ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『やめさせようとしなかった』 ガラテヤの信徒への手紙2:1〜10

聖書研究祈祷会 2020年2月12日

 

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【容認できない人?】

同じ目的、同じ使命を持っていても、何らかの理解が異なるゆえに、一緒にやっていくのが困難な相手は、世の中いくらでも出てきます。同じ部活をしていても、勝敗を重視するか楽しさを重視するかで、割れてしまう仲間もいるでしょう。同じ教師をしていても、伝統を重んじるか生徒の挑戦を重んじるかで、反目する仲間もいるでしょう。

 

教会だって同じです。ある人にとって、聖餐の理解が異なる人は、一緒に礼拝へ出るのが非常に困難な相手です。このパンと杯を単なる象徴と捉えるのか、キリストの体と血に変化したものと捉えるのか、あるいはキリストがここに居られる食事と捉えるのか……イエス様が定めた聖餐を大事にするからこそ、譲れないものがあるわけです。

 

過去の宗教改革者、ルター、カルヴァン、ツヴィングリ、そしてウェスレーに至るまで、聖餐理解の違いは互いに大きな溝をもたらし、一緒に聖餐式が行えないという事態まで引き起こしました。同じ信仰を持つ者同士が、キリストの十字架と復活を共に祝えなくなってしまった……。

 

また、ある人にとって、洗礼のやり方が異なる人は、同じ信徒と認めることが非常に困難な相手でした。自らの口で信仰を告白しなければ洗礼とは認めないか、親や信徒のとりなしによって幼児洗礼を認めるか。あるいは、全身を水に沈ませなければ認めないか、頭に水を垂らしただけで良しとするか……

 

キリストに罪を洗い流され、新しい命に生かされるという決定的な出来事を重視するからこそ、譲れないものがあるわけです。

 

そして、初代教会の人たちにとって、福音の理解が異なる人は、一緒に伝道するのが非常に困難な相手でした。「無割礼でも救われる」と明言した福音を語るか、「無割礼でも救われる」と明言しない福音を語るかは、両者にとってかなり大きな問題でした。

 

割礼とは、男性の包皮の一部を切り取ることで、改宗した人も「神の民」となったことを証しするよう律法で求められていたことでした。ガラテヤの信徒への手紙を書いたパウロの時代、イエス様を信じるようになった異邦人にも、一部強制していた教会があったようです。

 

神様から与えられた掟として、これまで受け継いできた律法を大事にしたいと考えるか、人を分け隔てせず招かれる神様の愛を重視するか、それぞれ福音について真剣だからこそ、譲れないものがありました。

 

【現代の割礼とは?】

パウロが書いた手紙の中には、度々、割礼や食物規定を守らせようとするユダヤ人キリスト者が出てきます。彼らは、本当に悔い改めて自分たちと同じ神様を信じた異邦人なら、その証を見せるべきだと考えたのかもしれません。

 

本当に信仰心があるなら、大切なものを捨ててみなさい。本当にキリストを受け入れたなら、痛みを我慢して見せなさい。本当に神様を信じたなら、我々と同じライフスタイルになりなさい。服装も、仕事も、食事の仕方も、私たちが受け入れられる、納得できるやり方に直しなさい。そうでなければ、あなたは同じ仲間と認められない。

 

こう聞くと、横暴に見えますが、実は私たちが自然にやりがちなことでもあります。地毛が茶髪の生徒に対し、真面目なら黒に染め直せと指示してしまう先生たち。外では普通のことなのに、礼拝では肩の出る服装で来た人に怒ってしまう信徒たち。同性愛者、性同一性障害の人が、婚姻関係を結ぶのを認められないキリスト者。

 

本当に真面目なら、本当に真剣なら、本当に信じているなら、私たちと同じ、私たちが受け入れられるやり方に直しなさい……そう求めてきた歴史があります。かつて、イエス様の弟子たちも、キリストの名によって活動する人たちに、自分たちと同じようになることを求めました。

 

あるとき、ゼベタイの子ヨハネは、イエス様にこんなことを呟きます。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちと一緒にあなたに従わないので、やめさせようとしました。」

 

弟子たちからすれば、「イエス様の名前を使っているのに、自分たちと一緒についてこないのはけしからん!」「イエス様についてこないで、他の場所で活動するなんて間違っている」という思いだったのかもしれません。「勝手に名前を使われて、イエス様も怒るだろう」と考えたのかもしれません。

 

けれども、イエス様はこう言います。「やめさせてはならない。あなたがたに逆らわない者は、あなたがたの味方なのである」……イエス様は、自分の名前によって悪霊を追い出し、病人を癒す人たちが、弟子たちとは違う場所、違うやり方で活動することを止めてはならないと言いました。

 

「あなたたちとやり方は違っても、彼らはわたしに連なるあなたたちの仲間なんだ」と言ったんです。

 

【右手を差し出す人】

パウロも、イエス様を信じた異邦人に対して、ユダヤ人と同じ割礼、同じ食事、同じ生き方をしなくても、みんな仲間だと言いました。神は人を分け隔てせず、ただ、信仰によって救われる。我々ユダヤ人と同じ、我々の受け入れやすいライフスタイルになることが、救いの条件では決してないと言いました。

 

そして、「無割礼でも救われる」という福音を宣べ伝えていくパウロたちと、エルサレム教会の人たちも、互いに手を取って伝道しました。これは驚くべきことです。福音理解の異なる人がそれぞれいたにもかかわらず、一緒に手を取って伝道した。その「おもだった人たち」というのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが中心人物でした。

 

そう、「自分たちに従わないから」という理由で、イエス様の名前を使って悪霊を追い出していた人たちをやめさせようとしたあのヨハネも、パウロとバルナバへ右手を差し出し、共に伝道していこうという姿勢を示したんです。

 

自分たちと異なる姿勢の相手に対し、度々過激な態度をとってきた人が、イエス・キリストの名のもとに一致するようになったんです。

 

今現在、私たちも自分にとって大事な理解、譲りたくない態度や姿勢と異なる人たちが存在します。「彼らと一緒にやっていくのは無理」と感じてしまったときこそ、この出来事を思い出したいと思います。