ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ヘブンズ・ドアー』 コリントの信徒への手紙二3:1〜18

聖書研究祈祷会 2019年10月16日

 

f:id:bokushiblog:20191019075048j:plain

 

【あなたがたは手紙?】

 「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」……宣教者パウロが、コリント教会の人たちへ送った言葉。

 

 これを聞いて、私はつい『ジョジョの奇妙な冒険』第4部の漫画に出てくる、岸辺露伴という人物の能力を思い出してしまいました。

 

 その名も「ヘブンズ・ドアー(天国への扉)」……漫画家であり、スタンド使いという特殊能力者でもある彼は、自分の描いた原稿を誰かに見せると、その人の記憶や能力を本にして、読んだり書き換えたりできる能力を持っています。

 

 この能力をかけられた相手は、体の一部が本になり、その人の記憶している「人生の体験」が公にされ、何もかも読まれてしまうんです。

 

 さらに、本にした相手の記憶や行動に好きなことを書き込めば、彼の思うとおりに制御することもできました。

 

 岸辺露伴はこの能力を使って、敵の攻撃を防いだり、仲間がピンチのときに強制回避をさせたりして、何度も窮地を脱します。味方であれば頼もしい存在ですが、敵であれば恐ろしい存在です。

 

 なにせ、こちらの人生が相手に公にされてしまうどころか、書き換えられて、思ってもみない行動を取らされることになるんです。

 

 それってちょうど、さっきの言葉と似てないでしょうか? 「あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています」「墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」

 

 なるほど……「ヘブンズ・ドアー(天国への扉)」というだけあって、岸辺露伴の能力とイエス様の持つ力には共通点があるようです。

 

 神の子であるキリストも、パウロたち宣教者を用いて、信徒の心に書き込みをし、その人生を公にする。キリスト者を迫害し、批判する人々と渡り合えるよう操作する。

 

 なんだかちょっと怖くなってきました……キリスト教を信じていたら、いつの間にか自分の人生が人目に晒され、心に何かを書き込まれ、キリスト者を批判する人たちに対抗できるよう制御される……

 

 そんなイメージが湧いてきます。パウロも何でこんなビビりそうなこと書いたんでしょう? 

 

【批判と弁明】

 この手紙が書かれた当時、パウロは多くの信徒に信頼されていましたが、一部の信徒は彼の権威を疑問視していました*1

 

 「あいつは親しみにくいし、教会に対する批評が厳しすぎる」「説教はいつも回りくどいし、手紙の書き方は大胆すぎる」「そもそも、イエス様が死んだあと弟子になったのに、使徒と名乗るのは変じゃないか?*2

 

 そんな中、旧約聖書の古い掟を強調し、キリストの新しい教えを過小評価していた人たちが、さらにパウロを責めるようになり、彼よりも自分たちの方が正統的だと言い始めます*3

 

 「あいつは突然宣教者としてやってきたが、いったい誰の推薦でやってきたのか?」「他の教会に誰かを派遣するときは、必ず推薦状を書くくせに、自分が来たときは一つも推薦状を携えていなかった」「権威ある教会から推薦状を持ってきた人なら他にいるだろう?*4

 

 そうして、パウロなんかにコリント教会を指導する資格はないと言ってくる。「あいつは、自分で自分に教会を指導する資格があると主張している」「パウロのメッセージは回りくどくて、覆いがかかっている」「聖書の読み方が独特で、伝統的な教えとマッチしない*5」……そんな批判が湧いている中、パウロは弁明を迫られます。

 

 「私と皆さんとの間に推薦状なんて必要でしょうか?」「私たちの推薦状があるとすれば、それはあなたがた自身です」「私の誠実さは、私がそこにいたときから、あなたがたもよく知っているはず*6」……

 

 こういう言い回しができるって、大した自信です。自分を批判する人もいる場所で、この手紙が読まれることをためらわない。よっぽど、自分を信じている人たちに対する信頼感があったんでしょう。

 

 彼は、「自分が独りで何かできる、などと思う資格は確かにない」と語ります。自分が教会を指導する資格は、自分自身の知恵や能力からではなく、神様から与えられているものだと……

 

 パウロ自身、かつてはキリスト者を迫害する側でした。イスラエルの伝統と常識に囚われ、自分こそ正しいと思い込んで、間違った行動をしていました。

 

 恥ずかしい黒歴史を持つ彼に、教会を指導する資格、キリスト者を教える資格なんて、普通あるはずがありません。

 

 しかし、その彼に向かって、迫害されていたイエス様自身の幻が語るんです。「なぜわたしを迫害するのか?」「わたしに従う者となりなさい」

 

 その瞬間から、パウロの人生は多くの人目に晒されて、信じない者から信じる者となったキリスト者パウロの生き方を証していくようになりました。

 

 彼自身が狙っていたことではないでしょう。むしろ、自分なんかがキリスト教を伝えようとすれば、かえって不信感を抱かれると神様に不安を訴えます。

 

 しかし、エジプトからイスラエル人を導き出したモーセのように、不安がるパウロも、問答無用で神様から背中を押されてしまいます。「大丈夫、私があなたと共にいる」

 

【手紙として書かれた民】

 考えてみれば、イスラエルという民全体も、神様がモーセをはじめとする預言者を用いてお書きになった「手紙」と言うことができるかもしれません。

 

 神に背いては立ち返らされ、苦難に遭っては克服させられ、自分たちでだけでは不可能なことをやってきた……

 

 黒歴史を持つ間違いだらけの人間が、それでも神様に導かれ、反省させられ、新しい生き方に変わっていく。そんな人々の歩みが、聖書という大きな書物になっているんですから。

 

 そう……「神の民」として選ばれたイスラエル人も、みんな「資格」はありませんでした。

 

 だって、神様の言うことを破ってばかり、ほとんど守れずに生きてきたから……にもかかわらず、神様は何度約束を破られても、「もう一度」「もう一度」とイスラエルの民に語りかけます。

 

 「諸国の民に私のことを伝えなさい」「あなたがたが主の栄光を現しなさい」……正直、最もふさわしくない、最も期待できない民に対して、神様はこの命令を出し続けました。

 

 誰もが、自分だけでは神様の命じることを果たせませんでしたが、神様が自ら側にいてくれたので、ある者は死にかけた人々を救い、ある者は奴隷たちを解放し、ある者は仲間に勝利をもたらしました。

 

 従えるはずのない者が、従う者になっていく。ふさわしくないはずの者が、ふさわしい者になっていく。信じるはずのない者が、信じる者になっていく。

 

 もしかしたら、神の国に入れるのは、最初から最後まで真っ白な人生を歩んだ者……清く、正しく美しく、綺麗な生き方ができた者……そういうふうに思われているかもしれませんが、聖書に記されていることは違います。

 

 実際には、真っ黒でどうしようもない生き方をしていた者たちが、神様に少しずつ変えられて、天の国へと導かれる。

 

 アダムとエバから始まって、宣教者パウロに至るまで、一人一人の人生を通して、聖書は天国への扉(ヘブンズ・ドアー)を指し示します。

 

 それは、どうしようもない私たちを、自分と同じ姿に造り替え、書き換えてくださる神様の力に信頼することです。

 

 約束を破った人間にさえ、新しい契約をもたらした神様が、今日もあなたに呼びかける。今日もあなたの心に刻み付ける。あなた自身も、神の国へと招かれていることを思い出しましょう。

*1:「コリントの信徒への手紙二」日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書 新共同訳準拠』日本聖書協会、2014年、121頁3〜4行参照。

*2:「コリントの信徒への手紙二」日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書 新共同訳準拠』日本聖書協会、2014年、121頁4〜6行参照。

*3:E・ベスト著、山田耕太訳『現代聖書注解 コリントの信徒への手紙2』日本基督教団出版局、1989年、57頁2〜3行参照。

*4:山田耕太「コリントの信徒への手紙二」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、487頁下段13〜24行参照。

*5:山田耕太「コリントの信徒への手紙二」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、488頁15〜23行参照。

*6:E・ベスト著、山田耕太訳『現代聖書注解 コリントの信徒への手紙2』日本基督教団出版局、1989年、57頁12行〜58頁5行参照。