礼拝メッセージ 2019年7月21日
【たとえばの話】
「たとえば」の話ですけれど、もしも今、私が話している途中で誰かが倒れ、起こしてみるともう心臓が止まっていた……となったら、皆さんどうされますか?
すぐに礼拝を中断し、救急車を呼んで、必死に人工呼吸や心臓マッサージを始めるでしょう。まさかそのまま、礼拝を続けるわけありませんよね?
「大変です。この人、息が止まっています!」……気づいた人の叫び声、慌てて振り返る教会員、急いで降りてくる牧師。それまで長たらしい眠気をもよおすメッセージを聞いていた皆さんは、一気にパニックへ陥ります。
「大変だ!」「どうしよう?」「ああ神様!」それなのに、息をしてない教会員を抱きかかえて、牧師がこんなことを言い始める。
「騒ぐな、まだ生きている」……いやいや、心臓が止まっているんです。もう息がないんです。「これはただの仮死状態だ!」とでも言うんでしょうか? そうだとしても、そんなこと言っている場合じゃないでしょう?
「あなたは救急車を呼びなさい」「あなたは担架を持ってきて」「あなたは隣の施設へ行ってAEDを!」……そんなふうに、素早く対応を始めるべき。
ところが、牧師は抱きかかえた信徒を床に寝かせ、もといた講壇に戻って、なんと礼拝を続行します。何の処置もしてくれません。しかも、あろうことか聖餐式を始めてしまう。
倒れている人を前にして、死んだも同然の人をほったらかして、パンを裂き、ぶどう酒を配って、食事を始めてしまうんです。さらにその後、長たらしいメッセージを再開する!
ありえないでしょう? 皆さん気になって、とても礼拝なんてしてられません。ましてや、配られたパンやぶどう酒を味わうなんて、ほぼほぼ無理な話です。
「先生、今そんなことしている場合じゃないでしょう?」「早くこの人を助けましょうよ?」「お話なんて耳に入ってきませんから!」……そう言い出すに決まっています。
【非常識な行動】
2000年前、そんなまさかの行動を、トロアスにいたパウロが取りました。日曜日、夜6時以降に始まった礼拝は*1、当時珍しい3階建の家で行われました。
その最上階で、宣教者パウロのもとに集まった人々は、明日出発してしまう彼の話を聞くために、夜通し耳を傾けていました。しかし、その話の長いこと!
集まっていた青年の一人は、その部屋の窓に腰をかけ、必死に意識を保とうとしますが、ランプの熱と、押し込められた人々の熱気に当てられて、つい、うとうととし始めます*2。
彼の名はエウティコ。「運がいい」という意味の名ですが*3、皮肉なことに、彼は「運悪く」窓から落ちてしまいます。
礼拝中、居眠りする人を戒める教訓的なストーリー……そう言われたらたまったもんじゃありません。世の中にどれだけ、長話の絶えない牧師がいることか!
白状すると、神学生や伝道師をしていた頃、私でも牧師の話が長くなる度、何度も意識が飛びました。あの頃、窓に腰かけていたら、どれだけ生死をさまようことになったでしょう?
冗談はさておき、当時パウロがとった行動は、非常識極まりないものでした。自分の長話で眠りこけ、落ちてしまった青年を抱え、「騒ぐな、まだ生きている」と言う。
「なんだ、死んだのは気のせいか……」そう思って、皆さんホッとしたでしょうか? そうは問屋が卸しません。
だって、ここにはっきり書いてあります。「起こしてみると、もう死んでいた」……「まだ死んだかどうか分からない」「気絶しているだけかもしれない」そんな話じゃありません。
3階建の家と言えば、当時は建物の最上階……窓に腰かけて落ちたんですから、間違いなく頭から真っ逆さまです。首の骨が折れるか、頭が割れるか、酷い有様だったでしょう。
周りにいた人々も、よくパウロの言うことを素直に聞いていたなと思います。普通、目の前で死者が出たら、「騒ぐな」と言われても騒ぎます。
夜明けまで続く話にも、付き合ってなんかいられません。何人かで無理やり青年を担ぎ出し、医者か家族のところへ連れて行く。そういう行動をとったはずです。
【共同体になる】
ところが、集まっていた人々は、誰一人常識的な行動を取りません。むしろ、パウロの言うとおり騒ぐのを止めて、渡されるままパンをとり、食べ終わったら、大人しく長話を聞き続ける……
どれだけ悠長にしているんでしょう? 言われるがまま、流されるまま、彼らは受け身だったんでしょうか?
この会衆、もしかすると、パウロよりずっと異常な存在かもしれません。まだ若い青年が窓から落ちて死んだにもかかわらず、外からやって来た宣教師の言うことを聞いて、平然と礼拝を続けるんですから……
まあ、さすがにそれは悪く言い過ぎって言われるかもしれません。彼らだって、突然の悲劇に、どうしたらいいか分からなかったんだと。
今のように、パッと救急車が呼べる時代じゃない。息が止まったら、心臓が止まったら、ほとんど奇跡に頼る以外なかった。祈ってお願いするしかなかった。だから、仕方ないんだと……
でも、そうだとしても、この会衆が、ある問題を抱えていたことは事実です。それは礼拝中、青年が命を落とすまで、誰一人、窓に腰かけた彼を気に留めていなかったという事実。
3階建の最上階、たくさんの灯火で明るく照らされた部屋の中、ここに、うとうと眠りかけた青年が、何もはまっていない窓の枠に腰かけています。
明らかに危ない。だけど、誰も気に留めない。「危ないよ、そこから降りてこっちに来たら?」「そのまま寝たら落ちちゃうよ」……そう声をかける人もいない。
人々はパンを裂くために集まっていました。ここで言うパン裂きは、明らかに聖餐式のこと*4。みんな礼拝に集まっていた。一人で聖書を読んだり、一人で講師に話を聞く勉強会じゃない。
同じ信仰を持つ者たちが、一緒に礼拝する場面……だけど、自分の前に、隣に、後ろにいる人を、この部屋では誰も気に留めていなかった。
そんな中、起きた悲劇……人々は自分を責めたでしょう。何ですぐ側にいる彼を、気に留めなかったんだろう。何で彼に声をかけ、一緒に床へ座らなかったんだろう?
同じ部屋で、同じ人から話を聞いていたのに、私たちは彼が死ぬまで、彼の様子を気に留めなかった。
後悔と罪悪感で一杯の会衆に、パウロは淡々としています。当初の目的通り、パンを裂き、人々に分け始めた。それを受け取ったこの会衆は、どんな思いだったでしょう?
もう何も考えられなかったか、ショックで呆然としていたか……彼らは流されるまま、パウロからパンを受け取ったんでしょうか? いえ、私はそうは思いません。
【パン裂きと応答】
パンを取って口に入れる、杯を渡されてそれを飲む……いかにも受動的に聞こえますが、実はこれ、非常に能動的な行為でした。
だって、不自然でしょう? 「これはキリストの体です」と言われたパンを食べ、「これはキリストの血潮です」と言われたぶどう酒を飲む……まあまあ勇気のいるおかしな行為、「それをする」と選びとらなきゃできない行為。
死んだ青年を前にして、パウロと食事をした人たちも、大きな戸惑いと葛藤がありました。こんなことをしていて、彼を助けられるのか? 「死」という汚れが目の前にあるのに、ここで食事をしていいのか?
しかし、その場にいた一人一人が、裂かれたパンを受け取って、自分の口へと運びます。
「騒ぐな。まだ生きている」そう言って、キリストの十字架と復活を思い起こす、一連の食事が始められた。かつて、ヤイロの娘を甦らせ、ナインのやもめの一人息子を復活させたイエス様が、自分を記念して行いなさいと命じた食事。
死者を生き返らせ、永遠の命を与える方が、私たちと共にいる……そのことを思い出させるパウロの行為。
そう……「騒ぐな。まだ生きている」というパウロの言葉は、かつてイエス様が「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」と言われた言葉を思い出させます*5。
あの時、少女は確かに死んでいたにもかかわらず、イエス様は言われたとおり、彼女の手を取って起こされた。
また、パウロが青年の上に屈み込み、抱きかかえたという行為は、預言者エリヤが、やもめの息子を生き返らせ、後継者エリシャが、シュネムの息子を生き返らせたとき、行なっていた動作と同じものです*6。
死んだ人を生き返らせる、いくつもの出来事を想起させながら、パウロはキリストの定めた食事を始めます。「信じなさい、彼は起こされる」
人々は、その行為に、そのメッセージに応答します。「私も復活の主を信じています」「私もキリストの与える命を信じます」……突然の悲劇にたじろぐことなく、目に見える聖餐というメッセージを送るパウロに、人々は答えていきました。
私たちが、毎月第1週目に行う聖餐式も、御言葉の招きに対する応答であり、能動的な行為です。流されるまま、言われるままの儀式ではなく、あれは皆さん一人一人の「返事」なんです。
ありえない変化を起こす方、信じがたい回復をさせる方、その方を今思い出し、もう一度心から信じますと……
【食事を分かち合う】
ここしばらく、聖餐式の式文が色々変わっていることに、皆さんも気づいているでしょう。聖餐式は、信仰を告白した人が、キリスト者であり続けるための式なので、パンを配られる人と配られない人、杯を渡される人と渡されない人が出てきます。
今までは、パンと杯が配られた後、洗礼を受けていない人のために、牧師が祝福を祈っていました。
でも最近は、教会員一人一人から、洗礼を受けていない人へ、祝福を祈る式文にしています。
「パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう」私がそう言った後、信徒の皆さんは、パンを配られなかった人のためにこう祈ります。
「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」……そしてこう命じられる。「食べなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように」
「杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう」私がそう言えば、信徒の皆さんは、近くで杯を持っていない人のためにこう祈ります。
「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」そしてこう命じられる。「飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように」
多くの人は分かっています。どれだけ一緒に食べたくても、どれだけ一緒に飲みたくても、それが困難な人がいる。
家族でも、友人でも、どんなに親しい間柄でも、自分の言葉で、自分の勧めで、洗礼を受けてもらえるとは思えない。信じてもらえるとは思えない。私から信仰を共有できる、私からパンと杯を受け取らせることは、不可能だろう。
パンを口に入れるとき、この食事を一緒に味わえない人がいる……そのことを、私たちはあまり意識したくありません。申し訳ない、罪悪感が出てくるから。
死者を前にしてパンを裂き、夜明けまでパウロの話を聞いていた人たちも思いました。自分が食べているこのパンを、窓から落ちた青年はもう食べられないんだと。
私が気にかけなかった、起こさなかったばかりに、彼は飲むことも食べることもできなくなった。
私たちは、自分が聞くのに必死で、自分が受けるのに一杯で、彼と一緒に聞くことをしなくなっていた。もう、この共同体で、彼と一緒に聞き、食べ、飲むことはできない……
でも、不可能を可能にする方がいるんです。死者を起き上がらせ、信じない者を信じる者に変える方が。分かち合えなかったパンと杯を、分かち合えるようにする方が……
この日、パンと杯を分け合った会衆のもとで、パンと杯を受け取れなかった青年が、パウロの出発と共に起き上がりました。彼はまた、一緒に飲み、一緒に食べることができるようになったんです。
聖餐式は、これらの出来事を思い出す食事です。既に、死によって沈黙している者でさえ、「起きなさい」というキリストの声は届いてしまう。
私たちが地上でパンを裂き、杯を飲むとき、天においても一緒に、パンを分けられる人たちがいる。今ここで、パンを渡されていない人も、必ず受け取るときが来る。
私たちが聖餐によって慰められるのは、自分が食卓につけるからではありません。自分と一緒に座れないはずのあの人が、同じ食事に招かれるから。自分だけじゃ、連れてこれないあの人を、神様が一緒に招いているから。
この方が必ず、来るべき日に、私たちを同じ食卓につかせ、同じ喜びを共有し、祝福を与えてくださる……「この神はわたしたちの神」「主、死から解き放つ神!」
*1:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、279頁2〜7行目参照。
*2:ウィリアム・ニール著、宮本あかり訳『ニューセンチュリー聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、2007年、279頁11〜13行目参照。
*3:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、362頁上段17〜18行目参照。
*4:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、362頁上段13〜16行目参照。
*5:グスターフ・シュテーリン著、大友陽子、秀村欣二、渡辺洋太郎訳『NTD新約聖書註解(5)使徒行伝』ATD・NTD聖書註解刊行会、1977年、534頁5〜6行目参照。
*6:W.H・ウィリモン著、中村博武訳『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、236頁15〜18行目。