ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『これが準備ですか?』 ヨハネによる福音書1:15〜28

聖書研究祈祷会 2019年12月18日

 

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【準備しなさいと言いながら】

 イエス様の誕生を祝うクリスマスまで、あと一週間になりました。この時期、教会ではイエス様の他にもう一人、男の子が生まれた話を聞くようになります。

 

 そう、イエス様が本格的に活動を始める前、人々に悔い改めの洗礼を授け、救い主の訪れを宣言した洗礼者ヨハネの誕生です。

 

 先ほど皆さんと呼んだ聖書箇所にも、大人になった洗礼者ヨハネが、人々にイエス様を受け入れる準備をさせた話が書いてありました。

 

 「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」

 

 そう言った翌日に、なんとイエス様へ洗礼を授けることになったヨハネ……彼もそうとう驚いたでしょう。

 

 「いやいや、昨日みんなに『わたしはこの方の靴紐を解く資格もない』と言ったばかりなのに、今ここで悔い改めの洗礼を授けるなんてとてもできない!」「わたしの方こそ、イエス様から洗礼を受けるべきなのに!」

 

 マタイによる福音書3章には、彼の戸惑いがそのまま記されています。自分の父親が、突然天使にお告げを受けたときと似ていますよね?

 

 訪れた相手の言葉が信じられず、受け入れられず、うろたえてしまう姿。救い主に洗礼を授けるという劇的なシーンなのに、彼の格好はつきません。

 

 人々に、イエス様の訪れを準備するよう語り続けていた彼も、実はそのとき戸惑った。不安と恐れにかられてしまった……

 

 意地悪な人がここにいたら、うろたえているヨハネに向かって、「先生、これが準備ですか?」「あなたもできてなかったですね」と指摘するかもしれません。

 

 他の人たちと同様に、ヨハネもイエス様の訪れをすぐに喜べませんでした。こういう言い方はよくないでしょうが、あまり男らしくありませんよね。

 

【黙らされる男たち】

 そう、クリスマスに救い主の誕生を喜んだ人としてすぐに思い出されるのは、主に女性たちの姿です。

 

 ヨセフとの結婚を前にして、神の子を妊娠したと天使に告げられたマリア。彼女の親戚で、もう老齢だったにもかかわらず、祭司ザカリアとの間に男の子を宿したエリサベト。2人の女性は子どもを身ごもったとき、高らかに神を賛美します。

 

 「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました!」「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです!」

 

 救い主イエス・キリストの誕生と、その道を準備する洗礼者ヨハネの誕生……その知らせを最初に喜んだのは、紛れもなく女性たちでした。

 

 周りにいる男性が、救い主の誕生を喜べるようになったのはずっと後。子どもが生まれてからでした。それ以前に、2人の女性が妊娠しているとき、この知らせを喜んだ男性は、聖書のどこにも出てきません。

 

 そう、クリスマスの知らせを受けて、神を賛美する女性たちが記される一方で、男性たちは沈黙し、喜べず、何なら黙らされています。

 

 普段、家父長制の男性中心主義社会で、活躍を許されず、黙らされる女性が多い中、救い主の誕生には、男性がしゃべる機会、活躍する機会がほとんど与えられません。

 

 いつもと逆ですよね。クリスマスって、格好のつかない男性が、けっこう登場するんです。

 

 マリアの夫ヨセフは、妻と違って一切の発言が出てきません。知らないうちに、婚約者が妊娠したのを知って、ひそかに別れようとしていたところ、夢で天使のお告げを受けて、言われたとおり彼女を妻に迎え入れる。

 

 マリアが救い主を身ごもったと知って、喜ぶことができたのか、それとも渋々受け入れたのか、私たちには分かりません。

 

 戸惑いながらも「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えた妻と違って、彼は天使に一言も返せませんでした。ただ、言われるままに行動した。

 

 エリサベトの夫ザカリアは、老齢の自分たちに子どもが生まれると聞いて、最初、天使の言葉が信じられません。

 

 長年子どもが欲しいと願ってきたけど、私も妻も老人だ。子どもができる体じゃない。いったいどうして、男の子が生まれると分かるだろうか? そんな彼の反応を見て、天使はザカリアの口を塞いでしまいます。

 

 「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる」……高齢の妻のお腹が膨らんでいくという大事件の中、彼は一言も発せません。

 

 エリサベトを励ますことも、力づけることもできません。周りに何が起こったか、説明することもできなくなる。しかも、しゃべれなくなった以上、祭司という仕事もこなせない。

 

【恥でいっぱいの物語】

 神様が送る聖霊の力によって、息子が生まれることになった男性たち。一人は、無垢な婚約者を信じられず、ひそかに別れようとした。一人は、天使の言葉が信じられず、口を塞がれてしまった。

 

 なかなか格好悪いですよね。彼らにはぜひ、生まれてきた子どもの父親として、挽回してほしいと感じます。

 

 せめて、父親の役割をしっかり果たし、体面を取り戻してほしい……しかし、彼らはこの時代、この地域で、父親の基本的役割とされていた「子どもに名前を付ける」ということさえできません。

 

 2人とも、生まれてくる子どもにどういう名前を付けるか、天使に命じられていたからです。ヨセフは息子を「イエス」と名付けるように、ザカリアは息子を「ヨハネ」と名付けるように、既に定められていた。

 

 自分の息子に名前を付ける。そこに、自分の意志を反映できない。本当は自分で名前を付けたいのに、親戚やよく分からない偉い人から、「こういう名前をつけなさい」と命じられる。それに逆らえない自分。ますます、自分が情けなくなりそうです。

 

 クリスマスの出来事は、世の男性たちにとって、パートナーを正しく受けとめられなかった自分、うまく挽回できない自分、言葉と行動が一致しない自分の弱さを思い起こさせる話です。ロマンティックなんてとんでもない! 恥ずかしさでいっぱいの物語。

 

【新しい命に変えられる】

 しかし、私たちは知っています。聖書の続きを読めば、それまで正しく応答できず、主体的に行動できなかった彼らが、自ら神を賛美して、家族を守り、人々へ教える者になったことを。

 

 ヨセフは、子どもの命がヘロデに狙われていると知ったとき、迷わず天使の言葉に従って、遠いエジプトまで家族を連れて旅立ちました。

 

 しがない大工に過ぎない男が、言葉も分からない外国の地へ、家族を連れて出発する。しかも、エジプトといえば、かつて自分たちイスラエル人を奴隷にしていたところです。

 

 不安と恐怖が湧き上がる場所……そこへ迷わず家族を連れていく。もはや「流されて」できる話ではありません。思い切って決断しないとできない行動。かつて婚約者を信頼できなかった男は、天使の指示を信頼し、迅速に家族を守る父親になります。

 

 ザカリアは、生まれてきた男の子に「ヨハネ」と名前を付けた瞬間、それまで塞がれていた口が開き、高らかに神を賛美し始めます。彼は聖霊に満たされ、自分の子どもが、救い主の道を整え、人々に罪の赦しによる救いを告げると宣言します。

 

 もはや、老夫婦に子どもが生まれるという知らせ以上に大胆なこと、大それたこと、信じられないことを、自らの口で宣言するんです。

 

 クリスマスに、沈黙し、黙らされ、子どもに名前が付けられなかった2人の男は、新しい命の誕生と共に、恥や恐れから解放されていきました。

 

 やがて、ザカリアとエリサベトから生まれた洗礼者ヨハネも、最初はうろたえていたものの、イエス様に洗礼を授け、そこに聖霊が降っていった様子を、人々へ知らせるようになっていきます。

 

 人々に「救い主を迎える準備をしなさい」と語りながら、自分もうまく迎えられなかった彼が、新しく道を整える者となるんです。

 

 救い主は、信頼も勇気も持てない者、臆病で情けない者のところへ、赤ん坊の姿でやって来ました。

 

 本来なら、王の守り手として選ばれない、期待されない人たちに、あなたが私を守ってくれ、私を迎える準備をしてくれ、とお願いしました。

 

 あと一週間で、そのクリスマスがやって来ます。戸惑い、うろたえ、震えて迎える私たちに、この赤ん坊の産声が力強く響きますように。