ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『汚れたものじゃないですか!』 使徒言行録11:4〜18

礼拝メッセージ 2019年7月14日(於:飛騨高山教会)

 

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【なぜ責められる?】

 先ほど読んだペトロの話は、もともと教会にとって「良い報告」から始まってました。自分が伝道した異邦人も、神の言葉を受け入れてくれた。具体的に言えば、コルネリウスという外国人が、一家みんなで洗礼を受けた。

 

 たいへん喜ばしい出来事です。普通なら良い知らせと思って聞くでしょう。しかし、一部のユダヤ人は、ペトロの報告を聞いて責め始めます。「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」

 

 ここでまず、私たちは不思議に思います。どうして割礼を受けていない者との食事が、責められることになるんだろう? ペトロはそういう人の所へ伝道に行って成功したのに、何が悪かったと言うんだろうか?

 

 割礼とは、男性の生殖器から、包皮の一部を切り取る行為。かつて、神に選ばれたユダヤ人全員が行うように定められていた掟です。ようするに、それをしていない者とは、ユダヤ人でない外国人を意味します。

 

 ただし、外国人の中にも、進んで割礼を受ける者たちがいました。それは、ユダヤ人と同じように、信仰を持つようになった異邦人。

 

 自分自身も「神の民」として受け入れられることを願った人たちです。彼らはユダヤ社会に迎えられるため、成人してから生殖器の包皮を切り取ります。

 

 ユダヤ人なら、生まれて間もない赤ん坊の頃に施されますが、彼らは違います。大人ですから、数日間は痛みで動けず、仕事も手につきません。しかし、それをしなければ、公にユダヤ人の共同体に入れない。

 

 何もそこまでさせなくても……と思うかもしれません。でもこれは、「神を信じる民である」ことを示す、大切なしるしでもありました。私たちで言えば、子どもが生まれたらすぐ出生届を出し、戸籍を取るのと似ています。

 

 外国人が日本に移り住む場合も、戸籍の代わりに「登録証明書」を受けるように、外から来た者が、共同体に身を置くための、当然とされる義務でした。それを守らない人々は、自分たちの共同体と不当に関わるけしからん存在……

 

 「割礼を受けなければ、神の民に迎えないなんてかわいそう」……そう思いつつ私たちの国でも、在日の人は帰化しなければ籍がなく、滞日の人はビザがなければどんな理由があっても強制送還。それが当然という感覚を持っています。人を分け隔てる感覚。

 

【神様が決めたことだから】

 ユダヤ教の分派としてスタートした初代教会も、当初は同じ感覚を持っていました。異教の影響で汚れている外国人は、割礼を受け、清くなってから迎え入れるべき。

 

 別の言い方をすれば、「悔い改めて、その証拠を見せるまでは汚れているから近づくな」……そういう話になります。今からすれば、とんだ差別発言です。

 

 わざわざそんな痛い思いをさせなくても、受け入れてあげればいいじゃないか? そう思います。でもこれは、もともと律法で定められている掟でした。ペトロも、外国人のコルネリウスの家へ着いたとき、最初にこう言っています。

 

 「あなたがたもご存知のとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています」……律法、それは神様が人々に与えた掟です。人間が守るべきルールや規範。

 

 それを破ったとすれば、ユダヤ人から責められるのも当然と言えるでしょう。だって、もともと神様が決めたことなんですから! これ以上の理由があるでしょうか?

 

 そう、外国人は異教の神や悪しき習慣を持ち込むとして、ユダヤ人に忌み嫌われてました。接触すれば、イスラエルに汚れをもたらすからと、避けることが推奨されていたんです。

 

 ところが、ペトロはそれを破って外国人の家へ行き、食事や話をしています。おいおい、神が定めていることをどうしてお前が破るんだ? 教会の秩序を、権威を、伝統を破壊していく行為じゃないか?

 

 そう批判されているわけです。これに対し、ペトロは奇妙な体験を引き合いに出して「神様は人を分け隔てない」と力説します。

 

【とんでもない幻】

 その伏線となるのが、使徒言行録10章9節~16節の出来事です。数日前、ペトロがヤッファという町に滞在し、宿の屋上で祈っていたときのこと。昼の12時頃、彼は突然空腹を覚え、何か食べたいと思い、我を忘れたようになります。

 

 すると、天が開いて、大きな布のような入れ物が四隅でつるされて降りてきました。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っています。どうも、それらは旧約聖書に記される「食べてはいけない」ものだったようです。

 

 事実、レビ記11章の食物規定によれば、ここに出てくるあらかたのものがアウトです。昆虫などの地を這うものは、ほとんどが「汚らわしいもの」に分類されました。

 

 空の鳥も、鷲、ハヤブサ、カラスなどの猛禽類、フクロウ、ミミズク、こうのとりなど、食べてはならないものが盛りだくさんです。

 

 それらは全て、神様が「汚れている」として、食べるのを禁じてきた動物でした。まあ、現代の私たちでも、昆虫やカラスを食べようとは、普段なかなか思いません。

 

 だって、ユダヤ人じゃないけれど、「汚れたもの」「アウトなもの」に感じるでしょう? たいていの人は、あまり胃袋に入れたくない感じ。

 

 ところが、一体何の嫌がらせか、神様は腹を空かせたペトロに対しこう言います。「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」……いやいや、これ全部汚れたものじゃないですか! もともとあなたがダメと言ったんでしょう?

 

 ペトロは盛大にツッコミながら答えます。「主よ、とんでもないことです!」もしかしたら、自分は神様に試されているのかもしれない。彼はそう感じたのか、こうも付け加えています。

 

 「清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません!」あなたがずっと昔に命じた言いつけを、私は今日までちゃんと守っています!

 

 ところが、神様は不思議なことを言います。「神が清めたものを、清くないなどと、あなたは言ってはならない」……初耳です。どうやら、かつて汚れていると言った生き物は、もう全部神様が清めたようなんです。

 

 虫であろうとカラスであろうと、私が清めたものは清い。食べてもお前は汚れない。神様はそう言ってきます。とはいえ、ペトロは尻込みします。

 

 私たちだって、「ちゃんと料理してあるから」「食べられるようになっているから」そう言われて、虫やカラスを差し出されても、簡単には口に運べません。

 

 彼の気持ちはよく分かります。もちろん、単に味が心配だったわけではないでしょう。今まで汚れているとされてきたものを手にとって、口に入れ、積極的に取り込む行為。

 

 自分が野蛮になっていく、汚れていくような思いがして、恐ろしく感じられたはず。それなのに、神様は三度もこれを繰り返します。

 

 「ペトロよ、身を起こして、食べなさい」「いやいや、勘弁してください!」……そうこうするうちに、結局全部のものが、また天へ引き上げられてしまいました。いったい何でこんなことをされたのか、ペトロは不思議でたまりません。

 

 するとそこへ、汚れているとされていた異邦人、コルネリウスの部下たちがやって来ます。いつもなら、律法で禁じられているからと接触を拒むはずでした。しかし、ここでペトロはハッとします。「神が清めたものを、清くないなどと言ってはならない」

 

 今こそ、清くない、汚れているとしてきたものを、受け入れるときが来たのでないか?当然避けるべきとしてきたものを、迎えるときが来たのでないか?

 

 ここで改めて、私たちも考えてみましょう。我々が分け隔てせず、受け入れるべき存在とは、たとえば誰を指しているのか?

 

【汚れた者と見なされる】

 この問いに答えるには、もう一度、ペトロと食事した人たちを思い出す必要があります。割礼を受けていない者たち。もっと分かりやすく、現代の私たちでたとえたら、彼らは誰に当たるんでしょう?

 

 ユダヤ社会で、当然するべきことをやってない、義務を果たしていない人たち。私たちで言えば、住民票を持たない者、税金を納めていない者、学校に行っていない者……そういう人たちでしょうか? いえ、もっと突き詰めてみましょう。

 

 私たちの社会で今もなお、定められた規範に従わず「汚れた者」と見なされる人たち。関わること、受け入れることを忌避される存在。それは、たとえばどんな人たちか?

 

 異性を好きにならない同性愛者。恋愛をしないアセクシュアル。体は男性、心は女性のトランスジェンダー……

 

 今も一定数、そこへ近づくことをためらい、関わることを避ける人たちがいます。一緒に食事をするなんて言語道断!

 

 まずは彼らが異性を愛し、結婚し、我々と同じになってから受け入れるべきだ。そういう主張が、感覚が、至る所で溢れています。もちろん、キリスト教会でも。

 

 だって、旧約聖書に書いてあるじゃないですか? 男と寝るように女と寝てはならない。同性間で、関係を持ってはならないと……神の定めた掟によれば、彼らは「汚れた者」じゃないですか? ところが、そんな私たちにペトロは言うんです。

 

 私も、そう思っていた。清くないもの、汚れたものは避けるべきだと……しかし、他ならぬ主が言ったんだ。「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」「どんな人をも、清くない者とか汚れている者とか言ってはならない」

 

 ペトロにとって、教会にとって、どんなに衝撃的だったことか! ペトロはすぐ、コルネリウスの部下に続いて、彼の家へと向かいます。触れたくない、関わりたくない、自分も汚れてしまうから。そう思っていた人の所へ。

 

 やがて、足を踏み入れたその家で、一家全員に聖霊が降り、洗礼が授けられました。でも、もっと衝撃的なのは、ペトロの話を聞いて、人々がこう返してきたことです。「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」

 

【隔たりを超える】

 割礼を受けている者たちにとって、異邦人が悔い改めるとは、割礼を受けることでした。ユダヤ社会で、当然とされる規範に従って生きること。それこそが、悔い改めだと思ってました。

 

 ちょうど一部のキリスト者が、同性愛者の悔い改めを、異性愛に変わることだと思うように。

 

 ただ神を信じて祈っていても、彼らの命は古いまま。我々と同じ規範に生きなければ! 根強く刷り込まれた感覚は、容易に変えることができません。

 

 きっと、再び反論が帰ってくる。ところが、初代教会の人々は、一度静まり返った後、ありえない反応を示します。

 

 ペトロと一緒に、それまで汚れていると思っていた異邦人を受け入れたんです。割礼を受けていない者も、神に心を向けている、神に悔い改めている。そして神は彼らを清め、彼らに命を与えている。そう宣言し、賛美するんです。

 

 いやいや、どこが悔い改めてるんだ! 我々の規範と違うじゃないか! ちゃんと割礼を受けさせろ! そういう主張も、この後度々出てきます。しかし、キリスト教会は長い時間をかけて、その主張を退けていきました。

 

 悔い改めとは、我々の規範に従わせることじゃない。神様に心を向けた生き方だ。人種、性別、出身、言語……そうしたもので、汚れているとか清くないとか言ってはならない。

 

 ユダヤの伝統、慣習、秩序が重んじられた時代に、この変化は驚くべきことでした。でも、教会には度々、ありえないと思っていた変化が訪れるんです。

 

 私が渋谷で伝道師をしていた頃、教会にときどきホームレスの男性が来ていました。その人が来ると、ある人たちはスッと離れ、ある人たちは警戒した様子で見ていました。

 

 家を持たない、働かない、我々の規範に従わない者。実際には、市の草刈りや建築事業、空き缶の収集でまあまあ働いているんですが……それらは認められません。

 

 どこかの会社に就職する、どこかに所属して仕事をする。それが「働く」ことだと思われているから……ある日、またその男性がやって来ました。礼拝の後、お弁当をもらいに。すると、ある年配の方が、我慢できない様子で叫びました……「働け!」と。

 

 男性は少し言い合った後、教会を出て行きました。私はそれを見て、ああ、この教会で彼らが仲良くするのは無理なことかなと思いました。でも、しばらくしてまた、その男性は友達を連れてやって来ました。ホームレスの友達です。またみんな避けます。

 

 この前みたいになったら嫌だな……そう思った私は、みんなからちょっと離れて、彼らと一緒にお弁当を食べ始めました。伝道師が一緒にご飯を食べていたら、さすがに両者も言い争いにはならないだろう。そう思ってドキドキしながら過ごしました。

 

 一緒にご飯を食べていたら、わりと普通な人たちです。実は同じ大学出身だったり、住んでいた場所が近くだったり……色んな話を彼らとしました。最初は遠目に見ていた教会の人たちも、だんだん慣れてきました。あっ、普通に話せる人たちなんだ……と。

 

 でも、両者が仲良くなることは、少なくともしばらくはないだろうと思っていました。ところがある日、前に男性へ「働け!」と叫んだ年配の方が、彼に声をかけたんです。

 

 ポンっとその人の肩に手を置いて、「よく来たね」と……ありえないと思いました。

 

 この人が、この男性を受け入れるなんてありえない! 考えられなかったはず……だけど、その時確かに、人を分け隔てない神様は、2人に変化をもたらしたんです。変わるはずがないと思っていた2人の関係は、私の目の前で変わりました。

 

 教会も、変化するってなかなか難しいことです。でも、神様は私たちを分け隔てない……岐阜地区を覚えるこの月間に、私たちもこの神を賛美し、祈りを合わせたいと思います。