ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『死神じゃありません』 ヨハネの黙示録14:14〜20

聖書研究祈祷会 2019年11月27日

 

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【再臨が待ち望めない?】

 あっという間に11月最後の水曜日になりました。来週から、いよいよアドヴェントに入ります。

 

 アドヴェントは日本語で「待降節」とも呼ばれ、文字通り、神の子であるキリストの降臨を待ち望む期間、イエス様の誕生を祝う準備をする期間です。教会の暦では、アドヴェントの第一週目から新しい一年が始まります。

 

 キリストの復活を祝うイースターの前に、洗礼を受ける人の準備期間があったように、クリスマス前の4週間も、洗礼を受ける人の準備が行われます。

 

 受難節の6週間は、イエス様の受けた苦しみと十字架の死を思い起こして、自らの罪を悔い改めて過ごすことが求められました。アドヴェントの4週間も、同じようにあることが求められます。

 

 それは、この世の終わりにイエス様が再び地上に訪れる「再臨」を求めて祈ることです。

 

 「終わりの日」「終末」「裁きの日」「審判の日」とも呼ばれますが、その日には、イエス様が全ての悪を討ち滅ぼし、不正と暴力に満ちた世界に終わりがもたらされ、「神の国」「神の支配」が完成すると言われています。

 

 この時、死んでいた者は甦り、生きている者と共に神様の前に召し出され、神の国に受け入れられて救われるか、受け入れられずに滅ぼされるかが決まります。

 

 神様を信じ、イエス様に従う者は永遠の命を与えられますが、神様に背き、イエス様に従わない者はそのまま破滅へと至る……なかなか恐ろしい話ですよね。

 

 キリストの再臨までに信じて従わなかったら、神の国に受け入れられず、天国に入れなくなる。その日までに信じないと地獄の火に焼かれてしまう。

 

 だから、今すぐ信じて洗礼を受けなさい。そんなふうに脅迫的な入信を勧めるところもあります。実際、死んだ後地獄に行きたいとは思いませんから、怖くなって洗礼を受けましたという人もいるでしょう。

 

 また、イエス様を信じて洗礼を受けたけど、正直、神様の教えに従えているか自信がもてない。今、イエス様がやって来て神様の前に立たされたら、自分も滅びを言い渡されてしまうんじゃないか……そんなふうに恐れている人もいるでしょう。

 

 それに、この世でまだやりたいことがあるし、今、再臨の日が来たら困る……という人もいるでしょう。

 

 そう、実はなかなか「再臨を待ち望む」ってハードルの高い話なんです。だって「今からイエス様があなたの前にやって来ます」「神の国に入れるかどうかが決まります」「さあ、神様の前に立ちなさい」って言われたら、ちょっとビビるでしょう?

 

 私だって「えっ、ちょっと待って、心の準備を……」って言いたくなります。

 

【キリストが死神に?】

 実際、先ほど読んだ黙示録には、再臨のイエス様が、かなりおどろおどろしく描かれていました。

 

 「わたしが見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた」……まるで死神のような登場ですよね?

 

 これから罪人の命を刈り取ろうとしているような、そんな姿……実際、ある天使がイエス様に向かってこう呼びかけます。

 

 「鎌を入れて、刈り取ってください。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています」……そこで、雲に乗ったイエス様は鎌を振り上げ、地に投げつけて、あっと言う間にそれらを刈り取ってしまいます。

 

 ただ、幸いなことにこの様子は、世の終わりを収穫でたとえる表現で、イエス様に刈り取られた穀物は、神の言葉に従う人々が集められ、天の国に迎えられたことを意味します*1

 

 ところが、その次に出てくる天の使いは、まさに罪人を地獄に連れて行く悪魔のような振る舞いをします。

 

 「別の天使が天にある神殿から出て来たが、この天使も手に鋭い鎌を持っていた。すると、祭壇のところから、火をつかさどる権威を持つ別の天使が出て来て、鋭い鎌を持つ天使に大声でこう言った。『その鋭い鎌を入れて、地上のぶどうの房を取り入れよ。ぶどうの実は既に熟している』」

 

 ここで言う「地上のぶどう」とは、神の言葉に従わなかった処罰の対象となる人々です*2。鎌を持った天使は命じられるまま、地に鎌を投げ入れて彼らを刈り取り、「神の怒りの大きな搾り桶」に投げ入れます。

 

 言うまでもなく、この搾り桶は「神の裁き」の象徴です。搾り桶は「都の外」すなわち、神の国から締め出されたところで踏まれます*3

 

 「すると、血が搾り桶から流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、1600スタディオンにわたって広がった」……もはや「ぶどうの汁」ではなく「血が流れ出た」とはっきり書かれているところに、生々しさが表れます。

 

 「馬のくつわに届くほど」ということは、だいたい人一人の高さまで血が溜まったということです。

 

 しかも、1600スタディオンと言えば、直径約300キロメートル……ざっと18万人くらいの血が流れたことになるでしょう。

 

 世界中の「罪人」の血が流れたにしては少ない気もしますが、1600という数字は、旧約聖書の中で「全世界」を表すときに使う「4」という数字を400倍にしたものです*4

 

 聖書の世界観から言えば、地上のほとんどが血で覆われるような感覚でしょう。背く者には容赦ない、悪人を徹底的に懲らしめるその姿は、まさに「天の使い」というより「死神」のような姿です。

 

 救われる者以外は、このように命を刈り取られ、放り出され、踏み荒らされて捨てられる……そんな厳しいイメージが浮かびます。

 

【収穫でたとえた終末】

 実はキリストが再臨するとき、世の終わりの出来事を収穫でたとえている箇所は、福音書の中にも何度か出て来ます。

 

 マタイによる福音書9章37節には、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という有名なイエス様の言葉が出てきます。

 

 これは、イエス様が町や村を巡って会堂で教え、病人を癒して回っていたとき、救いを求めてやって来た大勢の人を見て言った言葉です。

 

 苦しんでる人たちを救いたい、ここにいるみんなを神の国へ迎えたい……そんな優しさがにじみ出たところでした。しかし、収穫のたとえは、救済だけでなく滅びを表す際にも使われます。

 

 少し後ろのマタイによる福音書13章24節から30節には、「毒麦のたとえ」が出てきます。ここでは、人々が麦を撒いた畑に敵がやって来て、眠っている間に毒麦を撒かれてしまいます。

 

 そこで、畑で作業する僕たちは、主人に向かって「毒麦を抜いて集めておきましょう」と提案します。

 

 しかし、主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」「刈り入れの時、まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」というふうに命じます。

 

 地上で悪を犯す者たちが、今は好き放題過ごしていても、終わりの日には焼き尽くされる。そんなメッセージを受け取る話となっていますが、皆さんはどう思うでしょうか?

 

 世の終わり、再臨のときに、私たちを救われる者と滅びる者にはっきり分けるイエス様。信じて従わない者は、容赦なく締め出すイエス様……

 

 もしかして、その日までに信じて従えなかったら、準備が間に合わなかったら、私も神の国から締め出されるんだろうか?

 

【実がなるまで粘る神】

 実はもう一箇所、収穫をめぐる有名なたとえ話が、ルカによる福音書に出てきます。13章6節から9節に出てくる「実のならないいちじくの木」のたとえ。そこで、イエス様はこんなふうに話されます。

 

 ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。そこで、園丁に言った。「もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。」園丁は答えた。「ご主人様、今年もそのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」

 

 本来なら、主人が来た時点でタイムリミットを迎えたはずの者たちに、園丁は何とか救いのチャンスを与えようとする。実がなるように準備し、育つよう必死に粘ってくれる……その園丁こそが、救い主イエス・キリストの姿を表したものでした。

 

 以前、黙示録の中に何度も出てくる「3」という数字は「たくさんの」「完全な」「すべて」を表す完全数の一つだと言いました。三年もの間、実のならなかったいちじくは、もはや「完全に」手遅れの木です。

 

 しかし、イエス様は「完全に」実をつけなくなった木を何とか助けようと必死に育てます。実は、この世の終わり、世界が滅ぼされる出来事について書かれた箇所では、同じように、実のならない者を実らせ、滅びから免れるよう促す神様の姿が何度も出てきます。

 

 創世記に記された世界の滅亡、ノアの洪水物語では、こんなふうに語られます。「洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気づかなかった」

 

 また、その後に出てくるソドムとゴモラの町が滅亡する話でも、人々は食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていたが、突然天から硫黄と火が降り注ぎ、住人は一人残らず滅ぼされてしまったと書かれています。

 

 イエス様が再び来られる再臨の日も、同じように突然訪れると言われており、恐ろしいイメージが強調されているように感じます。

 

 イエス様が再来するとき、世の終わりに備えていなければ、その日に間に合うよう準備していなければ、ノアやロトの時代に滅ぼされた人々のように、破滅を迎えてしまうと聞こえます。

 

 けれども、ノアの洪水にしても、ソドムの滅亡にしても、突然やってきた「終わりの時」は、人々の準備を待って、訪れたものでした。

 

 ノアに関しては、彼とその家族が箱舟を造り終わり、全員が舟に乗ってから、40日40夜の雨が降り注ぎました。実は、神様が洪水を起こしたのは、彼らが舟に乗ってから、実に7日も経った後でした。

 

 ロトに関しては、「この町から逃げなさい」と御使いたちに促され、しばらく一晩明けてから、町に硫黄の火が降り注ぎました。

 

 けれども、ロトは明け方になっても逃げ出さず、御使いたちに急き立てられても、家を出るのをためらっていました。

 

 今逃げたら住まいを失ってしまう、財産も全て無くしてしまう……目の前の生活に囚われていたのは、彼も同じでした。

 

 本来なら、終わりが来るのを予告されながら、準備が間に合わなかった者として、彼も滅ぼされるはずでした。

 

 しかし、神様はロトを憐れんで、御使いたちに無理やり、彼とその家族を連れ出させました。イエス様も人々を憐れんで、信仰の実がつくまで粘り、私たちに準備をさせてくださるお方です。

 

 世の終わりについては、恐ろしいイメージばかりが強調されやすいですが、その一つ一つに神様の憐れみが、慈しみが一緒に描かれています。

 

 それらを通して、今この世の生活に囚われている者が、神の国に心を向けるよう、聖書は促してきます。

 

 神様は、準備しない者を切り捨てるのではなく、全ての者が準備するよう、促しているんです。

 

 イエス様は決して、私たちの命を刈り取る死神ではありません。むしろ、ご自分の命をかけて、実のならない私に実をつけさせ、神の国へと招き入れるため、集めてくださる収穫の主です。

 

 そのことを心に留めながら、恐れずに再臨の日を待ち望んでいきたいと思います。

*1:中島聡「日毎の糧 11月27日」『信徒の友』日本基督教団出版局、2019年11月、3〜6行参照。

*2:笠原義久「ヨハネの黙示録」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、756下段25行〜757頁上段1行参照。

*3:笠原義久「ヨハネの黙示録」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、757頁上段2〜4行参照。

*4:笠原義久「ヨハネの黙示録」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、757頁上段6〜8行参照。