ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『闇に名前をつけました』 創世記1:1〜5、24〜31

礼拝メッセージ 2019年10月27日

 

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【なくしてほしいもの】

 世の中から消え失せてほしいと思うもの……皆さんには何かあるでしょうか? 花粉の季節には杉を焼き払いたい、寝付けない夜は蚊に滅んでほしい、台所で黒光りするアレには早く全滅してほしい……

 

 何かしら、この世にいてほしくない存在が、たいていの人にはあるでしょう。かくいう私も、実は蜘蛛が大の苦手です。

 

 小さい頃、スパイダーパニックという映画が地上波でやっているのを見て、世界が蜘蛛で埋め尽くされる不吉な夢にうなされました。できれば、この世から消え去ってほしい。自分の前に現れないでほしい。そう何度も願ってしまいます。

 

 もちろん、世界から蜘蛛が消え失せれば、天敵のいなくなった害虫で溢れかえってしまうでしょう。蛾や蝶が苦手な人には相当な悪夢です。

 

 ゴキブリやムカデも増えるでしょう。杉の木を焼き払いたい人や、蚊に滅んでほしい人だって、心の中では分かっています。それらが絶滅してしまったら、大変なことになってしまう。彼らはこの世界に必要だと。

 

 でも、やっぱりちょっと考えてしまいますよね? 最初から、神様が蜘蛛のいない世界を造っていたら……虫なんていない、花粉が飛んでない、嫌なもののない世界。

 

 冬の寒さに襲われず、夏の暑さに苦しまなくて済む世界。カビや埃がわいてこない、ウイルスや細菌のない世界。

 

 初めからなければよかったもの、今からでも失くしてほしいものが、私たちの間にはたくさんあります。

 

 特に今、心や体を病んでいる人は、「この病気さえなかったら」「こんな障害なかったら」と、切実に感じるときがあるでしょう。なぜ、こんな理不尽な病が存在するのか? こんな厄介を引き起こす因子があるのか?

 

 ついつい、疑問をぶつけたくなります。神様、どうしてこんなもの造ったんですか? どうして世界を、こんな仕組みにしたんですか?

 

 まさに今日、私たちが読んだ創世記1章には、神様がこの世界を造った様子が書かれています。「光あれ」……そう言って始まった天地創造は、六日間で全て完成しました。

 

 神様は、ご自分の造った光を見て良しとされ、海を見て良しとされ、植物を見て良しとされ、天体を見て良しとされ、鳥や獣を見て良しとされました。

 

 最後には、完成した全ての前でこう言われます。「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」

 

 この世に存在する全てのものを良しとされた。極めて良いと受けとられた。クリエイターが、自分の作品を自画自賛するような感じですが、それだけ、この世界を愛される神様の姿が思い浮かびます。

 

 一方で、私たちはちょっと考える。「でも、これとこれはなくても良かったんじゃないか?」「こんなもの、むしろ造らない方が良かったのでは?」と。

 

【被造物じゃない?】

 危険なもの、毒のあるもの、不快感をもたらすもの……それらを指して言いたくなる。「これは本当に神が造ったものなのか?」「こんなもの良しとされたのか?」と。

 

 事実、聖書を書いた人たちは、被造物である蛇に対して、嫌悪と不快感を露わにします。創世記3章では、蛇が地面を這い回るのは、人間を誘惑したゆえだと書かれてしまう。

 

 パレスチナの遊牧民族にとって、荒れ野に潜むクサリヘビは、子どもや家畜を死に追いやる、たいへん不吉な存在でした。今でもこういった地域では、蛇狩りが毎日行われています。

 

 彼らにとって、蛇は紛れもなく、いなくなってほしいもの、絶滅してほしいものと言えるでしょう。

 

 でも、神様は人間を誘惑した蛇に対し、直ちに滅ぼそうとはなさいません。「お前は生涯這い回り、塵を食らう」と宣告しますが、もともと蛇はそういう生き物です。

 

 果たして罰を与えたことになるのか、よく分かりません。結果だけ見れば、神様は厄介ごとを引き起こした蛇についても、その存在をゆるします。

 

 いやいや、悪いことしたんだから滅ぼせばよかったのに……と言いたくなりますが、むしろこの後、悪いことを繰り返し、神様に不快感をもたらす生き物は、圧倒的に私たち人間です。

 

 自分たちを造ったことを後悔させるほど、何度も神様に背いてしまう。にもかかわらず、神様はやっぱり、人も動物も滅ぼし尽くすことをなさいません。

 

 「こんなもの良しとされたのか?」「本当に神が造ったのか?」……そう言われても仕方のない存在は、実は私たちの方でした。

 

 鳥や獣や虫が口をきけたら、彼らの方がこう言ってくるかもしれません。「神よ、なぜ人間なんて造ったんです?」「本当に彼らを良しとされたんですか?」と。

 

 そんな中、私たち人間は自分たちの間でさえ、こんなことを言っている。「神は、同性愛者を良しとされたとは思えない」「重度の障害者に存在価値はない」「我々に不快感をもたらすあの人やこの人は、本来のあり方から外れている」……

 

 中には、聖書の言葉を引用して、自分が受け入れられない者、嫌悪している対象を排除しようとする人もいます。

 

 「私は信仰心から、彼らのことを認めない」と……同性愛者や異なる人種の婚姻届を役所で拒否したクリスチャン。

 

 彼らの言葉を聞いたとき、私たちが「信仰的な基準」から拒絶していると言うものも、実は単に、自分の嫌悪感を正当化して、消し去ろうとしているに過ぎないのでは……と思わされます。

 

 「神は同性愛者を良しとされたとは思えない」そう語る人の多くが口にするのは、創世記1章27節の言葉です。

 

 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」……ここに、人間は男と女に造られたと書いてある。同性愛者や性同一性障害の人を造られたとは書いてない。

 

 そう主張して、彼らを秩序と調和から外れた混沌をもたらす存在として否定している信仰者。でも、それを言うなら、聖書の記す創造の秩序から外れた存在は、いくらでもこの世にいるんです。

 

 「鳥は地の上、天の大空の面を飛べ」と言われているのに、地上ではなく氷の上で暮らし、大空ではなく海の中を泳ぐペンギンたち。

 

 きっと彼らも、私たちの受け入れがたい様相をしていれば、蛇と同じように、悪魔の化身と言われたんでしょう。氷ではなく地の上に、海ではなく空を飛べと言われたんでしょう。

 

 「こんなものなければよかったのに」「今からでも消え去ってほしい」……私たちがそう思う多くのものは、自分に混沌をもたらすような、受け入れがたい存在です。

 

 まだ、神様が天地を創造する前、この世を支配していた「闇」のような、秩序も調和もない世界。息一つなかった死の世界……そこへ誘う恐ろしい存在。

 

 ある人にとっては、それが恐怖をもたらす蛇であり、パニックを起こす虫であり、障害をもたらす遺伝子であり、マイノリティーの同性愛者であったりします。

 

 自分の中の秩序を乱し、混乱と不安に陥れるもの。悲しみや苦しみ、寂しさに支配された「闇」そのものだと感じるもの。

 

 神様どうして、こんなもの造られたんですか? なぜ「闇」をほっておくんですか? 私の前から、早くこれらを消し去ってください!

 

 そう叫びたくなるとき、一旦立ち止まって、次の言葉に目を留めたいと思うんです。「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」……これって、サラッと読んできましたが、実は不思議な話です。

 

【名付けられたもの】

 闇って基本的に、光と対立するものとして聖書の中では描かれます。光は秩序、闇は混沌を象徴する……恐怖、不安、悩み、恐れ、あるいは死の力を象徴する状態。

 

 調和を乱し、私たちを混乱させる力である。にもかかわらず、神様は光を造ったとき、闇を消し去るのではなく、光と並べて別の名前で呼びました。

 

 「神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」……「天と地」「海と地」のように、世界を構成する要素の一つとして、闇を「夜」と名付けられた。

 

 もはや、混沌の象徴であった闇は、神様に「夜」と名付けられた瞬間から、この世界の秩序となります。私たちの一日を構成する「昼」と「夜」……調和をもたらす存在に。

 

 古代から、人間は闇を恐れてきました。周りを確認できない、自分の理解を超える闇……しかし、「闇」が「夜」と呼ばれるとき、それは私たちにとってなくてはならないものになりました。

 

 身を横たえて疲れを癒し、休息をとる時間。日中の喧騒や眩しさから逃れ、ゆっくりと心身を休めるとき。子どもたちも、夜を迎えなければ成長することができません。

 

 神様が光を造ったとき、闇はもはや混沌を意味するだけの存在ではなくなりました。私たちに必要な眠りと休息を与える「夜」となり、成長をももたらす調和と秩序になりました

 

 。神様の創造とは、そういう業なんです。私たちが闇雲に恐れる対象を、「良し」とされ、私たちに必要な力とされる方。

 

 消し去りたい、恐ろしいものの前で私たちが震えるとき、この方の創造の業を思い出しましょう。神様はそれらを通して、私たちに力を与えるお方です。