ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『もう誰にも頼れない』 ヨブ記23:1〜10、ヨハネによる福音書5:1〜18

礼拝メッセージ 2020年2月16日

 

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【無駄無駄無駄】

思う存分、私の言い分を述べたいのに、話を聞いてもらえない。訴えを聞いてほしいのに、何も答えてもらえない。両親に、先生に、同僚に、上司に、警察に、病院に、助けを求める……だけど、自分じゃ上手く話せない。相手にしてさえもらえない。むしろ、話せばかえって自分が責められ、頼るどころじゃなくなってしまう。

 

そういう経験をしてきた人は、だんだん話をしなくなります。辛いこと、苦しいこと、傷ついていることを言わなくなります。言っても無視され、あるいは叱られ、かえって暴力を受けたり、閉じ込められたりしてしまう。「助けて」と言うことそのものが、自分を惨めにしてしまう。

 

「もう誰にも頼れない」……皆さんもそう思ったことがあるかもしれません。ひどいときには「誰かに話す」「相談する」という選択肢さえ出なくなるので、最初から「自分一人が我慢する」「成り行きに任せて流される」という人もいます。だって、私の話を聞く人なんて、世界のどこにもいないから。話をしたって無駄だから。

 

かつて、この世の理不尽を嫌というほどぶつけられたヨブも、最初は神様に助けを求めて叫びましたが、だんだん自分の言うことは「一切聞いてもらえない」と思うようになりました。罪を犯さないよう注意深く生き、誠実に正しく過ごしてきたのに、災害に遭い、病に倒れ、子どもたちも全員死んでしまう。

 

慰めに来た友人にさえ、気がつくと責められている。「あなたが酷い目に遭ったのは、あなた自身に過失や罪があったからで、それを認めて前を向け」と。神様、あなただけは私の無実を知っています! 私の生き方を知っています! 私を責める人たちに、私の潔白を証明してください! この理不尽から救ってください! 

 

けれども、どれだけ神様に訴えても、沈黙だけが過ぎていきます。神の姿はどこにも見えず、答えてくれる気配もない。もはや神様に祈ること、訴えることに意味はない。いや、でも、私の話を聞いてくれたら、きっと助けてくれるはず!……諦めと期待を行ったり来たりし、ヨブはひたすら揺れ動きます。

 

「東に行ってもその方はおられず、西に行っても見定められない」「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」……最終的に、神様は長い沈黙を破って、ヨブの話を聞いてくれます。何もかも語り尽くされた後、全ての訴えを聞いていたことが明らかになります。

 

でも、ヨブは途中から、神様に話を聞いてもらうより、神様と対決する姿勢を見せていました。あなたは話を聞く気がないんでしょう? 何を言っても無駄でしょう? 私の訴えは正しいのに、私は間違っていないのに……「助けてください」「聞いてください」という言葉は、「あなたに頼っても無駄ですね」という言葉に変わっていきます。

 

そんな彼に神様が現れたのは、ヨブが何もかも語り尽くして、友人から言われるままになったときでした。どれだけ話しても、みんな聞こうとしてくれない。訴えても、反論しても意味がない。そう諦めたときでした。もはや話さなくなった彼に、神様は語り始めます。「私はあなたの訴えを聞いていた」「あなたの話を聞いていた」と。

 

【良くなりたいか?】

聖書を読んでいると、こんなふうに、助けを求めなくなった人、祈ることさえ止めた人が、けっこうあちこちに出てきます。初めはみんな、辛いこと、苦しいことがあると、すぐ神様に祈っていました。「主よ、この窮地から救ってください!」「わたしの叫びを聞いてください!」

 

けれど、繰り返し虐待を受け、抑圧を受け、自分を否定され続けると、人は助けを求めなくなります。イスラエル人も、何度も神様に助けられてきたことを忘れ、神に向かって叫ばなくなることがありました。一度や二度ではありません。「神の民」と聖書で言われる人たちさえも、祈れない日、祈れない時期がありました。

 

皆さんはどうでしょうか? ある時期までは必死に祈っていたけれど、状況はずっと変えられず、助けを求めても無駄じゃないか? むしろ期待するだけしんどくなる……と思うことがないでしょうか? 私にはあります。家族が心の病になったとき、身内が天に召されたとき、恋人と別れてしまったとき、祈ろうとさえ思えないことが度々ある。

 

祈ったところでどうなるのか? 病が治ってもまた悪化する。死んだ人とはもう会えない。復縁はたぶん許されない……「良くなりたい」と願っても、そんなの聞いてはくれないだろう。馬鹿な願いだと言われるだろう。大人になれ、身の程を知れと言われるだろう。こんなこともう祈れない。

 

そんなとき、一つの出来事が思い出されます。「ベトサダ」という池でイエス様と出会った、とある男の話です。ベトサダには、5つの回廊があり、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢横たわっていました。どうも、「その池の水が動いたとき、最初に池へ触れた人が癒される」という言い伝えがあったようです。

 

そこに38年も病気で苦しんでいる人がいました。38年、彼は池の近くに身を横たえ、水が動くのを待っていました。しかし、水が動くと、他の人が先に池へ入り、自分はいつも水に触れることができませんでした。

 

周りもみんな、一人じゃ動けない人たちです。付き添いの家族や友人が、水の動いた瞬間に池へ入らせていたんでしょう。でも、彼にはそういう人がいませんでした。38年、誰も彼のために動かなかった。「誰か池の中へ入れてくれ!」そう叫んだことが、きっと何回もあったでしょう。でも、彼のために動いた人はいなかった。

 

みんな自分の身内のことで精一杯だったのかもしれません。でも、池に入って癒された者たちの中でさえ、彼のために「次はあの人を池に入れてあげよう」と言いだす人はいませんでした。38年間、誰も……同じ病院で手術の順番を待つ患者同士も、しばらく衣食を共にすれば、隣人の回復を願います。

 

「次はあの人も癒されますように」……でも、彼にはそんな隣人ができません。嫌われていたのかもしれません。いつまで経っても池へ入れないことにイライラし、大声を上げたり、罵倒していたのかもしれません。近づきがたい相手だったのかもしれません。続きを読めば分かりますが、彼は決して、人格的な人間ではありませんでした。

 

助けてくれた人を庇うどころか、告げ口をして恩を仇で返すような男でした。心が歪んでいたのかもしれません。そんな中、イエス様はこう聞いてきます。「良くなりたいか?」そんなの決まっているでしょう? 良くなりたくないわけがない! だけど、誰にも訴えを聞いてもらえなかったこの男は、素直に「良くなりたい」とは言えません。

 

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」……みんなが悪いんです。誰も助けてくれないんです。だから私は癒されません。どうせこのまま、願いは聞いてもらえないんです。あなたもきっと冷やかしでしょう? 38年、私は放って置かれてきたんだ。

 

【その訴えを聞いている】

もう誰にも頼れない。頼ったところで虚しいだけ。期待をすれば苦しいだけ。男は助けを求められず、祈ることさえできません。手を差し伸べる相手にも、信頼することができません。けれど、そのとき、イエス様は言うんです。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」

 

思ってもみないことが起きました。彼はその場で癒されます。すぐ良くなって、床を担いで歩きだす……こんなの想像していませんでした。「助けて」と言うことさえできなかった、素直に信頼できなかったのに、イエス様は彼の訴えを聞くんです。「たとえ、あなたが私に求めなくても、願いを口にできなくても、私はあなたの訴えを聞いている。魂の叫びを聞いている……」

 

周りから見れば、この人が癒されるのは不思議だったかもしれません、38年、放って置かれた男のことを、周りはどう評価していたか……彼のために祈る人、憐れむ人さえいなかったかもしれない。ヨブのように、彼自身に過失や罪があるからこそ、癒されないんだと思われていたかもしれません。

 

事実、自分の恩人が誰なのか、男は分かっていませんでした。せっかく助けてもらえたのに、それが誰なのか知ろうともしなかった。感謝も言っていなかった。人とのコミュニケーションが、ちゃんとできる者では決してなかった。38年、孤独の中で、彼は壊され続けてきたからです。

 

けれども、イエス様は安息日の規定を破ってまで、自分が訴えられる危険を冒してまで、この人のことを癒しました。「良くなりたい」と自ら口にできない人も、怒りや不信に満ちた人も、イエス様は自分の民として助けに来ます。「あなたの訴えを聞いている」と語りかけます。

 

もう誰にも頼れない。たとえイエス様がここにいても、私の話は聞いてくれない。今ここで、そう思っている人がいたら、あなたはこう命じられるのにふさわしい人です。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」……信じない者を信じる者に、死んでいた者を生きる者に、悲しむ者を喜ぶ者に変えられる主と、あなたが出会えますように。