ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『まるで魔王の玉座』 ヨハネの黙示録4:1〜11

礼拝メッセージ 2019年11月6日

 

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【普通逆では?】

 神様のいるところって、皆さんはどんなイメージですか? たぶんパッと心に思い浮かぶのは、いわゆる「天国」のイメージですよね。

 

 ふわふわとした雲の上、真っ白な衣を着た天使たちが行き交い、清らかな音楽が流れてる。あるいは、たくさんの花に囲まれて、人や動物の魂がのんびりと過ごす、のどかな原っぱのような場所。

 

 もしくは、真っ白な回廊があって、清潔な服とご馳走が用意された、金色に輝くお城のような場所を想像されるかもしれません。

 

 いずれにせよ、「禍々しさ」や「恐ろしさ」とは正反対の「綺麗で」「優しくて」「安心できる」聖なる者たちの世界を想像されるんじゃないかと思います。

 

 反対に、轟々と燃える炎や立ち上る煙、稲妻や雷が鳴り響く中、何枚も羽や目がついた化け物が闊歩する世界……そんな危険な場所に行きたいと思う人は、まずいないですよね。

 

 ちょっと見るだけなら行ってみたいような気もしますが、そこへ招き入れられるのはごめんです。人を苦しめるのが大好きな魔王が待ち構えていそうです。

 

 キリスト教では、いつかこの世が終わるとき、いわゆる「神の国」「天国」に入れる者たちと、そうでない者とに分けられると言われています。

 

 そのとき、神様に従う者が入れる「天の国」「神の国」は、先に挙げた聖なる場所、「綺麗で」「優しくて」「安心できる」落ち着いた世界というイメージでしょう。

 

 逆に、神の国から締め出された人々は、地獄の火に焼かれてしまう。羽や目玉だらけの怪物に襲われ、跡形もなく滅ぼされる……

 

 魔王が待ち構えていそうな「禍々しく」「恐ろしい」世界に放り出される……まさに「神の国」に入れなかった者たちに待ち受ける、悲惨な状況がイメージされます。

 

 ところが、先ほど読んだ聖書箇所では、天上の礼拝、すなわち「神の国」における礼拝がこんなふうに記されてました。

 

 「見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」「玉座からは、稲妻、さまざまな音、雷が起こった。また、玉座の前には、七つのともし火が燃えていた」「この玉座の中央とその周りに四つの生き物がいたが、前にも後ろにも一面に目があった」

 

 ずいぶん禍々しい描写です。神様が座っているというより、悪魔が座っていそうな感じがします。さらに、この玉座の周りにいるという四つの生き物が恐ろしい……

 

 「第一の生き物は獅子のようであり、第二の生き物は若い雄牛のようで、第三の生き物は人間のような顔を持ち、第四の生き物は空を飛ぶ鷲のようであった」

 

 この一匹一匹に、前にも後ろにも大量の目がついていると言うんです。もはや天の使いというより悪魔です。さらに描写は続きます。

 

 「この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りにも内側にも、一面に目があった。彼らは、昼も夜も絶え間なく言い続けた。『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方!』」

 

 賛美している内容は、現代の賛美歌でも歌われそうな言葉ですが、口にしている存在が存在なだけに、まるで黒ミサのような光景です。

 

 邪悪な組織が、もっと恐ろしい何かを呼び出そうとしているようにも感じます。何ともおどろおどろしい世界……これが、サタンや魔王の玉座でなくて、神の子イエス・キリストの玉座というから驚きです。

 

 いやいや普通逆でしょう? こんな恐ろしいイメージじゃないでしょう? 世界の終わりに完成される神の国、それがどうして、こんなにも禍々しく描かれるのか?……何とも不思議な話です。私もつい戸惑っちゃいます。

 

【終末のシーン】

 こういう世界の終わり、世界の行く末を描いた思想は「終末思想」と呼ばれます。この世はもうじき終わりを迎え、「神の支配」が完成される。「天の国」が私たちのもとにやってきて、神様に従う人々を迎え入れる。

 

 その日には、死んでいた人々も復活し、信じる者に永遠の命が与えられ、神様と同じ食卓につける。

 

 人間の歴史がどのように幕を閉じ、どのように神様の支配する新しい世界に招かれるのか、様々な象徴と表現を使って書かれたもの……それが「ヨハネの黙示録」です。

 

 「黙示」というのは、「隠されたことを明らかにする」「啓示」あるいは「開示」を意味する言葉で、ギリシャ語のアポカリュプスから来ています*1

 

 見てのとおり、よく分からない幻や象徴がひたすら続くので、これを理解するのはめちゃくちゃ困難です。

 

 どの幻が何を示し、何を表現しているのか? 何を語ろうとしているのか? 何を予言しているのか?……はっきり言って、全てを正確に捉えることは不可能だろうと思います。

 

 それくらい、黙示録の描写は、読者の想像力をかきたてる記述にあふれています。その中心となるのが、神の子イエス・キリストがこの世に再びやってくる「再臨の日」の記述です。色鮮やかな幻が、多くの象徴を通して描かれ、謎めいたメッセージを放ちます。

 

 たった今聞いた箇所も、魔王が召喚されそうな場面でしたよね。おかげで、ここを好き勝手解釈して「聖書の秘密を語りましょう」と言いだす怪しげな人たちが後を絶ちません。

 

 この世の終わりに、どんな人たちが神の国に受け入れられるのか書き記している書物ですから、みんな気になっちゃうわけです。

 

 この世界に終わりが訪れたとき、私はちゃんと神の国に入れるだろうか? 古い世界と一緒に滅ぼされてしまわないだろうか? どうしたら、滅びずに済むだろうか?

 

 不安と恐怖に駆り立てられた者に「大丈夫、私たちに従えば問題ない」「私たちの言うことを信じれば、終末の日に救われる」「しかし、私たちを信じなかったら、こんなにも恐ろしい運命が待ち構えている」……そんなふうに、破壊的カルトや独裁的なリーダーが、好んで使ってきた箇所です。

 

 なにせ、神の国に入れる者と、そうでない者を分けられる、天の玉座に座った方が、どれだけ威厳に満ちていて、どれだけ恐ろしい裁きを下すか、ひたすら仰々しく語り聞かせるところですから。

 

 白い衣に、金の冠を被った只者じゃない長老たちが、24人もひざまずき、悪魔のような四つの生き物をひれ伏させる……こんな人、敵に回したらいけません。

 

【キリストの誕生】

 しかし、この話……神様に従って、イエス様に従わなきゃ、容赦なく滅ぼされてしまうという脅しに感じる一方で、福音書に記されるイエス様とのギャップを非常に大きく見せます。

 

 『信徒の友』の「日毎の糧」にも書いてあったように、この世に誕生したイエス様は玉座や地位に固執されず、貧しい家畜小屋の中に現れました*2

 

 彼が座ったのは玉座ではなく、小さな飼い葉桶の中でした。彼にひれ伏し礼拝したのは、綺麗な服を着た長老たちや並ならぬ力を持った怪物ではなく、野宿していた羊飼いや東方から着た博士たちでした。

 

 さらに、自分を信じないで疑った者に、滅びを宣告するどころか「平和があるように」と声をかけ、「信じない者ではなく信じる者になりなさい」と、改めて招かれる方でした。

 

 「あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」

 

 この言葉は、まさに飼い葉桶の中で生まれたイエス様を拝みにきた羊飼い、異邦人なのに最初に礼拝することを赦された博士たち、そして疑ったのに赦されたトマスをはじめとする弟子たちの賛美と重なっています。

 

 そう、黙示録のおどろおどろしい記述は、福音書に描かれるイエス様から憐れみを受けた人たちが、イエス様を信じて従う者に変えられた、24人の長老や、絶え間なく賛美する生き物たちのように変えられたことを思い出させます。

 

 これらの記述は、ただ信じない者への脅迫として受け取るのでなく、信じることが難しい時代に生きる人たちへ、変化と成長をもたらすイエス様の導きを語るものとして、今受け取るべきものだろうと思います。

 

 共に、私たちもこの方の前にひれ伏して、すべての者を神の国へと導き入れる、変化と回復の主を賛美したいと思います。

*1:「ヨハネの黙示録」日本聖書協会編『はじめて読む人のための聖書ガイド 聖書 新共同訳 準拠』2014年、157頁1〜2行参照。

*2:「日毎の糧 11月6日」『信徒の友 2019年11月号』日本基督教団出版局参照。