ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私が花嫁?』 ヨハネの黙示録19:1〜10

聖書研究祈祷会 2019年12月4日

 

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【呪いと祝福のギャップ】

 ヨハネの黙示録を読んでいると、人間はたいてい2つに分けられています。「神に裁かれ滅ぼされる者」と「神に赦され救われる者」……

 

 その運命は対照的に表現され、私たちにどっちを取るか迫ってきます。一方は呪われ一方は祝福される。一方は愚かで一方は賢い。

 

 ある者は怠惰で罪深い人生を過ごしたから、罰として骨まで焼き尽くされてしまう。ある者は忍耐強く誠実な生き方をしたから、ご褒美として神の食卓に招かれる……いったい自分はどっちに当てはまるのか気になってきますよね?

 

 特に、神に裁かれ滅ぼされる方は、「大淫婦」という非常に不名誉な表現で呼ばれます。今で言えば、「あばずれ」「ビッチ」みたいな表現です。誰だってそんなふうに言われたくはありません。

 

 反対に、神に赦され救われる方は、「子羊」「花嫁」というふうに呼ばれます。どっちがいいか聞かれたら、間違いなくこっちです。無垢で大人しく清楚なイメージ、正しく誠実に生きてきた者として呼ばれたい。

 

 どうも、旧約においても新約においても、聖書の中では、神様と人々との関係を夫婦の関係でたとえることが多かったようです。神に従う正しい者たちは「神の花嫁」にたとえられ、神に逆らう罪深い者たちは「夫を裏切った浮気妻」にたとえられました。

 

 この表現はけっこうたくさん使われていて、神に逆らった人々は、しばしば「淫売」や「淫婦」という言葉で表現されます*1。夫がいるにもかかわらず、他の男と浮気した者。家族がいるにもかかわらず、みんなを捨てて出て行った者。

 

 旧約の掟では、そのような罪を犯した者は、共同体全体を汚した者として、みんなから石を投げられ打ち殺されることになっています*2

 

 パートナーを裏切り、家族を見捨てた報いを受けるように……つまり、「大淫婦」と呼ばれた時点で、もうその人は「死」に定められたような状態です。

 

 反対に「良き妻」として表現される人たちは、神様に受け入れられる正しい人と言われています。

 

 律法においても、家族を支え、夫を大切にした女性たちが一人になっても困らないように、共同体全体で受け入れ、助けるように勧められています*3

 

 ある意味、黙示録で言われていることは、ずっと前から人々に言われてきたことと変わりません。正しく生きた者は救われ、過ちを犯した者は裁かれる。罪深い者は、淫売や淫婦と呼ばれて辱めを受ける。

 

 だから、そうならないように気をつけて、今の時代を生きなさい……既に、神様に従って清い生活を送っている者、苦しみに負けず正しく生きている人たちにとっては、この言葉は大きな励ましになるでしょう。

 

 私たちは神の花嫁として受け入られ、その婚宴に招かれるんだ。正しく生きてきた者として認められ、永遠の命を受けるんだ……しかし、自分は正しく生きてきたと胸を張って言えない者には、相当プレッシャーになる言葉です。

 

 私は「淫売」「淫婦」と呼ばれて、神の国から締め出されるのか? この世で犯した過ちを晒され、浮気者として蔑まれるのか? 正しい者から「いい気味だ」と思われて、そのまま滅んでしまうのか?

 

【大淫婦って誰のこと?】

 いったいどこまで行けば、「大淫婦」と呼ばれて神の裁きを受けるんだろう? 自分はもうそこまでいってしまったのか、まだ何とかなるのか、どっちなんだろう?

 

 非常に俗っぽい心配ですが、実際「大淫婦」って誰のことなのか、私たちも気になってきます。

 

 「ハレルヤ。救いと栄光と力とは、わたしたちの神のもの。その裁きは真実で正しいからである。みだらな行いで、地上を堕落させたあの大淫婦を裁き、御自分の僕たちの流した血の復讐を、彼女になさったからである……」

 

 ここで言われている「みだらな行い」とは、ホセアやイザヤ、エレミヤといった預言者たちが告発してきた偶像礼拝、神以外のものに従うことを指す表現として、旧約で繰り返し使われてきた言葉です。

 

 そして、これを書いた著者の念頭にあったのは、イスラエルに攻め入って国を滅ぼし、人々を偶像礼拝によって堕落させたバビロンの姿があったでしょう*4

 

 この前の18章から続く預言は、かつてイスラエルを苦しめたバビロンの滅亡とその理由を語っています*5

 

 第一に、拝金主義に走って富を蓄え、その力で周りの国々に好き勝手したこと。第二に、自分たちのようにすれば繁栄がもたらされると、他の国々にも誘惑したこと。第三に、その行いを批判し警告した預言者たちや聖なる者をも殺害し、封じ込めたこと*6

 

 国単位の過ちとして聞くと非常にスケールが大きいですが、金銭への欲求を抑えられず、他者を支配し誘惑する、批判や告発を黙殺することは、けっこう多くの人たちがやってきたことです。

 

 その一つ一つが集まって、国家の罪につながったことを考えると、「大淫婦」と呼ばれる出来事は、自分と全く関係ないこととは言えません。

 

 あのバビロンが滅ぼされたように、これらの過ちを犯し、罪に染まった人々は、終わりの日に連れ出され、訴えられ、裁かれてしまう。自分たちが苦しめ、黙殺した人たちの復讐を受け、その骨が焼き尽くされるよう炎の中にくべられてしまう。

 

 そっち側じゃないと思いたいですよね。自分はそこまで悪くない、そこまでされるほどひどくないと言いたいですよね。でも、ペルシャに滅ぼされてしまったバビロンにも、私たちと変わらない一般市民がいたはずです。

 

 上に従い、周りに流され、自分はそこまで悪くないと思いながら、日々を過ごしていた人たち。

 

 本当はこの命令に従っちゃいけない、この雰囲気に流されちゃいけないと感じながら、黙って従った人たち。神以外の者を恐れて、正しく行動できなかった人たち……国家の罪につながる一つ一つの過ちについて、神様は厳しく追求されます。

 

【花嫁も大淫婦と同じ?】

 実は、厳しく批判されているバビロンに滅ぼされたイスラエルも、かつて「淫売」「淫婦」と呼ばれた民の国でした。

 

 ホセア書では、繰り返し警告されているにもかかわらず、神に背いて、神以外の者に従うイスラエルが、浮気をした妻にたとえられています*7

 

 同時に、本来は浮気をした時点で死刑に処せられることになっている人々を、神様はもう一度連れ戻し、自分の家へ受け入れたことも語られていました*8

 

 普通なら離婚して裁判を起こし、徹底的に叩くのに、この方はもう一度、我々を花嫁として受け入れる。

 

 「ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。子羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」

 

 6節から8節には、天の民の叫ぶ言葉が記されています。かつて、神に逆らい、淫婦と呼ばれたイスラエルの民が、婚礼の日に花嫁の支度をさせられる。自分が裏切ってしまった相手から、浮気を重ねた相手から、婚礼の用意をしようと促される。

 

 正しい行いをできなかった人々は、花婿であるキリストから「輝く清い麻の衣」「聖なる者たちの正しい行い」を着させられて、本当の花嫁として生まれ変わります。

 

 正しい行いをイエス様がさせてくれる。自分じゃふさわしい用意ができない私たちに、イエス様が一緒に用意をさせてくれる。

 

 今週から、私たちはキリストの誕生をお祝いする準備の期間、アドヴェントに入りました。前回もお話ししたように、この時期は、イエス様が再び来られる再臨の時を求めて、準備し、祈る期間でもあります。

 

 でも、一人じゃ準備ができない私たち、急には花嫁の衣装が着られない私たちに、イエス様は一緒に準備をさせてくださいます。

 

 私がこの方の花嫁になれるわけない、ふさわしい振る舞いができるわけない……そう思う私たちに、イエス様はそっと衣を着させられます。

 

 「いいから、私と一緒に準備をしなさい」……私たちも、この4週間の間、自分にはできないと思っていた準備を、神様に信頼しつつ、整えていきたいと思います。

*1:ホセ1:2、2:4参照。

*2:レビ記20:10参照。

*3:申24:17〜22参照。

*4:笠原義久「ヨハネの黙示録」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、761頁上段5〜8行参照。

*5:笠原義久「ヨハネの黙示録」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、761頁上段9行参照。

*6:笠原義久「ヨハネの黙示録」『新共同訳 新約聖書略解』日本基督教団出版局、2008年、762頁上段5〜10行参照。

*7:ホセ1:2、2:4参照。

*8:ホセ3:1〜5参照。