ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そこまで言えるとは!』 エゼキエル書12:21〜28、テサロニケ一1:1〜10

礼拝メッセージ 2019年8月25日

 

f:id:bokushiblog:20190825142803j:plain

 

【ベタ褒めする手紙】

 今度、9月の前半に、私は合宿免許を取るため、長期休暇をいただくことになっています。岡山県で2週間以上を過ごす予定……その間、皆さんとしばらく顔を合わせることができません。

 

 日曜日も2回挟まります。2回ってけっこう長いですよね。両方とも、隠退教師の先生がメッセージをしてくださいますが、私は向こうで独りの日曜日……礼拝の時間、皆さんが恋しくなるかもしれません。

 

 そこでもし、教習所で缶詰になっている私から、こんな手紙が送られてきたらどうでしょう?

 

 「柳本伸良から、華陽教会の皆様へ……主の御名をほめたたえます。昨日も今日も、祈りの度に皆さんを思い出して、いつも神様に感謝しています。皆さんが信仰によって働き、愛のために労苦し、キリストに対する希望を持って忍耐していることを、神様の前で今日も心に留めています……」

 

 あらまぁ先生、うれしいこと言ってくれるじゃないですか! そんなこと言われたら、ちょっと照れ臭くなっちゃいます……そうやって、思わずみんな喜ぶでしょうか?

 

 それとも、はいはい、どうせお世辞でしょ?……という感じで流すでしょうか? けれどもその後、今度は軽く流せない言葉が続きます。

 

 「皆さんは、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしに倣う者、そして主に倣う者となり、岐阜県岐阜市にいるすべての信徒の模範となっています。聖書の言葉が、華陽教会から岐阜市の市民に広がっているだけでなく、神に対する皆さんの信仰が、あっちでもこっちでも伝えられています!」

 

 お〜い、先生どうしたの? 何か仰々しい言葉並べているけど大丈夫ですか? わたしたち、ベタ褒めされているけど本気ですか?

 

 そこまで言われちゃうと、かえって怪しく感じます。岡山から帰ってきたら、いったいわたしたちに何を頼むつもりです? そんなふうに、怪しく思われてしまうかもしれません。

 

 そう、こんな手紙が届いたら、どこの教会でもびっくりするに決まっています。「えっ、うちってここまで褒められる教会かな……?」「わたしたちって、そこまで立派な信徒かな……?」

 

 でも、パウロが書いた最も初期の手紙*1で、テサロニケの信徒たちはこう言われているんです。

 

 「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」

 

 すごいベタ褒めです。パウロがこの手紙を書いたとき滞在していたコリント教会が*2、分裂や争いを繰り返し、問題だらけだった*3ことを考えると、あまりに優秀な教会です。

 

【こんな教会ある?】

 岐阜市の華陽教会も、マケドニアのテサロニケ教会と同じく、地方都市に位置する教会です *4。が、これほどの評判はありません。

 

 むしろ、至るところでたぶん知られていない……下手すれば、すぐ近くのマンションの住人でさえ「えっ、あそこ教会だったの?」「日曜日に何かやってるの?」となるでしょう。えらい違いです。

 

 私がテサロニケの信徒への手紙一を読んで、まず初めに感じたのは、「こんな教会本当にあるの?」という疑問です。

 

 信仰によって働き、愛のために労苦し、キリストに対する希望を持って忍耐している……サラッと言いましたが、これを周囲に感じさせる教会って、それだけでもう大成功です。

 

 あの教会は本当に愛で満ちている。一人一人が信仰深くて、どんなときにも忍耐強い。至るところでそう言われていれば、そこを訪れる人も増えるでしょう。自分も同じようになりたいと、洗礼を受ける人も増えるでしょう。

 

 でも実際は、コリントやガラテヤの教会みたいに、分裂や争いのある教会も少なくありません*5。信徒が信徒に、新来者が教会員に傷つけられてしまうことも多々あります。

 

 もし、そうでなくて、このテサロニケ教会のように、信仰深く、互いに愛し合い、希望を持って忍耐できる教会なら、その地域の信頼も、より確固としたものになるでしょう。

 

 周りの人が、勝手に宣伝してくれるからです。実際、パウロはテサロニケの教会についてこう言っています。

 

 「彼ら自身がわたしたちについて言い広めている……わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか……あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか……どのように御子(イエス・キリスト)が天から来られるのを待ち望むようになったか」

 

 教会の噂が広がるだけで、もう伝道になっています。

 

 あそこの人は、教会に来た人をこんなふうに迎え入れてくれる。あの人たちは、自分の罪や過ちを悔い改めて、こんなふうに神様に仕えている。あの教会は、イエス様が再びこの世へやって来る日を信じて、苦しみや困難も忍耐強く乗り越えている。

 

 周りの人に、ここまで言わせしめる教会、皆さんは聞いたことあるでしょうか? 私はありません。パウロは、ちょっとオーバーに言っているんじゃないかと疑っちゃいます。

 

 テサロニケは、ローマ時代のギリシャにおける主要な商業都市の一つです*6。当然、ヘレニズム文化だったので、もともと偶像を礼拝していた人がほとんどでした*7

 

 にもかかわらず、彼らは「偶像から離れて神に立ち帰った」とあっさり書かれてる……この時代、この地域で偶像礼拝を離れることは、今の日本で、仏教や神道の行事を拒否する以上に難しいことです。

 

 ちょっと前に、ここへ伝道しに来ていたパウロが「ローマ皇帝とは別の王を宣べ伝えている」という理由で、ゴタゴタを引き起こしてしまったことが使徒言行録17章にありました*8

 

 それでもなお、テサロニケに残った信徒たちが、偶像礼拝や皇帝崇拝を離れて、キリスト教の神様だけを礼拝したなんて、にわかには信じられません。

 

 イスラエルの熱心なユダヤ教徒でさえ、偶像から離れて生活するのが、昔からどれだけ難しかったことか……初めから、外国の神々を拝んでいたテサロニケの人々が、パウロの去った後も、偶像から離れ続けたとしたら、恐るべき人たちです。

 

 彼らこそ、全キリスト者が倣うべき存在! まさに、「そこまで言えるとは!」という教会です。でも、本当に? 本当にここまで言える教会が存在したのか?

 

 他の手紙では、諸教会の問題をあれやこれやと指摘するのに、テサロニケだけは、やたら優秀な人たちだと褒めちぎるパウロ……これ読んだ人、かえってプレッシャーを感じたんじゃないでしょうか?

 

【私とあなたは模範です】

 そう、ベタ褒めされているこの教会は、きっと慌てたことでしょう。

 

 「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり、マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」

 

 いえいえ先生、やめてください! わたしたちはそこまで言える者じゃありません。まだまだ未熟で愚かな者です。あなたに倣う者、ましてや神に倣う者だなんて、大それたこと言えませんよ!

 

 それどころか、「すべての信者の模範となるに至った」なんてやめてください! わたしたちを模範にするなんて恐ろしいことしないでください!

 

 この恐怖、皆さんも分かりますよね? 岐阜市の教会の中で、「あなたがキリスト者の模範です」と言われたら、思わず逃げ出したくなります。あなたを真似て聖書を読み、あなたを真似てお祈りし、あなたを真似て人に仕え、あなたを真似て忍耐する……

 

 誰かの模範であることを意識すれば、それこそ、自分がキリストに倣っていない、真似させてはいけない生活をしていると、思い出してしまいます。

 

 パウロはどうだったんでしょう? 「わたしに倣いなさい」「わたしに倣う者となりなさい」……繰り返し、人々にそう教えた彼自身、相当なプレッシャーがあったはずです。

 

 だって、自分がふさわしくない生活をしたら、すぐにそれを指摘されます。「先生、先ほど信徒に逆上したあなたの姿勢は、わたしたちも倣うべき生き方ですか?」「先生、今あなたが無視した人は、わたしたちも無視すべき人ですか?」

 

 誰かの模範として生きるとき、わたしたちは繰り返しハッとさせられます。パウロは何度、ダマスコへ行く途中キリストの幻に語りかけられた、あの言葉を思い出したことでしょう。

 

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか*9」……自分がイエス様に倣わない行動をしたとき、再びその言葉が甦ります。

 

 主よ、どうか私を人々の模範にしないでください。私の真似をさせないでください。私があなたのことを伝えるとき、信仰をもって働くとき、周りの人は、私がかつてイエス様を迫害していたあの男だと知っているんです。私がふさわしくないと分かっているんです。どうぞ、他の人を遣わしてください。

 

 しかし、キリストは容赦なく命じます。「行け、わたしがあなたを遠く異邦人のために遣わすのだ*10」……わたしがあなたを模範とする。わたしに倣い、あなたに倣って、人々がたち帰るべき道を進めるように、わたしがあなたを立ち帰らせる。

 

 このように語る御子キリストこそ、神が死者の中から復活させた方、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです*11……ふさわしくない者をふさわしい者として立て、本当にふさわしくしてしまう方。

 

 最初に読んだエゼキエル書に、こんな言葉が出てきました。「主なる神はこう言われる。わたしが告げるすべての言葉は、もはや引き延ばされず、実現される」

 

 テサロニケの教会は、この言葉どおり、信じがたい変化がもたらされた教会の実例の一つです。こんなの嘘でしょう? できるわけがないでしょう? わたしたちが模範になれるわけ……そう思っている人たちに、絶えざる神様の働きがもたらされます。

 

 あちこちで分裂と争いを抱える教会が生まれる中、「すべての信者の模範となる」教会が生まれました。

 

 キリスト者を捕らえて殺していたパウロが、主に仕える者となったように、偶像を礼拝していた異邦人は、主に立ち帰る人々の模範となったんです。その変化は、模範とされることを恐れるあなたにも、容赦なく訪れます。

 

【わたしたちに倣う者】

 今日この後、わたしたちは一人の転入者を迎えます。4月から来られた隠退教師のお連れ合いです。牧師のパートナーだから、わたしなんかよりずっと教会のことを知っている。ずっと聖書に精通している。そう思う信徒の皆さんも多いかもしれません。

 

 プレッシャーに感じたらすみません。でも、プレッシャーを感じるのはこの方だけではありません。皆さんも、この方が倣うべき者として、先にこの教会の信徒として立てられました。

 

 この教会のことを知り、この教会で起こされた御業を伝える者として、後から来た者の模範として立てられています。どうぞ、その責任を果たしてください。

 

 「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい*12」……先週読まれたローマの信徒への手紙にもそうありました。

 

 あなたがたは、互いに倣う者として、互いに仕える者として立てられています。互いに模範として遣わされます。

 

 わたしも例外じゃありません。この教会の会員として、ふさわしい生活を送るように勧め、自らその模範となるよう、厳しく命じられた一人です。

 

 だから、互いに制約を交わしましょう。この教会で、主の栄光をあらわすことを約束し、主にある信仰と愛によって、互いに受け入れ合いましょう。あなたを「すべての信者の模範」とされる、神様の声に答えましょう。

*1:Pheme.Perkins著、森紀旦訳「テサロニケの信徒への手紙一」J.L・メイズ編、聖書文学会執筆『ハーパー聖書注解』教文館、1996年、1296頁1〜2行参照。

*2:山内一郎「テサロニケの信徒への手紙一」『新共同訳 新約聖書注解』日本基督教団出版局、2008年、578頁下段3行参照。

*3:日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書新共同訳準拠』一般財団法人日本聖書協会、2014年、119頁8〜16頁参照。

*4:Pheme.Perkins著、森紀旦訳「テサロニケの信徒への手紙一」J.L・メイズ編、聖書文学会執筆『ハーパー聖書注解』教文館、1996年、1296頁7行参照。

*5:B.R・ガヴェンタ著、野田美由紀訳『現代聖書注解 テサロニケの信徒への手紙1、2』日本基督教団出版局、2000年、36 頁16〜18行参照。

*6:Pheme.Perkins著、森紀旦訳「テサロニケの信徒への手紙一」J.L・メイズ編、聖書文学会執筆『ハーパー聖書注解』教文館、1996年、1296頁3〜4行参照。

*7:Pheme.Perkins著、森紀旦訳「テサロニケの信徒への手紙一」J.L・メイズ編、聖書文学会執筆『ハーパー聖書注解』教文館、1996年、1296頁21〜22行参照。

*8:Pheme.Perkins著、森紀旦訳「テサロニケの信徒への手紙一」J.L・メイズ編、聖書文学会執筆『ハーパー聖書注解』教文館、1996年、1296頁10〜17行参照。

*9:使徒9:4参照。

*10:使徒22:21参照。

*11:テサ一1:10b参照。

*12:ロマ12:10引用。