ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『癒されたけど怖い……』 ルカによる福音書8:42b〜48、使徒言行録4:5〜12

礼拝メッセージ 2019年6月30日

 

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【癒しの後に待つ困難】

 皆さんは、神様に祈り求めたら、病気や怪我が癒される……そういうふうに信じてますか? たとえ手の打ちようがない、医者に見放されてしまう状況でも、神様は助けてくれると思いますか?

 

 私は何でも祈ったとおり、願ったとおりになるとは思いません。でも、神様は祈りを聞いて、それぞれに答えてくれると思っています。

 

 決して、こうすれば癒してもらえるとか、こうすれば祈りが聞かれるとか、そういう法則的な話じゃありません。

 

 神様は、誰に対しても、悩み、苦しみ、傷んでいる人の声を必ず聞かれて、何らかの変化をもたらされる。奇跡的な回復もあり得るし、気持ちの変化、取り巻きの変化という回復もあるだろう……そういうふうに思っています。

 

 それが、自分や周りの期待した形、受け入れやすい形とは限りませんが……キリスト教会に足を運ぶ人の多くは、病の癒し、心の回復を、切実に求めるときがあるでしょう。

 

 主よ、この病気を治してください。あの人を元気にしてください。この足を、この胸を、この痛みを、どうかすっかり癒してください。

 

 真剣に、真剣に祈ります。そして願いどおり、回復へ向かうこともあります。病状が改善し、体が、心が癒されることもあります。でも、癒されて終わりじゃありません。治ったから「もう安心」じゃないんです。

 

 水曜日、私たちの大切な仲間、教会の姉妹が、胸の手術を受けました。昨日、お見舞いに行ってきて、無事手術を終えた彼女と話すことができました。事故もなく、ミスもなく、終了した手術……神様は、私たちの祈りを聞いてくださったんでしょう。

 

 彼女自身、とても元気になっていました。でもこの後、彼女にはリハビリが待っています。もとの日常に、完全に戻れるわけじゃありません。

 

 今までと違う、いくつもの変化が待っています。いつか再発してしまうんじゃないかという不安は、たぶんこれからも襲ってくるでしょう。

 

 手術自体は成功したけど、信仰がブレたり、揺れ動いたりしたら、また悪化するんじゃないか? 病状が変化し、回復から遠のいてしまうんじゃないか……?

 

 病気や怪我が癒されたから、それで終わりじゃないんです。万事解決じゃないんです。むしろ「よかった、よかった」という雰囲気の中、口にできない、言えない不安も出てきます。

 

 「もう大丈夫」そう信じたい。神様に感謝して、ハッピーに過ごしたい。でも、現実はそう割り切れない。

 

 癒されたけど、怖い……以前よりも、回復する前よりも、心が震えて、怯えてしまう。それは、信仰者であっても自然なことです。いやむしろ、癒されたからこそ、次に恐れが来るのは、自然なんです。

 

【癒された女性の直後】

 先ほど読んだ2つの聖書箇所にも、癒された後、不安や恐怖を感じた人が出てきました。一人は、イエス様から癒された、長年出血の止まらなかった女性*1

 

 おそらく、月経不順か月経異常だったんでしょう。かつてのイスラエルで、出血が止まらない体というのは、「汚れた状態が続く」ということでした*2

 

 不浄な者と見られてしまう……礼拝に出ることが許されない、周囲の人や家族に触れることも許されない。しかも、医者に全財産を使い果たしたのに、治らなかった……それはつまり、神様から呪われていると見なされても、おかしくない状況でした。

 

 そんなとき、この町の会堂長でヤイロという人の娘が、瀕死の状態に陥ります。その娘を癒すため、イエス様が呼ばれたことを知った女性は、こっそり自分も後からついて行きます。

 

 各地で病人を癒してきたイエス様なら、きっと触れただけで、自分を治せると思ったからです。

 

 ところが、イエス様に触れて出血が止まった彼女は、皆の前で、姿を出さなければならなくなります。もちろん自ら望んでじゃありません。彼女は始め、こっそり来て、こっそり帰るつもりでした。

 

 ただでさえ血が止まらなくて「気味が悪い」「汚れた者」とされる自分が、群衆の押し寄せる場所に来たなんてバレれば、一斉に非難されるでしょう。ところが、彼女が触れて治った瞬間、イエス様は「わたしに触れたのはだれか」と騒ぎ始めます。

 

 勝手に触ったことを怒られるんでしょうか? 女性は思わず息を潜め、人々の間に隠れます。周りは大勢の群衆でいっぱいです。しばらくすれば、見つけるのを諦めて、ヤイロの家へ向かうはずです。

 

 ペトロもイエス様にこう言います。「先生、群衆があなたを取り巻いて、押し合っているのです」……たまたま誰かが触れたくらいで、どうしたんですか? その人を見つけるなんて不可能ですよ。早く、死にかけの娘を癒しに行ってあげましょう!

 

 しかし、イエス様は言い張ります。「だれかがわたしに触れた。わたしから力が出て行ったのを感じたのだ」……女性は恐ろしくなって、もう隠しきれないと思いました。

 

 このまま身を潜めていれば、いつまで経っても、イエス様は自分を探し続け、死にかけている12歳の子が、癒される前に亡くなってしまいます。

 

 12歳……自分が病気で苦しんだ年月と同じだけ生きた子が、回復せずに死んでしまう! そんなわけにはいきません。彼女にとって、この娘の命も他人事ではありませんでした。

 

 女性は震えながら進み出て、イエス様の前にひれ伏します。どんな責めを受けるのか、どんな罰を受けるのか、全く予想できません。せっかく癒された病気も、また元に戻されてしまうのか……彼女はこれから、勝手にイエス様へ触れたこと、勝手に治してもらったことを、自ら暴露するんです。

 

 それも、ヤイロの娘が死にかけている緊急事態に、こんなことをやらかしたと……彼女を待っているのは、どう考えても非難の嵐。癒しの後に待っていたのは、不安と恐怖の出来事でした。

 

【癒された男性の直後】

 もう一人、使徒言行録に出て来たのは、ペトロに癒された、生まれつき足の不自由だった男です*3。3章で登場した彼は、毎日、神殿の境内の前で、施しを乞うて生きていました。

 

 ちょうど、ペトロとヨハネがやって来たときも、彼は何かもらえると期待し、2人に施しを求めます。

 

 すると、イエス様から聖霊を受けたペトロは、男を見つめてこう言いました。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」

 

 するとたちまち、男は足やくるぶしがしっかりして立ち上がり、躍り上がって神を賛美しながら、2人と一緒に境内へ入っていきました。

 

 *4

 

 明らかに足が治った男を見て、人々は皆仰天します。そこでペトロは、この出来事がイエス様によるものであると話し始め、力強く証をします。

 

 足の治った男を見て、ペトロとヨハネの話を聞いて、そこにいた5000人ほどの人々が、キリストを信じるようになりました。なかなかの騒ぎです。

 

 ところが、この騒ぎを聞きつけて、祭司や神殿守衛長、サドカイ派の人たちがやって来て、2人を逮捕してしまいます。翌日まで、牢に入れられた2人は、やがて議会で取り調べを受けることになりました。そこへ、足を癒されたばかりの男も連行されます。

 

 彼は、参考人として呼び出されたか、ペトロたちと一緒に逮捕されたかのどちらかでしょう*5。この騒ぎの中心に、躍り上がって、ペトロとヨハネにつきまとった彼がいたことは間違いありません。

 

 下手すれば、騒ぎが起きたのはお前の責任だと、周りから非難されてしまう。ペトロとヨハネが捕まったのは、自分のせいになってしまう。男の頭は、たいへんな騒ぎを起こしてしまった……という不安でいっぱいだったんじゃないでしょうか?

 

 彼は最初から最後まで、何一つ議会で口を開けません。それほどまでに緊張し、恐れていたんでしょう。癒しの後に待っていたのは、不安と恐怖の出来事でした。

 

【癒された者が証言する】

 実は、聖書の中で「癒された人」の多くは、その後様々な恐怖に直面します。多くの手紙を書き残したことで有名なパウロも、見えなくなった目を癒されたあと、世界中へ派遣され、迫害や投獄、台風など、様々な目に遭いました。癒された後、何の心配もなく、安定した人生を送ったわけじゃなかったんです。

 

 彼らに待っていたのは、新たな事件、新たな危険、新たな問題でした。悩み、傷つき、弱っていた人々が、なぜ癒された後も、こんな恐怖を感じなきゃいけないんでしょう?

 

 イエス様は、病から癒された人々が、また元に戻ってしまうこと、不安や恐怖に襲われるのを、自己責任と言って突き放すんでしょうか?

 

 いえ……違います。病を癒された人々が、様々な不安や恐怖に直面するのは、彼らが責められることをしたからじゃありません。彼らが、キリストの使者として新しく遣わされているからです。

 

 自分の身に起きたこと、イエス様から受けたことを、人々に伝えていく平和の使者。

 

 出血の止まらなかった女性は、イエス様に触れた理由と、たちまち癒された次第とを話します。12年間、この病気に苦しんだこと。全財産を使い果たしても治らなかったこと。この方の服に触れさえすれば、治してもらえると思ったこと。

 

 彼女が全てを告白すると、イエス様は言われます。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」……てっきり、勝手に触ったことを怒られる、汚れた自分が近づいたことを責められると思っていた彼女は、びっくりしたことでしょう。

 

 イエス様が自分を探していたのは、責めるためではなかった。イエス様が彼女を探したのは、彼女に自分が癒されたことを証言させるためだった……そのことが明らかになったからです。

 

 足の不自由だった男は、議会に連れて行かれた後、一切口を開きません。彼はただ、そこに立っているだけで精一杯です。しかし、そこにいるというだけで、彼は立派な証をしていました。

 

 生まれつき歩けなかったのに、今はイエス・キリストの名によって立ち上がらされたおかげで、歩けるようになっている。しっかりと立つことができている。何よりも雄弁な証言でした。

 

 彼が、彼女が、癒されたにもかかわらず、恐ろしさで震えてしまうのは、新しい生き方が、既に始まっているからです。キリストによって立ち上がらされ、歩き始めた人たちは、今まで直面できなかった恐怖と、改めて対峙していきます。

 

 不安でいっぱいの人に、震え上がっている人に、「あなたの信仰があなたを救った」イエス様はそう宣言します。

 

 癒された後、回復した後も怖がっている人、恐れている人……彼らはキリストの証人です。自分の身に起きたことを手放しで喜べず、不安を抱えているあなたも、紛れもないイエス様の証人。

 

 イエス様はあなたを責めません。あなたを支え、遣わします。恐れや不安と直面するのは、あなたがキリストの道を歩まされている証です。あなたはキリストの使者なんです。だから、安心して行きなさい。

*1:ルカ8:43〜48

*2:加山久夫「ルカによる福音書」山内眞監修『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、189頁参照。

*3:使徒4:1〜22

*4:以前、この部分に書いていた内容を、2019年7月1日に調べ直した上、訂正する必要があると思い、本文から削除して、脚注の方へ貼り直しました。以下がもともと挙げていた内容です。

 

「本来、病気や障害のある『汚れた者』と見なされた人は、たとえ、それが完治しても、祭司に体を見せて『確かに治った』という証明を受けるまでは、境内に入れない決まりでした。出血の止まらない女性と同じく、障害のある男性も『汚れた者』と見なされたからです」(レビ記13章、21〜22章参照)

 

【訂正理由】

レビ記13章〜14章は、皮膚病やカビが生えた人に関する規定で、障害のある人と一足飛びで結びつけるのは不自然でした。また、レビ記21〜22章は「神殿で礼拝に出られない人」に関する規定というよりも「神殿で祭儀を執り行う者」に関する規定なので、「礼拝に出る者」に関してはサムエル記下5:8の方が参照元として適切でした。お詫びをして訂正します。

*5:グスターフ・シュテーリン著、大友陽子、秀村欣二、渡辺洋太郎訳『NTD新約聖書註解(5)使徒行伝』ATD・NTD聖書註解刊行会、1977年、143頁参照。