ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『後から来るのに先にいる?』 イザヤ書40:25〜31、ヨハネによる福音書1:14〜18

礼拝メッセージ 2020年1月5日

 

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【矛盾した言葉】

 「後から来るのに先にいる」……明らかに矛盾した言葉がメッセージのタイトルにつけられているのを見て「おいおい何だ?」と思った方も、いるかもしれません。

 

 さっき、朗読された聖書を読んでお気づきになったとおり、このタイトルは、ヨハネによる福音書に出てきた洗礼者ヨハネの言葉から付けています。

 

 「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである」……何だか妙な言葉ですよね。

 

 自分より後から来た者が、自分より先にいることなんてありえない。いったい何を言っているんでしょう?

 

 洗礼者ヨハネといえば、イエス様より先に生まれて、人々に悔い改めのバプテスマを授け、救い主を受け入れるよう準備してきた人物です。

 

 クリスマス前のアドヴェントには、イエス様の母マリアが受胎告知を受けたとき、既に彼女の親戚であるエリサベトが、ヨハネを身ごもっていたと聞きました。

 

 聖書のどこを見てみても、ヨハネより先にイエス様がこの世に生まれていたとは出てきません。

 

 ヨハネ自身、「わたしの後から来られる方」が「イエス様である」と、何度も人々に語っています。それなのに「わたしよりも先におられた」と言う……ちょっと混乱しますよね。

 

 あまり関係ないですが、私はこの話を聞くと「双子で生まれてきた兄弟のどっちが兄で、どっちが弟か?」という議論を思い出します。

 

 現在は法律上、生まれてきた順番で長男・次男を決めますが、昔は後から生まれてくる方が、先にお母さんのお腹にいたと考えられ、先に生まれてきた子が次男、後から生まれてきた子が長男と言われていたそうです。

 

 実際には、生まれてくる順番とお腹にできた順番は関係ないと思いますが、なかなか面白いですよね。後から生まれてきたのに、お母さんのお腹には先にいた……「後から来るのに先にいる」というイメージが、どうもこの話と重なっているように感じます。

 

 そう、イエス様が人としてこの世に生まれてきたのは、ヨハネよりも後のことでしたが、イエス様はこの世界が創造される以前から、既に神様と共にいたことが福音書の冒頭に書かれています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

 

 キリストは神の言として、私たちが生まれる前から存在していた。その言が受肉して、マリアとヨセフの間に生まれてきた。

 

 洗礼者ヨハネは、自分が生まれてくる前から神様と共におられたイエス様が、自分の生まれてきた後でこの世に生まれ、これからみんなのもとにもやってくると語ります。その方は、「わたしよりも優れている」と。

 

【先にいた意味】

 ただ気になるのは、彼の言葉を聞いて、いったいどれだけの人がイエス様を救い主として受け入れたのか……

 

 イエス様を「神の言が受肉した存在」「天地創造の前から神と共におられた方」「父なる神の独り子」である、と理解できたのか……疑問に感じてしまいます。

 

 実際ヨハネの方を、救い主メシアだと勘違いした人、エリヤの再来だと思った人、来るべき預言者だと考えた人が、あちらこちらに出ていました。

 

 ヨハネはその度に「違う、わたしはメシアではない」「エリヤでもない」「あなたたちが思っているような預言者でもない」と答えなければなりませんでした。

 

 「自分は、後からやってくるイエス様を人々が受け入れて、永遠の命を受けるよう、罪の悔い改めを勧めて準備する者だ」……旧約聖書を引用しながら説明しても、その時代の人々には分かってもらえませんでした。

 

 彼がなぜ、悔い改めのバプテスマを授けるのかも、多くの人は理解できていませんでした。

 

 また、ヨハネの言葉を聞いた人々が、すぐイエス様を受け入れたかと言えば、決してそうではありません。ヨハネからバプテスマを受け、その教えを聞いてきた人が、イエス様を素直に信じた……という話は、実はほとんど出てこない。

 

 かろうじて、もともとヨハネの弟子であったペトロとアンデレの兄弟が、イエス様に従う話が出てくるだけです。

 

 しかも、ヨハネはイエス様が本格的に活動を始めた頃、領主ヘロデに捕えられ、死ぬまで牢に閉じ込められてしまいます。

 

 本当なら、イエス様のそばに立って「この方こそ救い主メシアです」「この世に遣わされた神の子です」とみんなに伝えていきたいのに、まさにこれからというときになって、役に立てなくなりました。

 

 自分が先にいた意味は何だったのか、人々に語る意味があったのか、虚しくなったかもしれません。何かの始まりを準備していたのに、始まるそのときになって、自分は活躍できなくなる。みんなとスタートできなくなる。

 

 今日は、新年最初の日曜日です。新しい年に入って、これから何かをやろうとしている、まさに今、何かが始まろうとしている人も多いと思います。

 

 しかし、ちょうど始まろうとしているときに、それまでの準備が無駄になるような、今までの歩みが意味をなさなくなるような、虚しい事件、深刻なつまずきが皆さんを襲うこともあるでしょう。

 

 冬休みが終わっても、学校に行けないない子どもたち。年明けに気持ちを入れ替えたくても、鬱で動けない大人たち。新しいことを始めたくても、理解を得られない青年たち……

 

 一方で、周りはどんどん新しいスタートを切っていき、自分だけ置いていかれる気分になる。

 

【嘆きの言葉】

 最初に読んだ、イザヤ書40章25節から31節には、かつて苦しみに直面したイスラエルの民の嘆きが語られています。

 

 「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」……これほど八方塞がりなのに、神様は私を助けてくださらない。これほど理不尽な目に遭っているのに、神様は報いてくださらない。

 

 このまま何も変わらないのか? 新しい始まりは来ないのか? 私を助けてくれる神様なんていないのか?……そんな問いに対し、預言者はこう答えます。

 

 「あなたは知らないのか。聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。」

 

 「倦む」というのは、物事に行き詰まってどうにもできなくなることです。私たちがつまずいて、傷ついて、疲れ果ててしまったとき、勢いを失ってしまったとき、あらゆることが進まなくなり、悪い方向へ流されていくように感じます。しかし、私たちが行き詰まっているそのときも、神様の御業は進み続けているんです。

 

 洗礼者ヨハネが捕えられたとき、イエス様は人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝え始めました。

 

 表に出られないヨハネは、もう忘れ去られるかと思いきや、宣教を始めたイエス様に度々言及されていきました。ヨハネが勧めていたように、あなたがたも悔い改めなさい……そして、わたしに従いなさいと。

 

 ヨハネが牢にいた間も、行き詰まっていた間も、彼の語ってきた言葉は働き続け、イエス様の新しい弟子を増やしていきました。

 

 考えてみればイエス様自身の生涯も、はたから見れば行き詰まりの連続でした。故郷では受け入れられず、会堂からは追い出され、人々に理解されないまま、十字架につけられていきました。

 

 孤独、虚しさ、憤り……「自分は神に忘れられたのではないか?」という痛みをイエス様も受けていました。

 

 しかし、裏切られ、捕えられ、見捨てられ、殺されていくそのときも、イエス様は、神様の御業が進んでいると語ります。究極の行き詰まりである「死」さえも、神様のはたらきを止めることはできないんだと。

 

 その言葉どおり、十字架にかかってから三日後にイエス様は甦りました。大切な人を見捨ててしまい、弟子として歩めなくなっていたペトロたちに「あなたがたに平和があるように」「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と語り、新しいスタート、新しい始まりをもたらします。

 

【信仰を更新する】

 さて、今日は月の第一日曜日、聖餐式がある日です。12月は2回聖餐式があったので、また聖餐式か……と思われる方がいるかもしれません。

 

 もしかしたら、聖餐式は月に一度だけ行うもの……と皆さん思われているかもしれませんが、本来は毎週行うこと、できる限り機会を持つことが勧められています。

 

 なぜならこの食事は、私たちに永遠の命をもたらし、新しい始まりを与えられた主イエス・キリストを思い起こし、信仰を新たにする式だからです。

 

 かつて、この教会のルーツであるメソジスト教会の創始者であったジョン・ウェスレーは、こんな言葉を残しました。

 

 「不信仰の者は祈り、聖餐を受けるべきでしょうか。その通りです。求めなさい。そうすれば与えられる。もし、キリストが罪深い、助けようのない信仰者のために亡くなられたことを知っているならば、パンを食し、杯から飲みなさい」

 

 そう、この食事は信仰者のご褒美にもらうものではありません。私たちが、イエス様の十字架と復活を思い起こして、その憐れみと恵みに感謝する「応答」であり、失いかけた信仰を新たにするための共同体の営みです。信仰者が聖餐を受けないことは、恵みに対する応答を拒否することでもあるんです。

 

 今このとき、新しく歩み出すのが困難な人、神様に対する信仰が揺らいでいる人、自分は助けようのない者だと感じている人は、むしろ、この聖餐にあずかってください。

 

 ふさわしくない者がふさわしくされ、信じない者が信じる者にされていく。それがイエス様の制定された聖餐だからです。

 

 「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受け」てきました。だからこそ、もしも今、あなたがふさわしくない者、揺らいでいる者に気づいたなら、その方にも必要な変化が訪れるよう祈りましょう。

 

 ヨハネは、罪深い者が恵みを受けられないようにではなく、恵みにあずかれるように、悔い改めの洗礼を授けていきました。私たちも、ある人に恵みが与えられないようにではなく、共に恵みを分かち合えるよう願いたいと思います。

 

 後から来た者も先にきた者も、行き詰まった者も進めなくなった者も、神様は全ての人を招いています。イエス様にとりなしてもらった一人一人が、新しく誰かのためにとりなす者となれるように、今日も祈りを合わせましょう。