ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『愛が重い……』 出エジプト記22:20〜26、ローマの信徒への手紙12:9〜21

礼拝メッセージ 2019年8月18日

 

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【そこまでさせますか?】

 愛が重い……メッセージのタイトルにつけたこの言葉は、ローマの信徒への手紙を読んで思わず口から漏れてしまった、私の正直な感想です。

 

 牧師がこんなこと漏らすのはまずいかもしれませんが、皆さんも教会に来ていて一度か二度は「聖書に出てくる愛って重たいな……」と感じたことがあるんじゃないでしょうか?

 

 「隣人を自分のように愛しなさい」「敵を愛しなさい」「互いに愛し合いなさい」……有名な教えはどれも愛に関することで、サラッと困難なことを命じています。

 

 キリスト教を信じるということは、これらの愛を実践すること。どんなときにも、誰に対しても、思いやりをもって接していく、愛に満ちた行動をする。それこそが、クリスチャンだと思われます。

 

 逆に言えば、愛が実践できない人は「名ばかりのクリスチャン」「本当に信じているとは言えない人」……そんな評価を受けかねません。

 

 実際、世間が思い描くクリスチャンのイメージと、自分自身の間にギャップを感じて、ため息をついている人もいるでしょう。あの人だけは愛せない。愛したいのに無視してしまう。

 

 こんなんじゃ、クリスチャンとは言えないなぁ……まだまだ愛の人にはなれないなぁ……そう思っているまさにその時、この手紙はとどめを刺しに来ます。

 

 ただでさえ、愛することの難しさを感じている私たちに、愛のハードルをさらに上げてくるからです。

 

 「愛には偽りがあってはなりません」……冒頭から大きく出ました! 嘘偽りない愛こそが本当の愛!……でも、愛する我が子に対し、嘘をついたことのない親がいるでしょうか?

 

 幼稚園に行くことを嫌がってギャン泣きする子に、「今日はどこどこへ行こう」と誤魔化しながら、何とか玄関まで連れてくる。そんなお母さんやお父さんの苦労を思うと、私には厳しすぎる言葉に感じます。

 

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」……白状します。私には双子の兄弟がいますが、ときには相手を見下します。

 

 兄弟間でさえ、尊敬をもって接すること、相手を優れた者と思うことは難しい。というか、兄弟だからこそ、難しいのかもしれません。でも、真の兄弟愛なら、これができて普通なんでしょうか?

 

 「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」……出ました、キリスト教の無茶ぶりです! 自分を苦しめる人にまで祝福しろと言ってくる。しかも、「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と念押しする。

 

 分かっています。嫌われている相手に憎しみをぶつけたって、負の連鎖が続くだけ……相手の不幸や苦しみを願うべきではありません。

 

 でも、祝福しろとまで言うのは、ちょっと言い過ぎじゃないですか? 相手を呪わないだけでも相当我慢強くないですか? ここまでしないと、本当の愛とは言えないんでしょうか?

 

 「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」……他人が喜んでるときには嫉妬にかられ、誰かが不幸な目に遭うと自分でなくて良かったとホッとする。残念ながら、この言葉を実践するのは簡単なようで難しい。

 

 私も周りの成功を素直に喜べないときが多々あります。たとえ、その人のことを大切に思っていても……もし喜べなかったら、この愛は本物じゃないんでしょうか?

 

 「互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい」……聖書の教える愛は、近くにいる人だけを愛する愛ではありません。

 

 自分から関わろうとは、なかなか思えない人たち、自分と世界が違う人とも、積極的に交わりなさいと勧めます。人見知りやコミュ障にとっては致命的。この言葉自体が暴力です。

 

 「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」……嫌味に対して嫌味で返さず、悪口を言う者にも親切を、あなたが嫌う人にも思いやりを見せなさい。

 

 もうお腹いっぱいです。これらを満たさなければ、愛の実践ではありませんと言うのなら、事実上、私たちには不可能です。

 

【ここまでは分かりますが】

 そう、ローマの信徒への手紙に出てくる愛の掟は、相当「重く」感じるものでした。こんな聖人級の愛、私たちに求められても困ります。

 

 「これがキリスト教的愛の生活の基本だ」と言われても「そんなの無茶です」と言いたくなります。まだ、最初に読まれた出エジプト記22章に出てくる掟の方が、妥当なものに感じます。

 

 「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない」「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない」「貧しい者に金を貸す場合は……高利貸しのようになってはならない」後から読んだ手紙に比べて、だいぶ現実的な話です。

 

 虐待や暴力、搾取を禁じ、生活困窮者の援助を求める具体的な掟。これくらいなら受け入れられます。

 

 さらに、なぜ寄留者や未亡人、孤児や貧しい者の気持ちになって助けるべきかも非常にシンプルな言葉で教えています。「あなたたちはエジプトの国で寄留者だったからである!」

 

 そう、イスラエルの民も、エジプトの国で虐げられ、圧迫されてきた民でした。粘土をこね、レンガを焼き、あらゆる農作業などの重労働を課せられて、過酷な生活を強いられた。その末に、ようやく神様から助けてもらった人々です*1

 

 かつて、自分たちも困難な目に遭い、苦しんだのだから、同じように苦しんでいる人がいたら助けるべきだ! それはよく分かります。誰も反対しないでしょう。当然のことと受けとめるでしょう。

 

 愛についてのこの掟は納得できます。現代でも同じように、寡婦や孤児、貧しい者や寄留者を虐待や圧迫から守らなければと思います。

 

 でも、現実はどうでしょう? 日本もかつて、1900年代に多くの人が海外で移民となりました。

 

 日露戦争に勝利した後、ロシアから賠償金を得られなかったこともあり、経済は混乱し、貧困に苦しむ人々が、高待遇・高賃金を謳うブラジルへの移住を進めたからです*2

 

 しかし、彼らは法律上「自由市民」という地位を与えられはしたものの、一部のコーヒー園を除くと、その生活は「奴隷」と大差ないものでした*3

 

 居住環境は劣悪で賃金も低く、帰国のための貯金どころか借金が増えていくばかり。農園主は小作人を土地に縛り付け、都合の良い労働力を手放そうとはしてくれません。

 

 意気揚々とブラジルにやって来た日本人は、もはや自分たちは「移民」というより、国に捨てられた「棄民」だと感じるようになりました*4

 

 かつて、この国の移民が受けた苦しみや困難を思うと、現在、外国から来ている技能実習生や留学生に対しても同じことが繰り返されないよう、手を差し伸べるべきだと思います。

 

 でも現実は、長時間労働や低賃金、一部の企業による虐待が訴えられている……それをどうにかしようという気持ちも、彼らのサービスを受けている私たちの間で、広く共有されてはいないでしょう。

 

 24時間営業のお店、再配達や時間指定のサービスは、40万人近い「移民」の労働力によって、何とか支えられています*5

 

 そこにある叫びや苦しみを、私たちは聞けているでしょうか? 企業や会社の問題で、自分には関係ないと思っているでしょうか?

 

 むしろ、「外国人なんて嫌」「日本人の店員がいい」……そんな気持ちを抱く人さえ、珍しくないかもしれません。

 

 レジの会計に手間取ったとき、商品名が読めなかったとき、アルバイトの外国人に高圧的な態度をとる人を、私は何度か見たことがあります。でも、彼らがいなくなれば、夜のコンビニはほぼ営業できなくなるでしょう。

 

 もし、あなたが寄留者や未亡人、孤児を苦しめるならば……神様は厳しい言葉を言われます。「わたしは必ずその叫びを聞き」「わたしの怒りは燃え上がる」「わたしはあなたたちを剣で殺す」

 

 あなたが彼らを苦しめるなら、わたしはあなたを同じ目に遭わせよう……「あなたたちの妻は寡婦となり、子供らは、孤児となる」……海外の若者から都合よく労働力を得るならば、私たちも自分の首を絞め苦しめられることになる。そう言うんでしょうか?

 

 でも、じゃあ「愛を実践しなければ!」と言われても、私たちは途方に暮れます。どうすればいいんですか? 何をしろと言うんですか? 愛についての「納得できる」掟でさえ、実はこんなに厄介なんです。やっぱり聖書を読んでいると、愛が重い……。

 

【ユダヤ人と異邦人】

 現代でも、移民や外国人についての話題は、なかなか触れにくいものがあります。仕事が奪われることへの不安、知らない人が住み着いてくることへの恐怖、言葉の違い、文化の違いによる諍い……

 

 最近はテロへの警戒も相まって、各国で移民に対する排他的な雰囲気が強まっています。

 

 そんな中、寄留者を助け、旅人をもてなし、愛をもって全ての人と平和に暮らすよう命じる教えは、グサグサと胸に刺さります。

 

 そんなの綺麗事だ! 口だけの教えだ! と返されるかもしれません。相手が大人しい外国人だから言えるんだと……しかし、出エジプト記の律法も、手紙に出てくる愛の掟も、どちらも自国民と外国人が度々衝突する中で語られてきたものです。

 

 出エジプト記を見ていけば、イスラエルの民がエジプトを脱出してから、約束の地へ到達し、これらの教えを受けるときまで、何度も外国の民に襲われたことが書かれています*6

 

 旅の途中で攻めてきた部族、到着した地でぶつかった民族、色んなところで攻撃を受け、被害を受けながら、この掟は語られました。

 

 外国人なんて、異邦人なんて、何をするか分からない……人々が不審と警戒を見せる中、神様は彼らを大事にするよう語ります。自分も愛する民を異邦人によって傷つけられ、異教の宗教を持ち込まれたのに*7、彼らの命を守るんです。

 

 ローマの信徒への手紙の方は、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が混在する教会に宛てて書かれました*8。食事の仕方、奉仕の仕方、掟の守り方……あらゆるものが違う中、繰り返し衝突が起きる教会へ、パウロは互いに愛するように語ったんです。

 

 自分もかつてはユダヤ人と外国人をはっきり分けて考えていたと告白しつつ、これからは分け隔てせず愛しなさいと勧めます。

 

 そう、これら愛に関する重たい掟は、決して、その困難さが分からない人によって語られたものではないんです。

 

 むしろ、聞いた人が途方に暮れることを分かった上で、「そんなの無茶です」と言いたい気持ちを痛いほど知っている上で、書き送られたものなんです。

 

 神様は、ユダヤ人に異教をもたらす外国人に悩まされながら、彼らのことを一緒に愛しました。パウロは、ギリシャ人に対するユダヤ人の愚痴に根気よく答えながら、彼らを一緒に愛しました。

 

 重たい愛を一緒に担い、一緒に実践する方が、いつも私たちの側にいました。だから、私たちもならいましょう。互いに思いを一つにして、すべての人と平和に暮らしましょう。

 

 

 

*同日、交換講壇の付知教会で行なった礼拝メッセージは、中心の聖書箇所、タイトルは一緒ですが、少し内容が違います。気になる方はこちらをご覧ください。

 

bokushiblog.hatenablog.com

*1:出エジプト記1:14参照。

*2:

日系ブラジル人 - Wikipedia「新たな移民先」参照。

*3:日系ブラジル人 - Wikipedia「過酷な待遇」参照。

*4:日系ブラジル人 - Wikipedia「過酷な待遇」参照。

*5:「24時間営業」「3K職場」救う外国人 共に生きるため必要なこと - withnews(ウィズニュース)参照。

*6:出エジプト記17:8〜18、民数記20:14〜21、21:1〜3、21〜35参照

*7:民数記25章参照。

*8:日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書新共同訳準拠』一般財団法人日本聖書協会、2014年、116頁参照。