交換講壇(於:付知教会)2019年8月18日
【そこまでさせますか?】
先に告白しておきます。今日はタイトルにつけたとおり、愛が「重く」感じる話です。キリスト教で、愛の話をすると言えば、たぶん最終的に心が軽くなるような綺麗な話をする……というのが普通でしょう。
でも、今からしていくのは、本当に心が重くなっていく話です。どうぞ覚悟して聞いてください。
ご存知のとおり、キリスト教は「愛の宗教」です。愛という言葉が礼拝で出てこない日はありません。どんなときにも、誰に対しても、思いやりをもって接していく、愛に満ちた行動をする。それこそが、クリスチャンだと思われます。
逆に言えば、愛が実践できない人は名ばかりのクリスチャン……そんな評価を受けかねません。実際、世間が思い描くクリスチャンのイメージと、自分自身の間にギャップを感じて、ため息をついている人もいるかもしれません。
こんなんじゃ、クリスチャンとは言えないなぁ……まだまだ愛の人にはなれないなぁ……そう思っているまさにその時、この手紙はあなたにとどめを刺しに来ます。
ただでさえ、愛することの難しさを感じている私たちに、愛のハードルをさらに上げてくるからです。
「愛には偽りがあってはなりません」……冒頭から大きく出ました。嘘偽りない愛こそが本当の愛! でも、愛する我が子に対して、嘘をついたことのない親がいるでしょうか?
幼稚園に行くことを嫌がってギャン泣きする子に、「今日はどこどこへ行こう」と誤魔化しながら、何とか玄関まで連れてくる。そんなお母さんやお父さんの苦労を思うと、私には厳しすぎるように感じます。
「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」……白状します。私には双子の兄弟がいますが、けっこう相手を見下します。
兄弟間でさえ、尊敬をもって接すること、相手を優れた者と思うことは難しい。というか、兄弟だからこそ難しいのかもしれません。でも、真の兄弟愛なら、これができて普通なんでしょうか?
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい」……出ました、キリスト教の無茶ぶりです! 自分を苦しめる人に、祝福しろと言ってくる。しかも、「祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」と念押しする。
分かっています。嫌われている相手に憎しみをぶつけたって、負の連鎖が続くだけ……相手の不幸や苦しみを願うべきではありません。でも、祝福しろとまで言うのは、ちょっと言い過ぎじゃないですか?
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」……他人が喜んでるときには嫉妬にかられ、誰かが不幸な目に遭うと、自分でなくて良かったとホッとする。残念ながら、この言葉を実践するのは簡単なようで難しい。
私も周りの成功を素直に喜べないときが多々あります。たとえ、愛する人や大切な人の成功であっても……喜べなければ、この愛は本物じゃないんでしょうか?
【こんな愛無理……】
ローマの信徒への手紙に出てくる愛の掟は、相当「重く」感じるものでした。こんな聖人級の愛、私たちに求められても困ります。「これがキリスト教的愛の生活の基本だ」と言われても「そんなの無茶です」と言いたくなります。
ただ、最初に読まれたルカによる福音書の愛の教えは、まあまあ納得できる美しい教えと言えました。
教会に通っている人は何度も聞いてきた話……『善いサマリア人』のたとえ。ある人が追い剥ぎに襲われて、死にかけの状態で倒れていると、祭司とレビ人がやって来ますが、2人は彼を無視してしまいます。
しかし、ユダヤ人と仲の悪かったサマリア人だけは、倒れている人のことを憐れに思い、助けてくれた。この人のようになりなさいという教え。
なるほど、それこそが「主を愛する愛」「隣人を自分のように愛する愛」……確かに困っている人を無視することはいけません。そんなの愛だと言えません。
表面上は親切な人、優しい人に見えたとしても、目の前で苦しむ人を無視するのなら、偽善者と言われても仕方ない。
事実、私たちは、たとえに出てくる祭司やレビ人を、本当の愛からはほど遠い「偽善者」として見るでしょう。でもこれ、私たちが同じ立場だったらどうでしょう? 同じシーンに遭遇したら?
礼拝が終わって、あなたが教会を出るときです。玄関を出たところに、ボロボロの服を着た、見るからに貧しい人が立っていました。
おそらく、今夜泊まるところのないホームレス。お金も食べ物もありません。何よりこれから夜が来ます。道端や電柱の影で寝ていたら、通報されて追い払われるか、酔っ払いに絡まれて怪我をするかもしれません。
1人、2人と、あなたの先を行く人が、彼を無視して通り過ぎました。「大丈夫ですか?」「何か困っていますか?」「なぜそこに立っているんですか?」あるいは「食べ物が要りますか?」……そう声をかけることが必要なのかもしれません。でも、誰一人声をかけません。
だって、一度声をかけたら、しつこく何度もお金を要求されるかもしれない。「今夜あなたの家に泊めてほしい」と言われるかもしれない。食べ物を渡すまではできても、さすがにそれは勘弁です。
家には子どもや家族がいます。知らない男を泊めるのは、許容範囲を超えています。一人暮らしの私でさえ、迷惑をかける家族がなくても、やっぱり泊めるのは難しい。部屋に住み着いてしまったら、明日も明後日も出て行かなかったら、どうしよう……?
今夜泊めたからと言って、明日、彼の住む家が勝手に出てくるわけじゃありません。「追い出す」という行為を後からするくらいなら、最初から泊めるべきじゃない……
色んなことが頭をよぎります。結局、あなたも声をかけることなく、その人の前を通り過ぎます。
仕方ない、私にできることはない、彼が来るべき場所は教会じゃなくて市役所か交番だったんだ……自分に言い聞かせて離れようとすると、後ろから声が聞こえます。さっきまで、あなたの隣で礼拝に出ていた人の声。その人が彼に話しかけたようです。
何て話しかけるんだろう? 気になって、思わず耳を澄ませます。そこで、彼女が彼にかけた言葉はこうでした。
「あなたに声をかけた人は、わたしが初めてでしたか?」……ついさっき、礼拝で『善いサマリア人』の話を聞いて、「彼のようになりましょう」と聞いて、「アーメン(本当に)」と唱えた人たちが、みんな困っている人を無視しました。
最初に教会を出た人も、その次に教会を出た人も、彼に一瞬目をやって、道の向こう側を通って行きます。何人も、何人もそうやって、自分も同じように行動します。
そして、あなたの後ろで、ようやく声がかけられた……彼女が尋ねた言葉を聞いて、顔が一気に熱くなりました。そうか、私も祭司だったのか……私もレビ人だったのか……
【もてなしてるのに……】
あるいは逆に、困っている人、助けが必要な人を積極的にもてなし、お世話しているという人もいるかもしれません。まさに隣人愛、旅人をもてなす真の愛です。
でも、『善いサマリア人』の続きには、愛に満ちた行動をしても、思うように認めてもらえない、かわいそうな姉妹の話が出てきます。
有名な『マルタとマリア』の物語……イエス様がある村に入ったとき、マルタという女性が自分の家に案内し、精一杯もてなすという話。
女性2人の家に男1人だけが招かれたとは当時の感覚からして考えにくいので、おそらく他の弟子たちも一緒に迎えられたんでしょう。
複数の人を家に招き、その食事や寝床を用意する……なかなか大変な作業です。突然村にやって来た初対面の旅人を泊めるなんて、普通引き受けたくはありません。
でも、マルタは進んでイエス様の一行を泊めました。なんて優しい人でしょう! 彼女は一生懸命、イエス様や弟子たちの食事を作り、彼らの寝床を用意します。
ところが、妹のマリアは自分を手伝おうともせず、イエス様の足もとに座って、その話に聞き入っています。旅人のために世話する姉をほっといて、隣人をもてなそうともせず、一人話に聞き入っている……マルタは不満を漏らします。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」
けれども、イエス様は妹を叱ってくれません。代わりにこう返します。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」
この話を聞いたとき、多くの人はマルタに同情すると思います。彼女は誠実に旅人をもてなし、隣人愛を実践しました。
それなのに、イエス様は労うどころかマリアの方に味方します。マルタは驚きとショックを受けてキッチンに戻り、また一人みんなの世話を始めるんです。
イエス様、あなたの求める愛とはなんですか? と言いたくなります。マルタはあなたの教えを賢く実践してきたじゃないですか……?
これと同じ場面なんて、なかなか想像つきません。だって、たいていの人はマリアじゃなくて、マルタの味方をすると思うからです。皆さんには、イエス様の言葉はどう聞こえてくるでしょう?
【必要なことは……】
学生の頃、私は『神戸冬の家』というボランティアに、何回か参加することがありました。年末年始に行う炊き出しで、日雇いやホームレスの人に食事を作って、みんなで提供するボランティアです。
炊き出しって、皆さんどんなイメージを持ってます? たぶん、生活に困っている人がズラッと並び、ボランティアの人が一生懸命食事を作って、順番に配っていくというイメージじゃないかと思います。私もそう思っていました。
でも、『神戸冬の家』では違います。食事を作るのはボランティアの人たちだけじゃありません。食事をもらいに来るホームレスの人や生活困窮者が一緒になって作るんです。
できあがった食事を食べるのも一緒です。ボランティアの人は彼らの給仕じゃありません。一緒に食べる人なんです。私はこれに慣れなくて、最初、生活困窮者でもない自分が、一緒にご飯をもらうことなんてできない……と思ってました。
なるべく彼らがたくさん食べられるように、自分は食べずに食事の世話だけしていよう……そう思ってました。
でも、一緒にボランティアに参加している人から言われるんです。「いつまでも作ってないで、あなたもあそこの人と一緒に食べて」「ほら、これがあなたの分」……
食事をもらったとき、罪悪感でいっぱいでした。困っている人を世話するためにやって来たのに、自分がご飯をもらってしまった……他の人を手伝わないで、自分も食べていいんだろうか?
ギクシャクしながら、一緒にご飯を受け取ったホームレスの人たちとベンチに座って、暖かいスープを食べ始めます。
なるべくすぐに食べ終わって、また手伝いに戻ろうと思ってました。でも、隣に座ったホームレスの人が話し初めて、なかなか離してくれません。
去年のメニューは何だった、一昨年はもう少し仲間がいた、あそこには冬を越せなかった仲間の名前が彫ってある……途中から話に引き込まれて、もう手伝いどころじゃなくなりました。
そして気づいたんです。今、私に必要とされているのは、食事の世話をすることじゃない。この人の話を聞くことだと……。
マリアも同じでした。彼女に必要なことは、イエス様や弟子たちの世話をすることじゃありませんでした。一緒にイエス様の話を聞くことでした。
マルタのように、旅人をもてなすことはしませんでしたが、彼女も間違いなく、隣人愛の中にいました。「それを取り上げてはならない」……イエス様はマルタにおっしゃいます。
「愛する」ということの枠組みが、聖書を読んでいると何度も何度も揺り動かされます。「こういう人にこういうふうにすれば、愛を実践できている」「こういうふうにできなければ、愛とは認めてもらえない……」
そんな私たちの思い込みを、イエス様は繰り返し覆して、新しい愛を教えます。ときに、重く感じる愛の掟を、今日も心に刻みつけます。
「行って、あなたも同じようにしなさい」
*同日の華陽教会の礼拝メッセージは、中心の聖書箇所、タイトルは一緒ですが、少し内容が違います。気になる方はこちらをご覧ください。