように、神殿へ祈りに来たペトロとヨハネが、足の不自由な男と出会います。彼は、生まれながらに足が不自由で、神殿の境内に入る人々へ施しを乞うて生きていました。
男は、ペトロとヨハネが来たのを見て、彼らにも施しを求めます。すると、ペトロは男をじっと見て、彼をこう言って癒すんです。
「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」……すると、たちまち彼は治って、躍り上がって歩き始めました。
私は、この話が読まれるとき、最初に読んだルカによる福音書14章のたとえを思い出すんです。イエス様が、神の国についてたとえた「大宴会」……そこには、盛大な宴会を催そうとした人が、次々と招待した人に断られる出来事が書かれています。
自分が招待した人全員に出席を断られる……この主人は、いったいどれだけ嫌われていたんでしょう? 神の国のたとえに出てくるこの人物は、だいたいの人が「神様」を表していると思うため、批判的な評価はほとんどされてきませんでした。
しかし、私にはこの人物が、神の国の食卓を先取りする「教会」を表しているように感じるんです。どうもこの人は、自分が誘った人々の予定を、全く確認していなかったようです。
ある者は畑を買ったばかりで見に行かなければならず、ある者は牛を買ったばかりで調べに行かなければならない。おそらく、前々から決まっていた用事です。主人に誘われたときも、分かっていたでしょう。
もしかしたらこの主人、けっこう強引に色んな人を誘ったのかもしれません。相手の都合も確認せず、いい加減な招待をしたのかもしれません。だって、結婚した直後の夫婦まで呼んでいる。もうちょっと落ち着いてから呼ぶべきです。
宴会を催した主人は、周りと健全な関係を築いているとは言い難い人でした。自分勝手で相手のことを考えない、そんな性格が垣間見えます。
しかし、招待したほとんどの人から出席を断られ、彼は変化していきます。「急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を連れて来なさい」……そう僕へ命じたんです。
それは、当時のユダヤ社会で、神殿に入ることが許されなかった人、汚れているとされ、差別の対象だった人、関わっても碌なことにならないと思われる人たちでした。
周りとの関係が崩れてしまった家の主人は、本当に食事が必要な人たちを呼んで、彼らと新しい関係を築きます。
もしかしたら、友人や兄弟、親類や近所の金持ちを呼んだときは、ただ単に、豪華な宴会が開けることを自慢したいだけだったのかもしれません。身勝手で自分本位な招待だったのかもしれません。
しかし、破壊的な関係から、健全な関係へと彼の様子は変わっていきます。ちょうど、直前でイエス様が勧めた行動、貧しい人、体の不自由な人を食卓に呼ぶ*8ことで、相手を思いやる関係へ。
最初に洗礼を受けた3000人の共同体は、どちらかといえば、たとえに出て来た最初の人々のように、裕福でエリートな人が多かったでしょう。
その日集まっていた人々は、もともと外国に住んでいた教養あるユダヤ人、遠く離れた土地からエルサレムに移り住むことのできる、蓄えと力を持っていたからです。会員が増えれば増えるほど、財産を共有する人たちも豊かになります。
しかし、貧しい者、体の不自由な者たちが加わってくるなら話は別です。分け合う財産や持ち物は減り、持ち出しが多くなっていきます。
おまけに最初の教会は、ほとんどの人が伝統と慣習に重きを置いているユダヤ人、律法で神殿に入ることが許されない障害者なんて、誰も自分たちの食事に招きたくなかったでしょう。この集団は、どんどん閉鎖的・排他的になっていくことが見込まれます。
そんなとき、足の不自由な人に対する癒しの業が行われます。財産を持たず、働くことができず、人々の施しで生活する男。しかも、彼は40歳を超えているようです。
たとえ足が治っても、長年働くことができなかった彼に、いきなり仕事ができるとは思えません。組織の繁栄を願う人から見れば、関わっても意味のない人を、ペトロは進んで癒します。
私たちは、この出来事を、男個人の癒しだと思って見ていますが、実は共同体全体の癒しでもありました。
ただ、教会という組織の成長だけを求めるなら、この男を癒したことは失敗です。彼がペトロとヨハネに付きまとって注目を浴び、騒ぎになったのをきっかけに、教会の代表者2人は議会で取り調べを受けることになるからです。
もしも、本当に民衆全体から好意を寄せられていたのなら、このニュースは大打撃です。市民からは警戒され、貧しい人や体の不自由な人がますます大勢集まってくる。共有する財産は減っていく。そんな事態を引き起こします。
しかしペトロは、これこそが教会だとでも言うように、この男に起きたこと、自分たちが体験してきたことを語っていきます。組織の繁栄ではなく、キリストの愛を広めるために。
かつてイエス様が行った、癒しの業に倣った行為は、急速に破壊的傾向へ向かう組織に癒しをもたらし、立つべきところへ立ち返らせたんです。
【カルト教会の回復】
初代教会は、確かに現代でいう破壊的カルトの要素をいくつも保有していました。教会の歴史を勉強すれば、それが一度だけでなかったことがすぐ分かります。
魔女狩り、世俗化、十字軍、反ユダヤ主義……たくさんの事件、たくさんの問題が起きました。しかし、その度に、誤った共同体の姿勢を正す、回復する出来事が起きました。
教会会議、宗教改革、バルメン宣言……私たちの先人は過ちを犯す度に、聖書に記されたイエス様の教えと行動に立ち帰らされ、反省と復興を繰り返してきたんです。
使徒言行録に出てくる初代教会は、たいへん理想的な姿として語られることが多いです。無批判にこういう教会を目指すべき、と未だに主張されることがあります。
しかし、初代教会も多くの過ち、多くの問題を抱えながら、繰り返しイエス様の教えに導かれ、正され、癒されてきました。
私も、あなたも、共同体や組織における隠れた過ち、隠された問題に傷つけられ、悩むことがあるかもしれません。しかし、イエス様が語った教え、イエス様が行なった業は、今も、私たちに必要な癒しをもたらすんです。
本当の一致と癒しを求め、私たちも共同体のため、社会のために祈りを合わせましょう。