ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『平和な話ができません!』 ルカによる福音書8:1〜3、フィリピの信徒への手紙4:1〜3

礼拝メッセージ 2019年8月4日

 

f:id:bokushiblog:20190806112627p:plain

 

【どの口が言う?】

今日は平和聖日です。名前のとおり、平和を祈り求める日曜日。それなのに、メッセージのタイトルは『平和な話ができません!』……

 

 じゃあ、何を話すと言うんですかね? 明日は74年前に広島へ原爆が落とされた日。続けて3日後に長崎へ原爆が落とされました。あんなことが二度と起こらないよう、みんなで平和を守らなければ……

 

 互いに協力し、一致と団結を経て、暴力の連鎖を断ち切ろう。国と国、人と人との間をとりなし、和解に向けて歩んでいこう。

 

 今日はそのために、聖書から神の言葉を聞くときです。礼拝が終わって教会を出ていくときには、皆さんの心が一つになっている。争いや対立から解放されている……そんなメッセージが望まれます。

 

 でも、先に言っておきます。この後、皆さんが礼拝堂から出ていくとき、おそらく心の中は平和的じゃありません。むしろザワザワしているでしょう。

 

 ついさっき、慣れない賛美歌を歌わされたときのような、落ち着かないギクシャクした気持ち。どうしたらいいか分からない感覚……それが皆さんの中に残ると思います。

 

 なぜなら、平和のために必要な「一致」と「団結」へ至るように、あなたも踏み出しなさいと容赦なく命じられるからです。

 

 自分自身が対立する者、争う者と一致することを目指しなさい……さっき読まれた言葉の背景は嫌というほど具体的です。「わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」

 

 パウロの手紙でそう命じられたのは、初代教会で指導的役割を果たした2人の女性。かつて、パウロと一緒に力を合わせて伝道してきた、みんなから頼りにされている2人です*1

 

 ところが、現在この2人は抗争状態にあるようです*2。たとえるなら、教会で主要な役割を果たす女性会(婦人会)のリーダーと奏楽奉仕のリーダーが対立しているような場面!

 

 もちろん、そんなことが起きたら……と思うと、どの教会でも穏やかじゃありません。想像しただけで、平和な気持ちじゃなくなりますよね。2人が何をめぐって争っていたのかは分かりません。でもきっと、教えや信条をめぐる争いではなかったと思います。

 

 もしそうなら、あのパウロがキリストの「正しい教え」について言及しないわけがない! 私はもっと生活的なこと……「奉仕の仕方」をめぐって、争っていたんじゃないかと思います。

 

 現代の教会でも、「何をどう信じているか?」より「奉仕の仕方」による違いが、争いのタネになりやすい。

 

 愛餐会(昼食会)の用意の仕方、聖餐式の片付け方、礼拝堂の掃除の仕方……ある人にとって「正しいやり方」が引き継がれてないと、途端に言い争いが始まります。

 

 「出汁の取り方が違う!」「食器の立てかけ方が違う!」「掃除の手順が間違っている!」……ここから始まる論争は、「あなたの信じる教えは間違っている!」なんてことより、よっぽど耳にしやすい話です。

 

 初代教会ができたばかりのときも、やもめに対する食事の配分、奉仕の仕方が、まず問題になりました*3

 

 私たちは、お互いが何をどう信じているかは見えませんが、誰にどう奉仕しているかは一発で見えてしまいます。「そんなやり方あり得ない!」「その進め方はなってない!」

 

 難民への受け入れ態度、拉致被害者に対する姿勢、慰安婦問題への対処……同じ平和を望んでいても、他者に対する奉仕の姿勢が違うだけで、私たちは一つになれません。

 

 「そんな制度は間違っている!」「そんな交渉あり得ない!」「そんな表現違うでしょう!」……お互いの話を聞かないまま、キリスト者同士も争います。

 

 それに対するパウロの言葉はとても簡潔です。「主において同じ思いを抱きなさい」……みんな神様に心を向けて、キリストの愛と平和を求めなさい! そうすれば、和解と平和がもたらされる……パウロはそう言いたいんでしょう。

 

 でも、ちょっと待ってください。「主において同じ思いを抱きなさい」って簡単に言うけれど、パウロ自身はどうだったんでしょう? 他の弟子たちと「同じ思い」を抱いて、宣教できていたんでしょうか?

 

 残念ながら彼自身、一緒に伝道してきた仲間たちと何度も衝突し、離れ離れになった人物です。ガラテヤの信徒への手紙2章11節〜14節には、異邦人との食事をめぐってペトロと対立したことが書かれています。

 

 もし、イエス様がこれを見たら言ったでしょう。「わたしはパウロに勧め、またペトロに勧めます。神において同じ思いを抱きなさい……」

 

 また、使徒言行録15章36節〜41節には、宣教へ連れていくべき人をめぐってバルナバとも衝突し、別々に別れて行動することになったと書かれています。

 

 ここでもイエス様がいたら言われるでしょう。「わたしはパウロに勧め、またバルナバに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい」

 

 そう、エボディアとシンティケに語られた言葉は、パウロ自身、できていなかったことなんです。「どの口が言う?」っていう話……

 

 私たちは「一致しないで平和に至ることは困難だ」と知っていますが、そもそも「一致すること」自体が相当難しいことでした。むしろ、グループの中で「一致」するために、一部の人が黙らされたり、別々に別れたりすることが繰り返されてきたんです。

 

【一致の影で】

 実は、平和聖日の今日、日本基督教団の聖書日課で指定されている4つの箇所には、「女性の働き」という主題が付け加えられています。

 

 でも、最初に読んだルカによる福音書8章1節〜3節の話は「女性たちがイエス様と12弟子の世話をする」というものでした。これだけ見ると、「女性の働き」とは「副次的なもの」で「男性たちの世話をすることだ」という印象を抱いてしまうかもしれません*4

 

 人々を教え指導するのは男たちで、女たちはその奉仕をする。教会が一致団結して福音を伝えていくために、女は黙って世話することが求められる……

 

 事実、パウロが残した手紙の中には、女性に黙っていることを求める箇所や、女性の主体的な活動を制限するような言葉が数多く残されています。

 

 そう、人々が一致団結する影で、主体性を奪われてきた人たちがいました。「一致」という美しい言葉を使って、黙らされ、拘束され、制限されてきた人たち。

 

 戦時中、全てのキリスト教会が、強制的に統合されてできた日本基督教団も、そんな集団の一つです。国家のために献金を集め、「キリスト教号」という戦闘機を提供し、戦争に協力した過去を持つ。

 

 「国家に従うのではなく、主において心を一つにするべきだ」そう主張した牧師や信徒は捕えられ、見捨てられ、何なら教団から追い出されました。「我々の一致を妨げる!」と。

 

 国民全体が団結して戦争に勝てば、平和が来ると思っていた……思想信条を一致させれば、調和がもたらされると信じていた……でも、実際にもたらしたのは、単なる戦争協力だった。

 

 思想信条を一致させる、それこそが団結と平和をもたらすという考え方……たぶん間違っているんです。私たちが一致させようとして、他の誰かを黙らせようとした瞬間、神様から心が離れ、自分の思いに支配されてしまうんです。

 

 だから、「主によってしっかりと立ちなさい」……自分自身もしっかりと立てていなかった、パウロの口からそう言われます。

 

【平和の道】

 でも正直、そんなの無理じゃない? と思わされます。対立している人と、立場の違う人と、同じ思いなんて抱けるのか? 健全な一致なんてできるのか? 考えれば考えるほど、不可能に感じてしまいます。

 

 ところが、私たちはつい先ほど、「女性の働き」という主題の付された聖書箇所で、奇妙な一致を見させられました。もう一度、ルカによる福音書8章1節〜3節を見てみましょう。

 

 「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。12人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」

 

 イエス様と12弟子に奉仕をする女性たち。よく見ると、身分も立場もバラバラです。マツダラのマリアは、「罪深い女」とも言われ、一般に知られている伝説では「娼婦」として出てきます*5

 

 夫のいる女性たちにとっては、彼女の価値観、彼女の生き方はたいへん受け入れにくかった……何度も衝突したんじゃないかと思います。

 

 ヘロデの家令クザの妻ヨハナ……あの悪名高いヘロデ王の家臣の妻! よくこの共同体に受け入れられたと思います。資産のある妻ですから、金銭感覚の違いからも色んな対立が起きそうです*6

 

 イエス様と敵対する一味とつながりのある女性……信頼を得続けるのはなかなか難しかったんじゃないでしょうか? 離婚したり、逃げ出してきたならともかく、いつ彼女がイエス様に不利なことを夫に漏らすか分からないんです。

 

 スサンナという名前はここにしか出てきません。もはや何者か分からない、めちゃくちゃ怪しいポッと出の女性です。おそらく、イエス様に病を癒してもらった人の一人なんでしょう。

 

 ある意味、身分も所属もはっきりしないこの女性が、一番不安のタネかもしれません。何をする人なのか、さっぱり予想がつきません。

 

 ところが、立場も思想も価値観もバラバラな女性たちが、最初にイエス様の弟子として一致を見せます。みんなでイエス様と12弟子の世話をした……パウロやペトロ、バルナバが仲違いして離れ離れになる一方、彼女たちはずっと一緒に行動します。

 

 イエス様の服を洗うとき、弟子たちの食事を作るとき、そのやり方をめぐって何度も衝突したであろうに、彼女たちは離れ離れになりません。

 

 イエス様といるときも、イエス様が死んだときも、イエス様が復活したときも、この衝突しやすい立場の違う女性たちは、いつも一緒に現れました。なぜなんでしょう? 

 

 私は、次の言葉にヒントがあると思います。「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」

 

 イエス様の昇天後、初代教会の人々が互いに持ち物を出し合って、必要に応じて分け合った*7……それより前に、彼女たちはもう同じことをして、キリストの前に一致していた。

 

 教会に最初の一致をもたらしたのは、イエス様によって始められた「分ける」という行為であり、彼女たちはそれにならったんです。

 

 自分の持つパンを裂き、人々に分け与える。自分の力を弟子たちに分け、癒しと回復を分け与える。

 

 人々が、イエス様にならって「分ける」という行動をとったとき、一致をもたらす聖霊がやってきました。衝突し、対立し、別れ別れになっていた人たちと、分け合うことで一緒になった。

 

 この岐阜地区にあるいくつかの教会も、常にみんな一緒に仲良くできたわけではないでしょう。「あの教会と一緒に何かをやるなんてありえない」……パウロがバルナバたちと別れたように、教会同士も離れ離れになり得ます。

 

 でも、再び一緒になるときがあるとすれば、それは何かを「分ける」ときです。

 

 礼拝の中で一緒にパンを分け、杯を分かち合う……昨日まで顔も合わせたくなかった人同士が、今も口をきけない人同士が、一つのパンを分けあって、一つの皿から杯を取る。

 

 9月29日に行われる8つの教会の合同礼拝……きっとこのとき、「主において同じ思いを抱く」ことが、私たちにもできるはずです。あり得ない回復が起こるはずです。

 

 だって、そこにイエス様がやって来るんですから。食事を忘れ、下を向いて、お互いの顔さえ見ない弟子たちのもとへ、復活の主は現れて、パンを分け始めたんですから。

 

 平和の道は、イエス様が示した「分ける」という姿から始まります。今ぶつかっているあの人と、衝突しているあの人と、一緒にこの食卓へつくことが、私たちに命じられる。

 

 あなたがたに勧めます。共に食べ、共に飲みなさい。

*1:山内眞「フィリピの信徒への手紙」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、565頁上段1〜3行参照。

*2:山内眞「フィリピの信徒への手紙」『新共同訳 新約聖書注解I』日本基督教団出版局、2013年、565頁上段3〜4行参照

*3:使徒6:1〜7参照。

*4:聖書日課プロジェクトー「4年サイクル主日聖書日課」を礼拝・説教に生かすためにー

http://www5.famille.ne.jp/~amdg/lectionary/参照。

*5:F.B・クラドック著、宮本あかり訳、『現代聖書注解 ルカによる福音書』日本基督教団出版局、1997年、179頁11〜13行参照。

*6:.B・クラドック著、宮本あかり訳、『現代聖書注解 ルカによる福音書』日本基督教団出版局、1997年、179頁15〜16行参照。

*7:使徒2:43〜47参照。