ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『信仰生活キツすぎません?』 ヘブライ人への手紙11:32〜12:2

礼拝メッセージ 2019年10月20日

 

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【命がけですか?】

 「柳本先生……先生は現在、何かに命がけで打ち込んでおられますか?」……ある方にこう聞かれてから、私は未だに返事が返せていないんです。

 

 本当は牧師をしている人間ですから、「命がけで神様にお仕えしています」とか、「命がけでみんなに伝道しています」とか言えたら良いんですが、「果たして自分は命がけかな?」って思うと答えられない。

 

 たぶん、世間一般には「命がけで取り組むものがないとダメ」と言う人は、そんなに多くないでしょう。

 

 だって、「じゃあ、あなたは命がけで、何に取り組んでいるんです?」って聞かれたら、よっぽど真剣に取り組んでいるものがないと答えられない。自分の命に代えてもやり遂げる、死ぬ気で打ち込んでいると言えるもの。

 

 信仰者に期待される生き方って、たぶんそれに近いものでしょう。死を恐れないで打ち込める、命をかけて取り組める……信仰ゆえに、普通の人なら成し得ないことをやってしまう。本来不可能なことができてしまう。

 

 もちろん、あまりにそれが美化されると、単に、英雄や成功者を目指すのと変わらなくなってしまいますが、「じゃあ別に、命がけにならなくたってかまわない」とも言えません。だって、聖書が教える信仰生活って、たいてい「命がけ」ですよ……

 

 「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行い、約束されたものを手に入れ、獅子の口をふさぎ、燃え盛る火を消し、剣の刃を逃れ、弱かったのに強い者とされ、戦いの勇者となり、敵軍を敗走させました」

 

 ついさっき、皆さんと読んだヘブライ人への手紙。ここにバッチリ書いてありました。信仰によって、数々の偉業を成し遂げた人たち……かなりハードル高いですよね。

 

 普通の人なら不可能な内容です。きっといくらか誇張されている、だいぶオーバーに言われていると思いたい。でも、これらの内容は、適当に書かれたものじゃありません。

 

 「信仰によって、この人たちは国々を征服し、正義を行った」……そう書かれているのは、ヨシュア記や士師記に登場する、ギデオンやバラクなどの士師を指しています。

 

 彼らは確かに、戦闘において弱気だったにもかかわらず、神様に従って、次々と勝利を収めていきました。

 

 また、「獅子の口をふさぎ」とあるのは、イスラエルの王ダビデや、捕囚時代に数々の試練を乗り越えたダニエルの例に当てはまります*1

 

 「燃え盛る火を消し」も、本当の神だけを礼拝する姿勢を貫いた、シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの体験を指しているのでしょう*2

 

 「剣の刃を逃れ」は、モーセ、ダビデ、エリヤ、エリシャに当てはまる経験*3「弱かったのに強い者とされ」は、両目を抉り取られたサムソンが、最後に神様に祈りをささげ、敵を全滅させた出来事を思い出させます*4

 

 さらに、「戦いの勇者となり」は、まだ幼かった少年ダビデが、巨人ゴリアトと戦った話*5。「敵軍を敗走させました」は、イスラエルがシリアの軍隊と戦って、これを敗走させた出来事を連想させます*6

 

 どれも「命がけ」のエピソードです。信仰生活を送る際、模範とすべき人たちの例……これらを思い出すと、「何かに命がけで打ち込んでいる」と言えない生き方は、本当に信仰的か?……と不安なってきます。

 

 少なくとも今の私が、「この状態に留まっていてかまわない」と、自分で言い切っちゃうのは、何か間違っている予感がする。

 

 でも、「彼らのように命がけになれ」と言うのも、何か違う気がする……なぜなら私の知る限り、ギデオンもバラクも死を恐れたし、モーセとエリヤも「死んだ方がマシだ」と言って、自分の使命を放棄しようとした人間だから……

 

 実は、「信仰によって」何かを成し遂げた人たちは、誰一人、胸を張って、「自分は命がけで神様に従った」とは言えない人生でした。みんなどこかで、自分のことがかわいかった、自分の命が惜しかった。

 

【耐えてばかり?】

 「信仰を持つ人はこのように生きました」……手紙に書かれたハードルの高すぎる例に、私はついついこう感じます。「信仰生活キツすぎません?」

 

 だけど、よくよく思い出してみると、ここに出てくる人たちは皆、私と同じ弱さを持っていた。私と重なる失敗をしていた。

 

 「信仰生活を送るにあたって、彼らと同じような目に遭うことも覚悟せよ」……この手紙は、そう言おうとしているのかもしれません。

 

 同時に、これらのエピソードは、彼ら自身も、実は覚悟し切れないときがあり、その度に神様に励まされ、神様に力づけられたことを思い出させます。

 

 そう思うと、信仰生活って、命がけになれなかった私たちを、徐々に成長させ、恐れや不安に打ち勝つ力を与え、本来なら不可能だったことを可能にする……そんな成功者に至るためのライフスタイルに見えてきます。

 

 実際、「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」という言葉は、私たちに大きな期待をもたらします。

 

 たとえ、信仰生活が少々キツくても、サレプタの寡婦やシュネムの女性のように、自分の子どもが死ぬような目に遭ったとき、蘇生の希望が持てるかもしれない*7

 

 治療困難な病気や、回復困難な怪我に遭っても、治ると期待できるかもしれない。信仰生活を耐え忍べば、必ず勝利、克服、回復がもたらされる……けれども、若干そんな期待を持った私たちに、聖書はさらに厳しい言葉を突きつけます。

 

 「他の人たちは、更にまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました。また、他の人たちはあざけられ、鞭打たれ、鎖につながれ、投獄されるという目に遭いました」

 

 今まで上げられてきた人物は、最終的に王や指導者になった者、敵から勝利を勝ち取った者がほとんどでしたが、ここから先は、犯罪者として追い回され、捕えられ、逃げ回った人たちの人生が語られます。

 

 「信仰を持つ人はこのように生きました」と……しかも、その内容はどんどんエスカレートしていきます。

 

 「彼らは石で打ち殺され、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊の皮や山羊の皮を着て放浪し、暮らしに事欠き、苦しめられ、虐待され、荒れ野、山、岩穴、地の割れ目をさまよい歩きました」

 

 もはや死人まで出ています。命がけで生きた結果、本当に死んでしまった人たちの話。これらも、私たちを脅すため、ちょっと誇張して適当に書いたものではありません。

 

 「あざけられ」とあるのは、預言者ミカヤやエレミヤの屈辱的な体験を指し、「鞭打たれ」とあるのは、預言者イザヤが語った「苦難の僕」を暗示します*8

 

 「鎖につながれ、投獄される」は、神様に最後まで従ったエレミヤの運命を思わせ、「石で打ち殺され」は祭司ヨヤダの子ゼカルヤの最後を想起させます*9

 

 さらに、「のこぎりで引かれ」は、イザヤが木製のノコギリで引かれたという生々しい伝説を*10

 

 「剣で切り殺され」は、エリヤの時代に虐殺されたイスラエルの預言者たちを思い出させ、「暮らしに事欠き」「羊の皮や山羊の皮を着て放浪した」人物は、エリヤ、エリシャをはじめとする、多くの預言者に当てはまります*11

 

 そう、「信仰生活を送る」って、必ず勝利や克服、回復がもたらされるという話じゃない。むしろ、苦しみに遭って死んだ人たちも多かった。

 

 さらに恐ろしいのは次の言葉です。「ところで、この人たちはすべて、その信仰ゆえに神に認められながらも、約束されたものを手に入れませんでした……」

 

 えっ? 信仰生活を耐え抜いたのに、「頑張った」と認めてもらえたのに、「約束されたもの」を手に入れなかった……?

 

 信仰に生きたにもかかわらず、正しく生きたにもかかわらず、苦しみに耐えたにもかかわらず、生きている間に、約束されたものを手に入れなかった。報いを受けることができなかった*12

 

 「そんなのないよ!」って思うかもしれません。救われるために教会へ来たのに、信じても助けてもらえなかった人たちがいるって、どういうこと?

 

 それじゃあ信じる意味がないじゃないか! 結局、苦しいだけじゃないか! それなのに、どうして信仰生活を送らなきゃいけないのか?

 

【一緒に走る者?】

 驚くことに、この手紙を受け取ったのって、第二世代のキリスト教徒だと言われています*13

 

 イエス様や弟子たちと直接遭ったことのない人たち、最初に洗礼を受けた人たちの子どもが、この手紙を受け取った……普通、これから信仰生活を送ってほしい新世代に、こんな手紙を書きますか?

 

 信仰生活は厳しいよ。耐えなきゃいけないことばかりだよ。報われずに人生を終えた人もいる……そんなことばかり言っていたら、せっかく教会に来てくれた人たちも、逃げ出しちゃうんじゃないでしょうか?

 

 牧師をしている私でさえ、逃げ出したい……常に、自分の生き方を問われる日々、お前は不完全だと言われる毎日から。

 

 でも、さっきの言葉には、重要な続きがあるんです。それが、11章の最後の言葉……「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」

 

 信仰生活を耐え抜いた先人が、生きてる間に報いを受けなかったのは、「更にまさったもの」を与えようと、神様が計画してくださったから。しかも、私たちを除いては、彼らはその計画に与れない、完全な状態に達しない*14……非常に不思議な言葉です。

 

 その信仰ゆえに、神様に認められた先人たち。ミカヤ、エレミヤ、イザヤ、エリヤ……彼ら信仰の「代表者」に比べれば、私たちの方が、どう見たって不完全です。

 

 どう見たって不完全ですが、その私たちがいなければ、彼らは完全な状態に達しない。神様の計画に与れない……

 

 いやいや、私たちの方こそ、彼らという「模範」によって生きている。それなのに、どういうわけか、彼らの方が私たちを必要としており、私たちを除いては、完全な状態に達しないと言うんです*15

 

 なぜなら、信仰生活というものは、個人が一人で勝ち進むものでも、一人で走り抜けるものでもないからです。

 

 神様は、誰かを遣わすため、その人の前に現れるとき、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言って、自分に従った人たちの歩みを、まず思い出させました。

 

 「あなたの前には、あなたの進む道を踏み固めた、兄弟、姉妹、先祖がいる」「あなたもこの道を踏み固め、後に続く者と一緒に、私に続く道を完成させなさい……」

 

 かつて、神様の言葉を伝えた預言者は、ろくに話を聞いてもらえませんでした。母国の人々を悔い改めさせ、国家の滅亡を阻止できた預言者は、なんと一人もいなかったんです。

 

 生きてる間に、目的を達成することのないまま、みんな死んでいきました。しかし、誰にも聞いてもらえなかった彼らの言葉は、2000年間語り継がれ、現代の私たちに届く、力強い預言書になりました。

 

 彼らの踏み固めた道は、その後に続く私たちによって、さらに踏み固められ、広げられ、多くの者が、走り抜けていく道になる。

 

 やがては、全ての者がその道を通って、神の国へと至るように……そう、神様が計画する救いは、全ての者が罪赦され、天の国へと受け入れられ、同じ食卓につくことです。

 

 あなたが和解できなかった者、理解してもらえなかった者、回復を諦めた者たちも、共に救いに至る道……それこそが、完成した神の国での救いです。

 

 神様が計画する道は、信仰生活を耐え切れない者たちが、一人また一人と、取り残されていく道ではありません。

 

 デコボコした道につまずいて、地面の石に足を取られ、何度も倒れてしまう私たち……その私たちが走り抜けられるように、モーセも、イザヤも、エレミヤも、道を踏み固めていきました。

 

 しかしなお、完成していないこの道を、私たちも踏み固め、走り続けていくんです。「信仰の創始者」「また完成者」であるイエス様を見つめながら……

 

 この方こそ、生きている間に、勝利も克服も回復も手に入れなかった人たちが、「更にまさったよみがえり」に達することを、指し示してくれたお方です。

 

 自ら「目の前にある喜びを捨て」「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」復活という新しい命の初穂となった、私たちに永遠の命をもたらす方。

 

 今日はこの後、イエス様によって招かれた人の転入会式が行われます。この教会に新しい仲間が加わります。

 

 これまで、多くの先人たちによって、踏み固められてきたこの道を、私たちと一緒に、さらに踏み固めていく信仰の仲間、キリストの証人です。

 

 互いに、この信仰生活を走り抜けるように、不完全な者から、信じて証しする者となれるように、イエス様を見つめて、進んでいきたいと思います。

*1:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁上段15〜16行参照。

*2:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁上段17〜18行参照。

*3:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁上段19〜20行。

*4:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁上段20〜25行参照。

*5:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁25〜26行参照。

*6:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁26〜28行参照。

*7:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁上段29〜31行参照。

*8:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁下段3〜6行参照。

*9:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁下段6〜9行参照。

*10:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁下段11〜12行参照。

*11:川村輝典「ヘブライ人への手紙」『新共同訳 新約聖書注解Ⅱ』日本基督教団出版局、1991年、384頁下段9〜11行参照。

*12:T.G・ロング著、笠原義久訳『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』日本基督教団出版局、2002年、234頁1〜7行参照。

*13:「ヘブライ人への手紙」日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書 新共同訳準拠』日本聖書協会、2014年、142頁8〜12行参照。

*14:T.G・ロング著、笠原義久訳『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』日本基督教団出版局、2002年、235頁8〜10行参照。

*15:T.G・ロング著、笠原義久訳『現代聖書注解 ヘブライ人への手紙』日本基督教団出版局、2002年、235頁1〜12行参照。