聖書研究祈祷会 2019年10月2日
【愛のハードル】
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える……」
「愛」っていう言葉を聞いたとき、皆さんはこの手紙に出てくるようなイメージをサッと思い浮かべるでしょうか? 試しに、ちょっと安易かもしれませんが、愛する者同士の関係を、夫婦やカップルの姿を思い浮かべてみましょう。
愛は忍耐強い……私は夫に対し、妻に対し、果たして忍耐強いだろうか? あるいは逆に、彼は私に、彼女は自分に、忍耐強く接してくれているだろうか?
皆さんのお父さん、お母さんが、互いのために忍耐していたか、思い出してみましょう。もしかしたら、忍耐しているのは、どちらか一方という場面が多かったかもしれません。互いに愛し合っているはずなのに……。
愛はねたまない……どうでしょうか? 好きな人が自分以外の人と仲良くしているだけで、ねたましく思ったこと、恨めしく思ったことがあるかもしれません。確かに愛しているにもかかわらず、その人に対して、次から次へと嫉妬の感情が出てきてしまう。
愛は自慢せず、高ぶらない……これは男性の方が刺さる言葉かもしれません。よく電車に乗っているときや、喫茶店で時間を潰しているとき、隣の席でひたすら彼氏の自慢話を聞かされている女性の姿を目にします。
ちょっとでも話についていけないことがあると、「仕方ないな……」という上から目線で話される。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない……付き合う前は、いつも丁寧で礼儀正しく、優しくて寛容だったのに、いざ付き合い始めると、ぞんざいな扱いをされたり、適当な振る舞いに変わったり、残念なことになってしまう。
色んなところで耳にする話ですよね? 別に、夫婦や恋人に限りません。友人同士の間でも、頻繁に起きていることです。
仲良くなってからこそ、どんどん扱いが雑になる。どんどん要求が膨れていく。どんどん恨み辛みが大きくなる。確かに、愛をもって接しているはずの関係なのに……こういう体験、たぶんたくさん見聞きしますし、自分自身もしてきたでしょう。
しかし、こういう関係であっても、私たちは確かに「愛」と呼ぶものを感じます。「愛」を見出そうとします。愛しているからこそ、遠慮がなくなっていく。愛しているからこそ、期待が膨らんでいく。愛しているからこそ、嫉妬が積み重なっていく。
おや? 「愛」って何だったっけ? 「これも愛のうち」って考えることが増えていくのは、私たちの悪い癖かもしれません。
【そんな愛ある?】
実際のところ、手紙を書いたパウロが教えているような愛、なかなか見ることはできません。忍耐強く、情け深く、ねたまない夫婦。自慢せず、高ぶらず、礼を失さないカップル。
自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない友人関係。不義を喜ばず、真実を喜ぶ仲間たち。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える……そんな関係性、皆さんの周りにありますか?
これ、なかなか無理難題ですよね? 「愛って何だろう?」って考えたとき、この手紙に出てくるような愛が「本物の愛」って言われたら、私たちが愛だと思っているものの大半が「偽物」です。
もう一度、自分の両親を考えてみたらいいかもしれません。2人の愛は、パウロが語るように、忍耐強く、情け深く、ねたむことなく、自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、いらだたず、恨みを抱かない愛だったでしょうか?
子どもに対して、この愛を実行できたでしょうか? いや、さすがに全部は守れなかったけど……でも、それでも、愛がなかったわけじゃない。たぶん、何人かはそう言うんじゃないかと思います。
私だってそうです。だからこそ、逆に聞きたくなってきますよね。「だから愛って何なんだ?」「こんな愛持っている人、本当にいますか?」って……。
どう考えても、この愛を常に実行するのは難しい。あるいは、一時的だったらあるかもしれない。いや、一時的でもやっぱりきついです。
だって、愛が高まっているときこそ、ねたみやいらだち、高ぶりの感情が出やすくなる。心が動きやすくなるのが人間ですから。愛が募っていくゆえに、周りに対して嫉妬する、いらだちをぶつけるようになる。
それこそ、愛する人を守ろうとして、殺人や暴力を犯す人間だっているんです。普段優しいのに、罵声を浴びせる人もいるでしょう。でも、パウロはこう言います。
「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない」「いらだたず、恨みを抱かない……」それこそ、神や聖人、悟りを開いたような人間でなければ、こんな愛、身につけられないんじゃないでしょうか?
【愛のない態度】
そう思っていたら、ふと、あるエピソードを思い出しました。それこそ、神の子イエス・キリストの出てくる話。もちろん神の子であれば、自分の命を投げ打って十字架にかかった救い主なら、この愛が実行できて当然です。
でも、私が思い出したのは、イエス様がこの愛を実行する話じゃありません。後に聖人として覚えられる、イエス様の弟子たちや兄弟でもありません。
むしろ、たぶん限りなく一般人に近い人。どちらかと言うと、身分の低い、蔑まれる対象だった女性です。誰のことかと言うと、マタイによる福音書15:21〜28に出てくるカナン人の女性です。
あるとき、イエス様がティルスとシドンの地方に行かれたとき、この地に生まれたカナンの女性がやって来ます。
地域的にも民族的にも、この女性は明らかに異邦人。かつて、イスラエルに偶像礼拝をもたらした忌むべき民族の一人です*1。福音書は彼女の名前も記しません。
そんな彼女が、イエス様を見つけた瞬間叫んだ言葉がこれになります。「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」
もう必死さが伝わってきますよね。救い主として期待されていたイエス様に「ダビデの子よ」と呼びかける。
たぶん、イスラエルの人たちの信仰をよく理解した上で言ったんでしょう。じゃなきゃ、「ダビデの子よ」なんて呼びかけ出てきません*2。
彼女は、自分が異邦人としてユダヤ人から嫌われていることをよく分かっていました。だからこそ、失礼にならないように、イスラエルの信仰をよく考えた上で、イエス様に向かって訴えるんです。「どうか主よ、私の娘を助けてください」
ところが、イエス様は母親に対してガン無視です。普段は優しいイエス様が、ここでは全く思いやりを見せません。正直、愛のある行動とは言えないでしょう。
母親は必死になってイエス様に叫び続け、どこまでも、どこまでもついてきます。しまいには、うるさく思った弟子たちが、イエス様に向かってこう言います。
「この女を追い払ってください。叫びながらついてきますので」……いやいや、それはかわいそうでしょ。むしろさっさと助けてあげたらいいじゃない? 読み手の私たちがそう思ったのも束の間、イエス様は女性に向かって非常にドライな言葉を返します。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」……ようするに、イスラエルの民じゃないのに、異邦人のあなたを助ける義理はない、と言ったわけです*3。
いやいや、苦しんでいるのは彼女の子どもです。まだまだ幼い女の子。心ある人なら少しでも話を聞いてくれそうなものなのに、さすがにこれはないでしょう。
娘を助けようとする母親なら、怒って当然の話です。「なぜ話を聞いてくれないの!」「あなたは子どもが死んでも何ともお思いにならないんですか!」「この人でなし!」……それくらい言ってもおかしくなかった。
弟子たちでさえ、嵐の中、自分たちの乗っている舟が沈みそうになったとき、「私たちが溺れても何ともお思いにならないのですか!」と叫んだんです*4。
ましてや子どものためなら、彼女のいらだち、恨み、高ぶりが爆発しても不思議じゃありません。けれども、彼女はイエス様の前にひれ伏してこう言います。「主よ、どうかお助けください」
色んな言葉を飲み込んで、やっと言えたのがこの一言だったんでしょう。よく耐えました。忍耐しました。イエス様も、さすがに態度を変えてあげてもいいはずです。ところが、本当に心ない言葉が続きます。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」……話の流れから考えると、「子供たち」はイスラエルの民を指していて、「子犬」は異邦人のことを指している*5。
ようするに、彼女の子どもを「犬」扱い。思いやりなんて一切ない。非常に侮蔑的な態度です。
これはもう怒るしかない。今まで礼儀正しく頼んできたけど、罵倒を浴びせてもいいレベル。だけど、彼女は必死に食らいついて言うんです。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」……あなたがイスラエルの救い主であることは重々知っています。そのおこぼれでいいんです。私の娘を助けてください。
彼女の言葉を聞いて、イエス様はついに答えます。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」もっと原文のニュアンスを醸し出すなら、「あなたの信仰は見上げたものだ!」
ようするに、弟子たちの前で、彼女はイエス様をうならせたんです。「たまげたよ」「これはすごい」「してやられた」「あなたの願いどおりになるように」……そのとき、娘の病気は癒された。
【愛の模範は誰ですか?】
これが、私の思い出したストーリーでした。イエス様の言動は、娘を助けようとする母親の心を苛立たせ、高ぶらせ、恨みを抱かせる、たいへんひどいものでした。けれども、彼女はイエス様に対し、ねたみや苛立ち、怒りを出さずに願います。
「私の愛する娘を助けてください」……愛しているからこそ、怒りと憤りが出てくる場面。にもかかわらず、娘を何とか救うため、忍耐強く、情け深く、礼を失せず、恨みを抱かず、すべてに耐えて行動した。
彼女の姿勢にイエス様はうなります。イエス様がうなる様子を見させられた弟子たちはショックだったでしょう。
自分たちが追い返してほしいと言った女性が、実はイエス様の教えた「愛」を、最も身につけた存在だった。実は彼女こそ、イエス様が弟子たちに示そうとした「愛の模範」の姿だった。
このエピソードが記されている意味って、たいへん大きいと思います。彼女は聖人じゃありません。イエス様についていった弟子でもありません。むしろ、イスラエルから見れば、偶像礼拝に染まりがちだった異邦人。
だけど彼女は、イエス様の教える愛、パウロの書き記した愛を実行し、弟子たちや後の世の模範となります。
「聖人でもなきゃ、こんな愛持てません!」って言いたくなる私たちに、イエス様とのやりとりの中で、私たちにも愛が持てると示します。
そして、これを読んだとき、全く現実身のない話だとも、たぶん皆さん思わないでしょう。彼女のような愛と信仰に、私たちも触れるときがある。あなたも促されている……だから、私たちも前に進みましょう。愛の道へと出て行きましょう。