ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『そんなの信仰じゃない?』 アモス書5:18〜24、ヤコブの手紙1:19〜27

礼拝メッセージ 2019年9月1日

 

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【実践しなきゃ不信仰?】

 「あなたって口だけの人間だよね」……誰だってそう言われたら傷つきます。正直に生きたいと求めながら、度々嘘をついてしまう。親切にするよう教えながら、自分は意地悪をしてしまう。多様性を重視しながら、誰かを排除してしまう。

 

 目指してること、勧めてること、教えてることと一致しない自分自身を突きつけられる。そんな厳しい一言が、ヤコブの手紙にも出てきました。

 

 「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」

 

 かつて、ローマの各地に点在していた信徒に向けて書かれた言葉*1。それがなぜ、私たちの心にもグサッとくるかと言えば、今の私たちの現実も「聞くだけで終わる」ことがほとんどだからです。

 

 「だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」……冒頭の言葉を聞いた皆さん、今からこれを実行されますか?

 

 似たような話、これまでの人生でもう何度も言われたはずです。人の話をよく聞いて、何か言うときにはよく考え、衝動的に怒らないよう、自分の舌を制しなさい。

 

 小さい頃、親や先生から繰り返し聞かされましたよね? ああ、またか……と思います。私を含め、ほとんどの人が「そう心がけたいものですが、正直なかなか難しいです」と答えるでしょう。

 

 「いやいや一緒にするな、私はちゃんと実行してる!」と怒り始める人がいたら、その時点でアウトです……怒るのに遅くできてません。

 

 そう、この教え、聞いてすぐ実行できるほど簡単なものじゃありません。神様の教え、イエス様の教えってだいたいそうです。「腹を立てるな」「復讐するな」「敵を愛せ」……*2

 

 聞いたそこからできないと思わされる教え、聞くだけで終わっている言葉、たぶんいくらでも出てきます。「はい、そうします」と言えないまま、「難しいね」で終わっている……

 

 そりゃ、言われたとおりできれば素晴らしいでしょう。みんなが互いに愛し合い、思いやりを持って支え合う……きっと戦争だってなくなります。格差や貧困も改善します。みんなが神様に従えば! みんながイエス様の教えを実行したら!

 

 だけど、できません。私たちは腹を立てるし、仕返しするし、敵のことは愛せない。どれも分かりきっています。

 

 8月は平和について考えた人が多かったと思います。ここ、華陽教会でも、オリーブの会*3で戦争を繰り返さないために何ができるか話し合いました。

 

 でも最後に出てくるのは、「私には何もできないけれど……」という言葉。戦争の悲惨さを聞いて、「じゃあ繰り返さないためにこれをしよう」という動きは、なかなか私たちから出せません。

 

 聞いて、知って、考えて、何かを実行しようとは思わないまま終わっていく……私もそれを繰り返してきました。聞くだけで十分な気がしました。話を真剣に聞いてれば、真面目に耳を傾けてれば、何も聞こうとしない人より、よっぽど誠実に感じるから。

 

 礼拝だって、一生懸命話を聞いて、祈りや賛美を合わせていれば、「今日も信仰が保たれた」と思えるでしょう。

 

 「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ」……たとえ、その聖句を聞いた後、人の不正を見て見ぬ振りし、いじめや暴力を止めなくても、自分の信仰が失われたとは感じないでしょう。

 

 「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように」……たとえ、その聖句を聞いた後、道端でホームレスを見かけ、電車で泣いてる子どもがいても、声をかけずに済ませられるでしょう。

 

 「私にできることはない」と、追い剥ぎに遭った人を無視した祭司やレビ人のように、通り過ぎて行けるでしょう*4

 

 でも、あなたが教会に行くことをたまたま知っている人が、その場面を見かけてこう言います。「あなたそれでもクリスチャン?」「信仰って言葉だけ?」……心がキュッとする言葉。暴力的な正論が、私たちの胸を締め付けます。

 

 「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です」

 

 そう、この手紙できついのは、私たちが自分の信仰を振り返る度、「そんなの信仰じゃない!」と言われている気分になることです。

 

 また怒ってしまった、また無視してしまった、また勇気が出せなかった……神の言葉を、イエス様の教えを、実践できずに過ごす日々。そんな私に対して「その信心は無意味です」と言ってくる。なんて容赦ない!

 

【それって律法主義じゃ?】

 「ちょっと待って!」と言いたくなります。そんなふうに、教えを実行しているか、していないかで信仰を計られてしまったら、私たちは毎週傷つきます。

 

 行動で人を判断するなんて、目に見えるとこでしか評価されない世俗社会と変わらない! 教えを守れない人、実行できない人の内面の苦悩は、結局無視されてしまうのか?

 

 宗教改革者マルティン・ルターも、一時期この手紙を「藁の書簡」と言って軽視したのは有名な話です。

 

 そう、教えの実践が重視され、「行いによって幸せになる」というメッセージは、イエス様が批判した律法主義を彷彿とさせる言葉です。「あの人はこれができていない」「あの人はこれが守れていない」……だから、本当の信仰を持っていない!

 

 そんなふうに神様の言葉が、聖書の教えが、人を裁く道具になってしまう。挙げ句の果てに、誰かに降りかかった不幸も、神様の命令を守れなかった、イエス様の教えを実行できなかったせいにされ、理不尽な事故や事件も、その人の行いが招いたものとされてしまう。

 

 腹を立てたら、愛せなかったら、赦せなかったら不幸になる……そんなのもはや脅しです!

 

 みなしごを保護し、やもめを世話し、不正を正さなきゃ救われない……ルター以前に逆戻りです。善い行いをしなければ救われない。だから、自分が救われるために、他人を助け支援する……

 

 ある意味、本当の隣人愛はいつまで経っても果たせません。どこまでも自分のためでしかなく、無償の愛を実践する日は来ないから。

 

 そう、ある人が幸せになれないのは、いつでもその人のせいにできます。恵みが与えられないのは、教えを実行できていないから……

 

 だけど、今幸せな人だって、みなしごややもめを助けたり、誰かの不正を正したり、悪を素直に捨て去った人たちばかりじゃないはずです。むしろ、そんな人ほとんどいないでしょう。

 

 「人を裁くな」「分け隔てるな」「誇り高ぶるな」……ヤコブの手紙にも出てくる教えをどれだけの人が守れるでしょう? 破らず実行できるでしょう? こんなのほぼほぼ不可能です。

 

 神様も、人間が守れない様子を散々見てきたじゃないですか。イエス様も、人類の弱さと愚かさを受けとめて、代わりに罪を背負ってくれたじゃないですか。

 

 それなのに、なぜ今になっても、守れそうもない掟や教えを私たちに命じてくるんでしょう? どうせ守れないなら、もうちょっとマイルドにしてくれたらいいのに。

 

 「7回までは赦しなさい」「敵が反省したら愛しなさい」「余裕があれば助けなさい」……人間の限界を知った上で、ハードルを下げたっていいと思いません?

 

 守れない掟に意味なんて普通ないんですから。神様やイエス様が命じた厳しすぎる言葉って、いったい何の意味があるんでしょう?

 

 23節から、こんなたとえが出てきます。「御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます」

 

 ここでの「鏡」は、神の言葉である「律法」を指す隠喩になっています*5。鏡って、皆さん何のために使います? 髪型や服装を直したり、表情や姿勢を整えたりするのに使いますよね?

 

 ようするに、理想の自分、目指している姿に近づけるための、現実を映す道具です。寝癖のついた髪の毛を直し、たるんだ表情をしっかりさせ、筋トレやダイエットがどれくらい必要か確認する。

 

 理想と現実のギャップを映し出す鏡……それが、神様の与えた「律法」だと、ヤコブの手紙は語ります。決して、クリスチャンを評価するための道具でも、裁くための道具でも、脅すための道具でもありません。

 

 私たちに実践を促す神の言葉は、私たちを前に進ませ、変化を促し、背後から支えてくださる方を映し出す、信仰の鏡になっているんです。

 

 鏡に映っている自分は、理想から絶望的な開きがある。でも、その鏡には、私をコーディネートする神様も映っているんです。

 

 こうしたらもっとよくなるよ、こうしたらもっと綺麗になる、ここはもっとがんばろう……一緒に考え、少しずつ私を変えてきた神様が、律法を一心に見つめるときこそ、私の背後に見えるんです。

 

【分けることから始まった】

 皆さんもどうぞ思い出してください。怒りを制御できなくて、敵を愛することができなくて、みなしごややもめを無視してしまう自分自身が、ここでどのように変わってきたか……

 

 「変わってなんかない」「私には何もできません」そういう人こそ、思い出して欲しいんです。

 

 本当に、何もできていませんか? 10時以降に来る人は、ほとんど顔を合わせない教会学校の子どもたち……その子のために、あなたは礼拝で一緒に祈るようになりました*6

 

 今日もこの後、とりなしの祈りを祈ります。あなたが今朝、顔を合わせなかった子のために。

 

 聖餐式のとき、まだパンを受け取れない人のために、あなたは祝福を祈っています*7。教会で対立し、口もきけなくなった人と、一緒に食事を行います。

 

 同じ皿からパンを分け、同じ盆から杯を取る。対話ができない人との交わりを、あなたはここで始めます。赦せない人、愛せない人との関係を、あなたは続けていくんです。

 

 私が祈れなかった人に、華陽教会のみんなで祈る。私が分けられなかった人に、ここの人たちとみんなで分ける。私が語れなかった人に、隣の誰かと一緒に語る……

 

 祝福、とりなし、助け合い……実践しない者が、実践する者にされていく。信じない者が信じる者に、愛せない者が愛する者に変えられていく。その変化のただ中にいることを、どうぞこの時、思い出してください。

 

 神様はあなたの心に御言葉を植え付けられています。その言葉は、あなたを救うことができます。あなたを何もできない者にはしておかれません。

 

 「そんなの信仰じゃない」と裁くためでなく、「あなたの信仰は立派だ*8」と言う変化をもたらすために、神様は教えを語ります。あなたの姿を映します。だから……安心して行きなさい。

*1:日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書新共同訳準拠』一般財団法人日本聖書協会、2014年、143頁1〜2行参照。

*2:マタイ5〜7章の『山上の垂訓』を参照。

*3:華陽教会の女性会のこと。

*4:ルカ10:25〜37の『善いサマリア人』参照。

*5:辻  学「ヤコブの手紙」山内眞監修『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、678頁下段11〜14行参照。

*6:華陽教会ではここしばらく、礼拝メッセージの後、会衆みんなで「世界の国民のため」「世界の教会のため」「教会員のため」「礼拝に出席できなかった人のため」「身近な人のため」「教会、幼稚園、周りの子どもたちのため」「苦しんでいる人のため」に『とりなしの祈り』を行なっている。

*7:華陽教会の聖餐式では、以下のように、聖餐を受ける信徒が信仰を告白していない会衆のために祝福を祈る。

 

司式者:パンを手にしている人は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

一 同:あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように。アーメン。

司式者:食べなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

司式者:杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

一 同:あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように。アーメン。

司式者:食べなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

*8:マタイ15:21〜28参照。