ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『滅ぼしてたまるか』 マラキ書3:19〜24、ヨハネによる福音書1:19〜24

礼拝メッセージ 2019年12月14日

 

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【終わりの日】

 終わりの日、終末の時がいつかこの世にやってくる。その日には「高慢な者、悪を行う者はすべてわらのようになる」「到来するその日は」「彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」……

 

 旧約聖書の巻末に記された預言者マラキの残した言葉。クリスマスまで、あと一週間を切ったときに、あまり聞きたい言葉ではありません。

 

 救い主イエス・キリストの誕生を祝う準備のとき、教会ではやたらこの世の終わり、審判の日について語られます。聖書研究祈祷会では、四週連続ヨハネの黙示録が読まれ、日曜日には、国家の敗北を予告した預言者の言葉が読まれてきました。

 

 生きている者も死んでいる者も、いつか必ず裁きを受ける。その日、その時、神の国に受け入れてもらえるように、主であるイエス様を信じなさい。神様にしたがって、清く正しく歩みなさい。

 

 その日の準備ができない者は、神の国から締め出され、城壁の外で踏み潰され、火の池に投げ込まれて燃える。

 

 街中ではクリスマスソングが流れ、みんなワクワクした雰囲気なのに、なぜ私たちは、終わりの日の裁きについて聞くんでしょう?

 

 それは、アドヴェントがイエス様の誕生を祝うクリスマスを待つだけでなく、イエス様が再びこの世に訪れる、再臨の日を待ち望む期間でもあるからです。

 

 私たちのために十字架にかかり、復活して天に昇ったイエス様が、再びこの世に訪れる。その日には、古い世界に終わりがもたらされ、新しい神の国が到来する。

 

 理不尽な悪が打ち滅ぼされ、神の支配が完成する。だから、その日に備えて準備しなさい。かつて、救い主が誕生した日を思い起こし、もう一度来られる時に備えなさい。

 

 しかし、再三言ってきたように、私たちはその日の準備がなかなかできません。一般の家庭でさえ、クリスマスに向けて慌ただしく過ごしています。

 

 まだクリスマスカードを書いてない、あの子へのプレゼントもできてない、仕事が終わる目処はつかず、行事が重なってイライラしてくる。

 

 正直、浮かれて過ごすどころじゃない。受験生は勉強が終わらない、就活生は内定が決まらない、子どもたちは劇や合唱の練習に追われ、大人は孤独か忙しさを抱えている。

 

 素敵なクリスマスを迎える準備、完璧にできているという人は、実はほとんどいないでしょう。この時期を順調に過ごせる人は、おそらく少数派だと思います。

 

 この世の終わり、人生の終わり、神の国の完成に向けて歩んでいる信仰者も、ほとんどの人が順調ではありません。ある人に意地悪してしまった、暴言や嘘を吐いてしまった、困っている人を無視してしまった、悪事を容認してしまった。

 

 過ちを反省して悔い改めたのに、また罪を繰り返してしまった。勇気を出そうと決めたのに、何一つ変えることができなかった。今度こそ行いを正そうと思ったのに、いまだ怠惰を貪っている……

 

 逆境の中、困難の中、苦しみに耐えて頑張っている人、忍耐強く努力している人は、終わりの日に訪れるイエス様にも、きっと受け入れてもらえるでしょう。

 

 しかし、私はどうでしょう? 「見よ、その日が来る。炉のように燃える日が、高慢な者、悪を行う者は、すべてわらのようになる」「到来するその日は」「彼らを燃え上がらせ、根も枝も残さない」「彼らは足の下で灰になる」……再臨の準備ができてない私は、やはり捨てられるんでしょうか?

 

【準備ができてない者】

 主の日について語った預言者、マラキが活動を始めたのは、紀元前5世紀後半と言われています。マラキ(マルアーキー)というのは「我が使者」という意味の言葉で、もしかすると名前ではなく、無名の預言者に、神様が語らせた言葉なのかもしれません。

 

 彼の言葉によれば、イスラエルはペルシャの総督によって支配されており、既に国家を滅亡させたバビロンから解放された後でした。

 

 長年待ち望んでいた故郷への帰還がついに許され、破壊された神殿の再建も行われ、そこでの祭儀、礼拝も再開されています。荒廃した故郷で物資も人手も足りない中、人々は何とか元の生活を取り戻そうとしていました。

 

 ところが、マラキ以前に活動していた預言者ハガイから「神殿を再建すれば民の生活も良くなるだろう」と約束されていたにもかかわらず、人々の苦難は去りませんでした。

 

 相変わらず生活は苦しく、神様は本当に信じる者、従う者に救いをもたらしてくれるのか、人々に疑いが芽生えていました。

 

 このとき、神様の正義を疑った人々というのは、決して「いい加減な者」「気持ちの移ろいやすい者」ではありませんでした。

 

 マラキ以前のハガイやゼカリヤの言葉を読めば分かるように、多くの者は自分たちの生活を安定させることが優先で、神様を礼拝する準備、神殿を整えることは後回しになっていました。

 

 その中で預言者たちの言葉を聞き、干ばつや飢饉、苦しい生活を耐えながら神殿再建に携わった人たちは、色んな不満を抱えながらも、こつこつとがんばってきた人たちです。

 

 しかし、苦しい中、忙しい中、礼拝を守っている人たちも、ところどころ手を抜いてしまうことがありました。

 

 たとえば、目のつぶれた動物を献げ物にしてしまったり、足が傷ついたり、病気で食べられなくなった動物を祭壇にささげたりしていました。

 

 それは、ペルシャの総督に対してなら、献上することのない代物でした。しかし、再建した神殿に集まってくる人たちは、真面目に礼拝しているつもりでした。

 

 みんな苦しい生活の中で、献げ物を用意してくる。元の生活を取り戻すのに必死で、神様にささげる犠牲やパンを、いちいち見直していられない。

 

 本来は、これらの献げ物がふさわしい形になっているか、チェックするのは祭司の役目でした。しかし、聖職者も大変だったのか、その機能が果たせていませんでした。

 

 目の前のしんどさに追われて、礼拝の備えも疎かになってる……ちょっと耳が痛くなりますね。建物の改築が終わっても、なかなか忙しさは変わらない。

 

 日曜日の朝、みんなバタバタと礼拝堂へやってくる。牧師の方も、週報とメッセージは朝できあがり、会衆は「まあ先生忙しいし、自分たちもバタバタだし……」と思ってしまう。

 

 正直、主の日の準備、再臨に備えて誠実に歩むことができてない私から、皆さんにこの話をすることは、かなり気が重いです。

 

 これまで聞いてきた「準備しなさい」という言葉は、誰よりも私に言われている気がします。しかし、準備ができてない自分の姿を自覚させられると、ますます足が止まってしまうんです。

 

【裁かれる者】

 神様は、私をどうするだろう? 再臨の日に、神の国に受け入れられる準備ができている者と、準備ができていない者に分けられるなら、私はできていない方だ。

 

 本当は誠実になりたいのに、堅実に清く生きたいのに、心が神様に向いてない。色んな誘惑に目を奪われ、様々な不安に襲われて、クリスマスも喜んで待ち望めない……

 

 しかし、下を向いている私に向かって、神様はこう呼びかけます。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」

 

 エリヤというのは、紀元前9世紀に登場した最初期の預言者と言われる人物です。神の子イエス・キリストが遣わされる前に、人々に神の言葉を伝え、悔い改めへと導いた先駆者たち。

 

 その筆頭にいる人の名前を挙げて、神様は私たちに「準備をさせる」と語ります。救いの準備ができてない者、心がわたしに向いてない者へ準備をさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように。あなたを滅ぼさないように。

 

 そう、神様は何度も、何度も、準備ができてない者へ語りかけてこられました。準備できないとうなだれている者たちへ、励ましと慰めを語ってきました。

 

 子どもが生まれるとき、泊まるところが用意できなかった夫婦のもとに、救い主は生まれました。献げ物を、何一つ用意していなかった羊飼いに、天使は救い主の誕生を告げました。エルサレムで、新しい王の誕生を歓迎できない人たちに、救い主の到来が知らされました。みんな用意ができていなくて、最初は恐れた人たちでした。

 

 私たちも、今ここで、「この世の終わりがやってくる」「再臨の主がやってくる」と聞かされたら、恐れずにはいられません。

 

 「ついにイエス様を迎えられる!」と喜べる人は、ほぼいない。「準備万端だ」なんて言える人もない。みんな「どうしよう?」「どうしたらいいんだろう?」と不安になってしまうでしょう。

 

 そんな準備できてない。今からでも備えたいけど、正直自信がありません。せっかく救い主が来られても、神の国が到来しても、私には迎え入れる準備、受け入れられる準備ができません。

 

 そんな心に、神様は何度も語られる。「あなたが準備できるように、私はいつも、導く誰かを遣わしている」

 

 私たちも恐れや不安や無力感で、何一つ用意できないとき、聖霊によって、神様の導きによって、準備する者へと変えられます。

 

 ぶっちゃけ、イエス様が遣わされるとき、救いの準備ができている者なんて、誰もいなかったんです。本来なら、みんな用意ができていなくて、滅ぼされるはずだったんです。

 

 でも、神様は「滅ぼしてたまるか!」と言わんばかりに、何度も、何度も「準備させる者」を遣わしました。

 

 預言者サムエル、ナタン、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、エゼキエル、そして12人もの小預言者……さらに、洗礼者ヨハネまで。これだけ多くの人が、準備できない者たちのため、私たちのために遣わされました。

 

 神様は意地でも私たちを救おうとされるお方です。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を受けるように。信じない者ではなく、信じる者となるように。

 

 異邦人にも、異教徒にも、売春婦にも、徴税人にも、裏切り者にも、見捨てた者にも、イエス様は訪れ、語りかけます。

 

 「わたしに従いなさい」「わたしについてきなさい」……私たちも、準備する者になりましょう。