2020年1月8日
【報われない祈り】
報われるには、幸せになるには、いったいどうしたらいいですか?……多くの人が持っている切実な問い、魂の叫びに、ある人は簡単に答えます。
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」……信じて祈れば叶えられる。強く願えば成功する。
だから、とにかく幸せを願って祈りなさい。「だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」……聖書にそう書いてあるから、間違ったことは言ってない。
願いが実現しないのは、あなたの祈りが弱いから。あなたが望んでいないから。もっと大胆に、心から信じて口にすれば、望みは叶えられるはず!
そう言って、一生懸命願いを口に出させます。「幸せになりたい」「健康になりたい」「優雅になりたい」……けれども、望みが実現されなければ、今度は「感謝が足りない」と言われてしまう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」……あなたはそれができてない。願いは既に叶えられたと信じなさい。
そうすれば、本当に思ったとおりのことが起きるから。嫌なことは、あなたを成長させるため。苦しいことは、あなたを鍛え上げるため!
どんなことにも感謝して、いつも喜んで生きていれば、あなたは必ず報われる! けれども、何年経っても何回やっても、祈りは聞いてもらえません。
すると今度は「他人に優しくしてあげなさい」と言われます。あなたがやった善いことは、あなたのもとに返ってくる。善いことをすれば、良い結果を引き出せる。
そこで、なるべく周りに優しくし、苦手な人も我慢して、「良い人」になろうと努力します。ところが、かえって色んなことを押し付けられ、頑張ったことも空回りして、感謝どころじゃなくなってくる。
「感謝しなきゃ」「喜ばなきゃ」と言い聞かせて、ますます心が辛くなってくる。そもそも、私は何で頑張っているんだろう? 何を願っていたんだろう?
みんなから「良い人」に見られることを望んでいたんだろうか? この人は「成功する」と思われたくて祈っていたんだろうか? 周りから羨ましいと思われることを願っていたんだろうか?
自分の願い、自分の幸せそのものが、だんだん分からなくなってきます。
【幸せの法則?】
ここのところ、「引き寄せの法則」「成功法則」「ポジティブシンキング」という言葉が、スピリチュアルや心理カウンセラー、認定講師と呼ばれる人たちの界隈で、よく耳にするようになりました。
ひと言でいえば、「思いは実現する」という考えで、良い結果は良い思いが、悪い結果は悪い思いが「引き寄せた」という思想です。
ここまで言ってきた「祈りと報い」に対する考え方も、その思想が反映されています。もともとは「ニューソート」というキリスト教から外れたグループの思想ですが、今は色んなところで広がっています。
教会の中にも再輸入され、「どのように祈れば叶えられるか」「どうすれば幸せになれるか」を無意識に語っている人も多くいます。
神様から良い報いを受けるには、たくさん祝福を受けるには、どうすればいいか……何らかの「法則」を語るメッセージは、最近珍しくありません。
事実、こうやって成功した人がいる。願いが叶った人がいる。幸せになった人がいる。色んな体験談を紹介して、あなたもこうすれば幸せになるよと言ってくる。
幸せになれないのは、この教えが間違っているからじゃなくて、あなたの祈りが足りないから、あなたの思いに問題があるから……報われないのは、あなたのせい。
そういう自己責任を突きつけられ、自分の信仰は問題だらけ、自分はまだまだ未熟者と傷ついて、それでも感謝し、喜んで生きていこうとする。
控えめに言って「地獄」を生きている人たちがいます。もっと良い人にならなければ! もっと感謝をしなければ! もっとアピールしなければ!
ささげれば、ささげるほど返ってくると献金し、リーダーの指導に従って、自分の生き様をアピールする。「私はこんなに幸せです!」「もっと幸せになれるんです!」
厄介なことに、もともとキリスト教から外れたグループ発祥の思想なので、色んな聖書箇所ともマッチします。神様の教えっぽく聞こえます。
アジア・アフリカの地域では、これらの考えによって、祈り・繁栄・成功が結びついて、多くの教祖的リーダーが生まれています。これは聖書的な考えだと言われています。
日本の中でも、ミッション・スクールを出た学生たちが、引き寄せや成功法則の影響を受けた破壊的カルトに引き寄せられます。
【祈るときには】
報われたい、救われたい、幸せになりたいという純粋な思いが、こうして利用されていく……その一端を、聖書の解釈が担っている。
だから、今日はちょっと注意して、「報い」について考えたいと思うんです。マタイによる福音書6章には、有名な施しについての言及がありました。
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる」
これって恐ろしい言葉ですよね。他人の賞賛を求めて善いことをすれば、神様から報いをいただけない。自分の努力、自分の親切が無駄になる。なかなか冷酷な響きです。
しかし、違う捉え方をすれば、「報いを受けるために、人前でアピールする必要はないんだよ」という言葉にも聞こえてきます。
一生懸命、あなたがやったことをアピールしなくたっていい。幸せになるために、リーダーや先生に、自分ができたこと、できなかったことを報告する必要はない。神様は全部見ておられる。
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」
「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」
私はいつも喜んでいます! 神様に感謝しています! みんなの前で、そう見せる必要はない。祈って叶えられました! 願いが実現されました! そんなアピールも必要ない。
むしろ、奥まった自分の部屋で戸を閉めて、自分が本当に願うこと……喜べない状況や、幸せが感じられない現実を何とかして……と嘆きくような祈りをしてもいい。
「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。」
もう、そのまんまの言葉です。思いが実現されるように、なるべく具体的に、なるべくたくさんの言葉で祈り、神様に聞いてもらおうとする。聖書の言葉を引用しながら、自分の願いを伝えていく。
でも、そんなことしなくても、神様は最初から分かっています。あなたが願う前から、あなたに必要なものをご存じなんです。
みんなに羨ましいと思われたい。立派なステータスを築きたい。富と健康に恵まれたい……イエス様の弟子たちも、偉くなりたい、立派になりたい、財産を得たいと願っていました。
でも、彼らが得ていったのは、金や銀ではなく、ボロボロの服で躍り上がって、神様の恵みを喜ぶ仲間たちでした。
自分の境遇を理解し、ささやかな喜びを分かち合える。立派に見せる必要も、着飾る必要もない隣人たち……神様は必要なものを彼らに与え、彼らを満たしていきました。
自分の幸せ、自分の願いとは何か、そもそも知らずに、私たちは祈っているかもしれません。でも、「私が何を願っているのか、私の幸せが何なのか分かりません」と祈るときさえ、神様は私たちに必要なものをご存知です。それに向かって導かれます。
誰かに「あなたの幸せはこうすることです」と決めてもらう必要はありません。言葉になっていなくても、自分で分かっていなくても、神様は必要なものを与えようとしてくれます。
イエス様が弟子たちに教えた最も基本的な祈りは、現在、『主の祈り』として教会で毎週祈られます。
非常に素朴で、非常にシンプルな願い……「今日必要なものを今日与えてください」という祈り……報いを受けるのに必要な言葉があるとしたら、私はこれで十分だと思います。
そして、本当に必要なもの、本当に願っているものが何なのか気づいたときこそ、私たちは喜んで感謝できると思うんです。
報いが何か、幸せが何か、誰かに定義され、それに執着させられている状況からも、神様は解放しようとします。今、私自身が囚われているものから解放され、幸せが何か気づけるように、何が必要か悟れるように、静かに祈っていきたいと思います。