ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『洗礼を勧めたくない』 エゼキエル書34:1〜6、使徒言行録8:26〜38

礼拝メッセージ 2019年7月7日

 

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【群れを養う責任】

 今日のタイトル、皆さん驚いたでしょう。司会者の方も、読み上げるのをちょっとためらったかもしれません。教会の掲示板に、こんな言葉が掲げられる。

 

 『洗礼を勧めたくない』……そんな馬鹿なことあるか! 牧師がこんなこと言うか! そう思うかもしれません。でもこれ、私の正直な気持ちです。

 

 大切な人に、教会とつながってほしい人に、洗礼を勧めたくない気持ち。矛盾しているけどあるんです。何度も、何度も、私の中に出てきます。たとえるなら、「あの人と付き合いたいけれど、どうしても告白に踏み出せない!」そんな気持ちです。

 

 今だって、「そろそろ洗礼を考えてみませんか?」と言いたい人がいます。「転入して、うちの群れに籍を置きません?」と勧めてみたい人がいます。

 

 でも、私がなかなかそう言い出さないのは理由があります。洗礼を勧めて、群れから離れてほしくない。転入を勧めて、変に警戒されたくない。

 

 信徒を増やして、力ずくで搾取する教会だと思われたくないんです。入信や入会を強制していると思われたくないんです。皆さんが子どもに、連れ合いに、友人に「洗礼受けない?」って言いにくいのと同じです。

 

 そんなことすれば、すぐにネガティブなイメージがつくでしょう。私だって、悪徳な教会指導者だとは思われたくありません。エゼキエル書34章で、まさに、悪質な政治的宗教的指導者への批判がありました。

 

 「災いだ、自分自身を養う牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか」……預言者エゼキエルが批判するのは、私腹を肥やして、一人一人を大事にしないイスラエルの指導者です。

 

 かつて、神様に従わなくなった国の指導者たちは、共同体を養わず、病めるものを癒さず、傷ついたものを包んでやりませんでした。かえって力尽くで、過酷に民を支配して、弱った人々が追いやられ、あらゆる土地へ散り散りにされてしまいます*1

 

 しかし本来、神様に立てられた指導者は、群れを養い、弱いものを強め、追われた者を連れ戻す使命がありました。教会は、かつてその使命を果たせなかった共同体に代わり、諸国の民へ、神様の教えと洗礼を施す「新しいイスラエル」として立っています。

 

 そう、共同体を作る私たちは、受け入れた人を養う使命と責任があります。でも、いざその責任を考えると、新たに洗礼を勧め、群れを作っていくことに、どうしても尻込みしてしまいます。

 

 「弱いものを強める」……言うのは簡単ですが、どうしたら弱っている人を強くできるのか分かりません。教会に入ってきた人を、どう育てればいいんでしょう?

 

 「奉仕だ」「祈りだ」と言って鍛えようとし、かえって誰かを潰してしまった経験、この中にもあるかもしれません。

 

 「傷ついたものを包む」……どうやって? という感じです。本当に傷ついている人へ、どう関わればいいのか誰も教えてくれません。

 

 変に触って、ますます傷ついてしまわないか? そっとしていたら、誰にもかまってもらえないと、かえって寂しく思われないか? 何が正解なんでしょう?

 

 「追われた者を連れ戻す」……かつて、教会で色んなことがあって追い出された人、出ていった人たち。彼らを連れ戻す……それがどれだけ無茶なことか、すぐに想像つきますよね。

 

 なんなら、教会に残っている私たちの方に非があったのかもしれません。どの面下げて連れ戻すのか? 連れ戻して大丈夫なのか? 自信を持つのは難しい。

 

 「わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない*2」……私だけじゃありません。共同体から追われた者を、自分が連れ戻そうという人はこの中でも少数でしょう。

 

 誰かに探してきてもらって、誰かにとりなしてもらって、気づいたら、群れに戻っている。そんな都合の良い未来を思い描くのが私たちです。

 

 自分から、弱った人、傷ついた人、追われた人を群れに受け入れ、彼らを養う責任を持つ。牧師も、信徒も、ぶっちゃけ、そんな勇気なかなか出ないんです。

 

 できることなら、今それなりに仲良く、穏やかにやってる群れを大事にしたい。気まずくなったり、ギクシャクしたりしないよう、この関係を維持したい……どこかでそう思っている。

 

【手引きをさせる神様】

 ところが、神様はときどき、びっくりするような背中の押し方をしてきます。使徒言行録8章の後半に、フィリポとエリオピアの宦官の話が出てきました。

 

 フィリポというのは、信者がどんどん増えていく中、12使徒を手伝うために、教会の中から新たに選ばれた7人の内の一人です*3

 

 彼は、サマリアの町でイエス様の教えを宣べ伝え、たくさんの人に神の言葉を受け入れさせ、信者を増やした人物でした*4

 

 サマリアと言えば、ユダヤ人と仲が悪く*5、イエス様のことも追い出してしまった地域です*6。加えて、この町はフィリポが来る前、長い間シモンという人物が見せる魔術に心を奪われていた地域でした*7

 

 にもかかわらず、キリストの教えを受け入れさせ、共同体を大きくしたフィリポは、間違いなく、伝道における成功者と言えるでしょう。

 

 彼は、サマリアの町でたいへん喜ばれ、これからますます、人々の間で活躍すると思われました。おそらく、フィリポ自身も、この町で、この群れで、この人たちを牧会していきたいと思っていたでしょう。

 

 ところが、この中でやっていきたいという一番良いときに、彼は外へと遣わされます。突然、神様から天使を通して「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」と言われるんです。

 

 そこは、今まで賑やかだった場所と違い、「寂しい道」と呼ばれています。しかも、そこで待っているのは、大勢の人間ではなく、たった一人のエチオピア人、イスラエルの規定では、神殿へ入ることが許されない異教の国の宦官でした*8

 

 この人は、エルサレムまで礼拝しに行ったものの、去勢された男であるという理由で、祭儀に加わることができず、追い返された者でした。

 

 そう、フィリポが遣わされたのは、まさに、私たちが尻込みするような「追われた者」「散らされた者」のところでした。

 

 たぶん、神様から「行け」と後押しされなければ、彼が寂しい道まで出て行って、エチオピア人に伝道することは、まずなかったと思います。

 

【受洗を勧められない自分】

 かつて、私には洗礼を勧められなかった人がたくさんいました。その内の一人に、学生の頃、一緒に教会へ通っていた恋人がいます。その頃も、いつか洗礼を受けてくれたらな……とは思っていました。でも、自分からそう言い出す勇気はありませんでした。

 

 なぜか? 単に拒否されるのが怖かっただけじゃありません。洗礼を受けた後のことが怖かったんです。神学生の恋人が、同じ教会で洗礼を受ける……たぶんめちゃめちゃ期待されます。

 

 教会学校のスタッフに! 婦人会の会計に! なんなら奏楽も頼めるかも!……あれこれみんなが考えてしまうのが目に浮かびます。

 

 別に神学生の彼女でなくても、今なら「若い」というだけで、いくらでも青年に期待がかかります。

 

 群れの中に彼女を迎えて、ちゃんと信仰を養えるか? 奉仕や期待で潰してしまわないか? しかも、その子のお父さんはバリバリの仏教徒。彼女の家に、変な亀裂も入れたくない。

 

 理由はいくらでもあるんですが、少なくとも私は、学生の間に洗礼を勧めるつもりはなかったんです。ところが、礼拝と奉仕が終わった日曜日、一緒に教会から帰っていく途中、彼女は急に言い出しました。

 

 「今日ね、先生に洗礼受けたいって言ってきたんだ」……ふ〜んと流しかけた私は「ええっ!」と振り返りました。何で? どうして? いつのまに? 

 

 教会へ初めてきたときも、連れてきた私から放ったらかしにされ、よく知らない人たちの間で、一日寂しく過ごした彼女。

 

 神学生をしていた私から、自分のことはだいたい後回しにされてきた教会が、彼女にとって良い思い出ばかりだったとは思えません。

 

 それでも彼女が洗礼に導かれたのは、教会にいる人、神学部の友人たちから、知らず知らずのうちに、手引きをされていたからです。

 

 あれこれと奉仕や期待を押し付けるんじゃないかと、私が心配していた人たちは、むしろ、私以上に、彼女のことを気にかけていました。

 

 色んな事情で、教会に通っていなかった神学部の友人も、影で彼女の相談を聴きながら、信仰を育んでくれました。

 

 神様は、手引きしてくれる人たちを、いつも彼女に遣わしていたんです。気持ちの上では、神様を信じているかもしれない。でも、洗礼を受けるのはまだまだ先だろう……そう思っていた私には、本当に驚きの出来事でした。

 

 「洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか?」……自分の話を聞いて、そう言い出した宦官に、フィリポも似たような驚きを持ったんじゃないでしょうか? 気持ちの上では、神様を信じてくれるかもしれない。でも、まさか洗礼を受けるなんて!

 

 繰り返しになりますが、彼はエチオピア人です。異邦人は、エルサレム神殿の奥まで入れません。

 

 その上、宦官でもある彼は、去勢された人間だからという理由で、改宗が許されず、ユダヤ人と一緒に礼拝できない*9。わざわざエチオピアからエルサレムまで行って、礼拝に出させてもらえなかった。そんな体験をした帰りです。

 

 それなのに、もう洗礼を受けると言い出した。異国の宗教に入信したなんて知られたら、女王の高官というポストもなくなるかもしれない。同じ神様を信じるユダヤ人から、今後も差別を受けるかもしれない。

 

 本当に、このまま洗礼を授けていいんだろうか? たぶんフィリポも、心を揺るがされたと思います。

 

 しかし、宦官はすぐ車を停めさせ、もう準備万端です。フィリポも腹をくくりました。二人は水の中に入っていき、洗礼式が行われます。

 

【群れを養う牧者に】

 神様は教会にいる私たちへ問われます。牧者は群れを養うべきではないか? 弱いものを強めなさい、病めるものを癒しなさい、傷ついたものを包みなさい。そして、追われたものを連れ戻しなさい……今、私たちに向かって、神様は語られます。

 

 「わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う」「地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」

 

 ほら、あの人も迷っている。あの丘に、山の上に、目立つところに立っているのに、あなたは連れ戻しに行かない。

 

 3ヶ月前、ある方々が言いました。「もう長いこと、礼拝に見えてない人たちを、もう一度誘えないだろうか?」「彼らとまた、礼拝に出ることはできないだろうか?」「こっちから、声をかけちゃ駄目だろうか?」

 

 山の上で、丘の上で、迷っている人たちの存在が示されました。もしかしたら、誘うことでギクシャクするかもしれません。もしかしたら、送り迎えやサポートが必要で、こっちの負担が大きくなるかもしれません。

 

 この提案はある意味、安定した私たちの居場所を揺るがすものでした。色んな責任、色んな懸念が生まれるものでした。しかし、勇気ある、思い切った皆さんの提案は、紛れもなく、神様が求める牧者の姿勢です。

 

 私も、皆さんと一緒に牧者の使命を果たしたい。養うべき人たちを養いたい。この後行われる聖餐式に、キリスト者であり続けるための食卓に、あの人と共に座りたい。

 

 だから……重い口を開いて、洗礼を勧めようと思います。この群れに入りましょうと、呼びかけようと思います。

 

 でも、正直尻込みしています。だから、どうか臆病な私のために、皆さんも一緒に助けてください。心から、主の食卓に連れていきたい、あの人やこの人を誘わせてください。手引きしてくれるあなたが、必要なんです。

*1:エゼ34:4

*2:エゼ34:6

*3:使徒6:1〜7参照。

*4:使徒8:4〜5、14参照。

*5:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、133頁参照。

*6:ルカ9:51〜56参照。

*7:使徒8:9〜11参照。

*8:眞山光彌「使徒言行録」山内眞監修『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、336頁参照。

*9:眞山光彌「使徒言行録」山内眞監修『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、336頁参照。