ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『同じことを話せ?』 使徒言行録13:26〜43

聖書研究祈祷会 2019年7月31日                    

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【もう一度聞きたい?】

 この前聞いた話をもう一度聞く、それも一ヶ月、二ヶ月前の話じゃなく、先週聞いた話をもう一回……こんなふうに、同じ話を繰り返し聞かされるって、なかなかしんどいことだと思うんです。

 

 皆さんも、先週の礼拝で聞いたばかりのメッセージを、今週もう一度聞くことになったら、ちょっとげんなりするでしょう?

 

 間に数ヶ月、数年のときがあったら、「あの時聞いたことを、もう一度聞いてみたい」と思うようになることもあるでしょう。

 

 社会人になって数年してから、もう一度大学の授業を受けてみたくなったり、高校の英語の教科書を開いてみたくなったり……そういうのは分かりします。

 

 でも、現役生の頃は、一週間前に受けた授業をもう一度受けてみたいなんて、まず思わなかったですよね? 退屈な話であればあるほど、間を置かずに「また聞こう」なんて、なかなか思えなかったはずです。

 

 日曜日の礼拝でさえ、同じことばかり繰り返されて、「そんなのもう知ってるよ」という気分になる人が多いんですから。

 

 実際、「先生、この前の話よかったです。来週も同じ話をしてください」なんて言われたことのある牧師は、滅多にないと思います。

 

 むしろ、自分ではそのつもりがないのに、「今週もまた同じ話でしたね」「毎回同じ話をしてません?」と言われて、ほとんど変化のないメッセージをしている自分に、意気消沈する牧師の方が多いでしょう。

 

 ところが、初代教会の使徒たちは、我々牧師が羨むようなことを言われています。「パウロとバルナバが会堂を出るとき、人々は次の安息日にも同じことを話してくれるようにと頼んだ」

 

 先週話したメッセージを、もう一度話すように頼まれる。説教を準備する者としては、なんとありがたいお願いでしょう! 来週は新しい話を準備する必要がなくなります。

 

 まあ、それは冗談として、この反応は語り手にとって、けっこうすごいことだと分かります。面白い話、感動的な話を聞いて、次も同じ人に話してほしい! と思うことはあっても、同じ話をもう一回してください! とは、なかなかならないのが普通です。

 

 加えてパウロが人々に語ったのは、決して「面白い話」でも「感動的な話」でもありません。

 

 実際、今パウロの演説を読んでみて、皆さんは「もう一度聞きたい」と思うでしょうか? 「感動した」と感じるでしょうか? 正直言うと、私はあまり思いません。

 

 これのどこが感動的? これのどこが素晴らしい? むしろ、つまらない歴史の話や、訳わからない出来事の羅列が散りばめられている……また聞こうとは思えない。

 

 これを今、路傍で拡声器から語っても、誰一人聞きに来ないでしょうし、「もう一度聞かせて」と言う人もいないでしょう。しかし、アンティオキアで彼の話を聞いた人たちは違いました。

 

 彼らは会堂を出るパウロとバルナバを引き止めるようにして、「来週も同じ話をしてください」と頼んだんです。いったいなぜ、彼らは「また聞きたい」と思ったんでしょう? そんなに心を打つメッセージが、この演説にあったんでしょうか?

 

【脅されている?】

 意地悪な私は、彼らがパウロの言葉に感動したから、「もう一度聞きたい」と思ったわけではないんじゃないかと思います。

 

 むしろ、人々はパウロの言葉に「怯えた」からこそ、もう一度聞こうとしたんじゃないか? なにせ、パウロはメッセージの締めくくりにこんな言葉を残しています。

 

 「見よ、侮る者よ、驚け。滅び去れ。わたしは、お前たちの時代に一つの事を行う。人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない事を」……ハバクク書1章5節の引用によって警告する言葉*1

 

 もともとは、神に背いたイスラエルの民に、カルデア人の来襲によって刑罰が下される……という預言でしたが、ここでは、救いの言葉を拒否するユダヤ人に、無知と滅びが宣言されます*2

 

 「人が詳しく説明しても、お前たちにはとうてい信じられない」……それが続けば、かつてカルデア人に攻撃を受けたイスラエルのように、自分たちも滅びてしまうと言われている。

 

 けれども、正直パウロの話を一回聞いただけでは、詳しく説明されても分からない。イエス様は救い主だ! イエス様は復活した! イエス様を信じなさい! いきなり言われても、分からない。

 

 しかし、これを聞いて理解しないと、私たちも滅びてしまうのか?……そんな恐れを抱きつつ、人々は慌ててパウロとバルナバに「来週もう一度話してくれ」と願ったんじゃないかと思うんです。

 

 ちょっと卑怯に感じます。これじゃあ、ただの脅しじゃないかと。もっともらしく、自分たちの話を聞かなきゃまずいと思わせて、コントロールする教祖じゃないかと。

 

【滅びるはずだった】

 けれども、よくよく聞いてみると、パウロのメッセージは、単に危機感を煽って人々をコントロールする話でもありません。

 

 なぜなら、先ほど私が「つまらない」と言った歴史の話、訳わからない出来事の羅列が、「神を侮り」、キリストを「とうてい信じられなかった」頃の、パウロ自身の姿を映し出しているからです。自分で自分の、愚かな過去を掘り起こす。

 

 パウロのメッセージは13章17節から、まず、イスラエルの歴史の回顧から始まります。それはちょうど、しばらく前に殉教した、ステファノのメッセージと同じ始まり方でした*3

 

 ステファノといえば、まだパウロが回心する前に、ユダヤ人から石打の刑で殺されてしまった最初の殉教者。その時、パウロ自身も彼の処刑に賛成していた一人でした。

 

 かつて、自分が死に渡したキリストの弟子と、同じやり方でメッセージを始める。もともと、キリスト教徒を捕まえて処刑するため、各地を巡っていたパウロの過去は、ここでも知られていたでしょう。

 

 そのパウロが、処刑に賛成して殺した相手と、同じやり方で語り始めた……自分も苦しみを受けるつもりで話し始めた。人々はハッとして耳を澄ませます。

 

 彼は、イスラエルの歴史を振り返ったあと、今度は、神様が約束された救い主イエス・キリストが死に渡され、葬られたことを語ります。それは、人々がイエス様を神の子だと信じないで、かつて預言者が残した言葉も、理解しなかったためである。

 

 「人が詳しく説明しても、とうてい信じられなかった」……その信じられない側に、パウロ自身もいたことが思い出されます。

 

 さらに彼は、殺されたイエス様が、三日目に死者の中から復活させられたことを話します。「人が詳しく説明しても」「とうてい信じない」者だったパウロが、信じる者になっていくのは、この復活したイエス様の幻と出会うことができたからです。

 

 古い律法に照らせば、イエス様のことを聞いたとき、ステファノの証を聞いたとき、信じることのできなかったパウロは、義とされることなく、正しい者とされることなく、自分の罪の報いを受けて、滅びていくはずでした。

 

 しかし、復活したイエス様は、そんなパウロの元にも現れます。自分を迫害する者のところへ、イエス様は救いをもたらしにやって来た。とうてい信じられないことを、私の身にもたらした。

 

 見よ、侮る者よ、驚け。古い私が死んだように、信じなかった私が滅びたように、古いあなたも死になさい。

 

 キリストは、今私の言うことを理解できない、信じられないあなたのもとへやって来た。あなたを生かしにやって来た。この私がこれだけ変えられたように、あなたも信じて生きる者へと変えられる……

 

 人々が、もう一度聞きたいと思ったメッセージ……それは、もともと信じていなかったパウロ自身の口から出てきたからこそ、人々を惹きつけたんでした。

 

【誰が喜ぶ内容?】

 さらに、パウロは冒頭でも、衝撃的な言葉で始めていました。16節にこうあります。「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました」

 

 救いの言葉を送られた「わたしたち」……その中には、神様を信じて受け入れながら、まだ割礼を受けていない異邦人も含まれました*4

 

 ユダヤ人にとって、神様を信じていても割礼を受けていない異邦人は、まだ神様に救われる存在ではありません。私たちキリスト者でいえば、神様を信じているけれど、一向に洗礼を受けようとしない人……その人たちと言うことができるかもしれません。

 

 けれども、パウロは語ります。ユダヤ人にも異邦人にも、神様は救いをもたらされる。我々が、ここまでしないと救われない、ここまでしたら救われる、と勝手に設ける基準を超えて、神様は救いをもたらされる……

 

 この知らせは、異邦人にとって、掟をしっかり守れない人にとって、ホッとする話だったものの、ユダヤ人にとっては、不満が残るものでした。

 

 それならなぜ、神は我々に掟をもたらしたのか? 掟を真面目に守っている人は意味がないのか? そんなことを言ったら、誰も掟を守らなくなる! 我々の世界が、秩序が、壊れてしまう!

 

 様々な議論が起こります。みんなを不安にさせていきます。それだけショッキングな話でした。感動とか素晴らしいとか言ってる場合じゃありません。

 

 しかし、さらに驚きなのは、この話を聞いて、「多くのユダヤ人と神をあがめる改宗者とがついて来た」というところです*5

 

 会堂にいた異邦人だけでなく、ユダヤ人もパウロの言葉を聞いてついて来た。ユダヤ人こそ、この話を受け入れ難かったのに、もう一度聞きたいとついて来た。

 

 聖書を読んでいると、「信じる者と信じない者」との二項対立、「異邦人とユダヤ人」との二項対立が目立ちます。どちらかは救われ、どちらかは滅ぼされる……私たちは2つに分けられる……そんな単純なイメージに陥りがちです。

 

 頑固なユダヤ人は見捨てられ、弟子たちは異邦人へ伝道するようになった。そう思っている人もいるかもしれません。

 

 しかし、実際は違います。パウロとバルナバは、次の安息日にユダヤ人から口汚くののしられても、自分たちの話を拒まれても、やっぱり、ユダヤ人の会堂に行って話をしました*6

 

 彼らがユダヤ人への伝道をやめることはありませんでした。キリストが、自分を迫害するパウロに語りかけるのをやめなかったように。

 

 今日、聖書を通して私たちに語りかける神様は、厳しい警告、裁きの言葉を語りながらも、私たちを救うために、一切分け隔てなさいません。

 

 どれほど愚かで罪深い相手にも、自ら死んでまで、生き返ってまで変化と回復を与えます。そのことを、もう一度心に留めて、もう一度聖書の言葉を、聞いていきたいと思います。

*1:正確には、ハバクク書1章5節の七十人訳聖書からの引用。

*2:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、347頁上段4〜8行参照。

*3:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、346頁上段7〜8行参照。

*4:眞山光彌「使徒言行録」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、346頁上段4〜6行参照。

*5:W.H・ウィリモン著、中村博武訳、『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、196頁6〜7行参照。

*6:W.H・ウィリモン著、中村博武訳、『現代聖書注解 使徒言行録』日本基督教団出版局、1990年、197頁2〜3行参照。