聖書研究祈祷会 2019年9月25日
【諦めたら終わり?】
「諦めたらそこで試合終了ですよ……?」スラムダンクという有名なバスケットボール漫画に、そんな台詞が出てきます。この漫画を大好きな私の先輩が、繰り返し神学部のチャペルで話していました。
どんなシーンの台詞かと言うと、県大会決勝戦で、主人公の相手チームが1点リード。しかも、残りわずか12秒……誰もが勝利を諦めかけたとき、バスケ部の顧問が言った言葉。「諦めたら、そこで試合終了です」
それを聞いてハッとした主人公は、見事逆転シュートを決め、県大会優勝を果たします。
たとえ、どんなに厳しい試練があろうと、諦めないで向き合い続ける。そのことの大切さを教えてくれたエピソード。きっと多くの人がこの話を読んで、励ましと勇気を与えられたことでしょう。
そう、スラムダンクに出てくる顧問のように、選手を静かに導いて、必要なときに、必要な励ましを与えてくれる……そんな指導者に巡り合えたら幸せです。
しかし、現実には「諦めない大切さ」というものが、より暴力的に使われることもたくさんあります。
練習中、「休みたい」という選手に対し、「諦めるな」「くじけるな」「もっとがんばれ」と言い続け、熱中症を続出させてしまう顧問。仕事中、無茶な納期を言い渡し、部下に無理やり残業させ、体を壊すまで追い込む上司。
学校や会社だけでなく、家庭や教会でも同じことがあるかもしれません。遊ぶ時間を全く取らせず、難関校に合格させるため、寝る間も惜しんで勉強するよう、子どもを追い詰めていく親。
自分たちの教勢を増やすため、自由な時間は奉仕に当てろと、信徒を追い込んでいく教会。
確かに、「試練を前にして諦めない」ことは大切ですが、そのために、「我慢し耐えなさい」という呼びかけは、ときに恐ろしいイメージを与えます。我慢しなければどうなるか、耐えられなければどうなるか、その先に待っているものが分かっているな?
励ましと勇気を与えてくれた、スラムダンクのメッセージとは、全く逆の脅しや恫喝。そんなふうに受け取れてしまう厳しい言葉の数々が、実は聖書にも出てきます。
先ほど読んだ、コリントの信徒への手紙にも、我慢と忍耐をしつこく求めるパウロの言葉が出てきました。
【我慢しなきゃダメ?】
たとえば、手紙の10章8節では、悪をむさぼらないように、悪い方向へ倒れないように、出エジプトのエピソードを取り上げながら、こんな言葉が語られていました。
「彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました……」
ここで言う「みだらなこと」は、宗教的にみだらなこと、ようするに偶像礼拝とつなげられています*1。偶像礼拝をすれば、かつて、金の子牛の像を拝んで、神様に滅ぼされた人たちと同じ運命をたどることになる……だから、周りに流されず我慢しなさい。
続く箇所ではこう言われます。「また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました……」
これも、民数記21章に出てくるエピソードで、敵から逃げているイスラエル人が、海の前で立ち往生したとき、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのですか。荒れ野で死なせるためですか」と不平を言い、諦めたために、神様から送られた「炎の蛇」に噛まれ、たくさんの人が死んだことから来ています。
なかなかおどろおどろしい話ですよね……どうでしょう? 竹刀を持った強面の教師が、練習をサボろうとする選手たちへ、今にも拳を振りかざしそうな脅迫的なメッセージ……
そんなふうに聞こえてこないでしょうか? 「ここで諦めたら、お前ら人生終わりやぞ?」と……。
でも、実際にはこれらの警告を守れる人はほとんどいません。「礼拝を休んだら終わりだ!」と思っても、風邪をひいたり、やむを得ない事情が入って、休まざるを得ない人たちもいるでしょう。
「神様を疑ったり、不平を言ったりしちゃダメだ!」と思っても、大きな試練や困難があると、「神様なんでこんなことするんですか!」と嘆いてしまうのが私たちです。
神様を信じて絶対に倒れない、どんな困難も乗り越えられる! そう胸を張って言える人は、正直、牧師でもなかなかいないでしょう。
でも、我慢できなければ、耐えることができなければ、かつて神様から滅ぼされた人たちのように、我々もひどい目に遭わされてしまう……そういう言い方に聞こえます。
これでは、今まさに試練に遭っていて、これ以上は耐えられない……と感じている人には、希望も励ましもあったものじゃありません。ところが、パウロは続けてこう言うんです。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」……さあ、皆さん。同意できますか? あなたを襲ってきた試練で、耐えられないものはなかったですか?
この質問って、けっこう意地悪なんですよ。だって、今ここにいる人たちは、なんだかんだ今この世に生きている時点で、多くの試練を何とか生き残ってきた人だから。
試練に耐えられず、命を絶ってしまった人、潰れてしまった人たちは、返事をすることができません。
実際には、「くじけるな」「負けるな」「耐え続けろ」と言われて、潰れてしまった人もいるはずです。耐えきれなくなった人もいるはずです。「乗り越えられない試練はない!」と言えるほど、私たち人間は強くない。
【耐えられない試練はない?】
にもかかわらず、パウロは続けます。「神は真実な方です」と……「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」と……
ようするに、試練に耐えきれなかったら、我慢できずにくじけたら、それは「耐えられるはずの試練を耐えなかった、あなた自身の問題だ」という意味か……。
いえ、待ってください……「神は耐えられない試練など与えない」……キリスト教を信じていなくても、知らず知らずのうちに、多くの努力家やアスリートが呟いてきたこの言葉。
こっちが印象深くて忘れられがちかもしれませんが、パウロの言葉には続きがあります。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」
くじけたら終わり、耐えられなければ終わり……そう思いかけていた私たちへ、パッと光が差し込むような言葉です。試練に耐えるのが困難なとき、神様は逃れる道をも与えてくださる……なかなか斬新な言葉です。
多くの場合、「諦めない大切さ」というものが語られるとき、「逃げてはダメ」という言葉とセットになるのが普通だから。
だって、試練を乗り越えることと、試練から逃れることは正反対に思えます。「諦めるな」と言いながら、「逃げる道もあるよ」なんて言う教師、普通考えられないでしょう? でも、パウロは一見矛盾する言葉を、全然ためらわずに使っています。
神は、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださる……
「逃げちゃダメだ」「逃げちゃダメだ」「逃げちゃダメだ」と自ら思い込み、あるいは周りに思い込まされ、神様が備えてくださった道を、私たちは度々見ていない。
「ここで逃げたら落ちこぼれだ」「今投げ出したら後はない」……神様が備えている「別の道」「新しい道」に気づかせない、多くの力が働きます。
だから、パウロは語るんです。大丈夫、神様は耐えられない試練など与えない。耐えるのが困難なとき、ちゃんと逃れる道をあなたに与えてくれるんだ。
かつて、イスラエルの預言者の一人に、エリヤという人物がいました。エリヤは国の政治家や王の妻と対立しながら、ほぼ、たった一人で偶像礼拝と闘ってきました*2。
けれども、ある時とうとう心が折れて、試練に耐えきれなくなって、神様にこう訴えます。主よ、私の命をとってください……この国で私の言うことを聞いてくれる人はほとんどいません。私はイスラエルのはみ出し者、これ以上耐えることはできません!*3
「諦めちゃダメだ」「くじけたら終わり」という話なら、この時点でエリヤに待っているのは滅びでした。神様を信じて困難に立ち向かう、それができなくなった預言者は、どう考えても役立たず……
でも、神様はエリヤに休息を与え、安全な場所と食べ物を備えます。逃れる道を用意し、後継者を立てる力を養わせます*4。
【コリントの教会】
パウロが手紙を書き送ったコリントの教会も、信徒の間に不道徳な行いが広まり、深刻な分裂が起きていました*5。
国民に向かって神様の教えを守るよう警告し続けたエリヤのように、教会のみんなに向かって誠実な生き方をするように警告していた信徒もいたはずです。
しかし、その言葉はなかなか聞き入れられず、「立っている者」はわずかだったのかもしれません。
もう耐えられない。大好きだった教会が、みんな私から離れていく。私をはみ出し者にする。
いっそ、彼らと一緒に礼拝を蔑ろにしたり、いい加減な生活を送ったりする方が、ここでは生きやすいのかもしれない……一部の人が弱気になっていたとき、パウロから届けられたのがこの手紙でした。
「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」
「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」
手紙を受け取った人たちは、この言葉にきっと励まされたでしょう。遠い地で、自分たちと同じように周りの攻撃に遭いながら、それでも神様の助けを感じて、立ち続けている人がいる。その人が、この試練は耐えられる、逃れる道も備えられると言っている。
コリントの教会で、悪をむさぼらずに立ち続けていた人たちが、この後どのように試練を乗り越えたかは分かりません。どういう形で、「逃れる道」を備えられたかも分かりません。
しかし、エリヤに休息と食べ物が与えられたように、彼らにも回復の機会が与えられたでしょう。
私たちも、困難な試練に耐えきれなくなったとき、神様が備えてくださっている道を、探し続けたいと思います。