ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『正体隠しちゃダメでしょう?』 ヨハネによる福音書8:21〜38

礼拝メッセージ 2020年2月9日

 

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【信じなければ死ぬ?】

「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」……神の子イエス・キリストが人々に語っていることは、ときどき訳が分かりません。信じなければ死ぬ! 非常にシンプルな脅しに聞こえる言葉ですが、肝心の何を信じろと言われているのか、初めて聞いた人たちも分かりませんでした。

 

「わたしはある」ということを信じろ? そうですね、確かにあなたはここにいます。目の前に立っていますから。信じるまでもありません。もしもこの場面に私がいたら、思わず怪訝な顔をしたでしょう。いったいこいつは何なんだ?……事実、その場にいた人たちはこう言いました。

 

「あなたは、いったい、どなたですか?」……何か偉そうに話しているけど、どこから来て、何の目的で、こんなことを言っているのか? いい加減教えてくださいよ! ところが、イエス様は、はぐらかすような返事をします。

 

「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している」

 

「初めから話している」と言いつつ、イエス様は自分の正体について、きちんと答えてはいませんでした。今までも、「わたしは世の光である」とか、「わたしは天から降ってきたパンである」とか、訳の分からないことを言っていました。

 

「わたしはこの世に遣わされた神の子だ」「救い主だ」とは言いませんでした。人々に信じることを求めながら、その正体を伏せたまま、ずっと隠してきたんです。こんなのあまりよくないですよね? 自己紹介もちゃんとせず、「私が誰かを悟って信じなさい」と言うんです。

 

少し前の7章でも、イエス様は実の兄弟にこんなことを言われていました。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」

 

【これじゃあカルト?】

彼らの言うことはもっともです。宗教団体が正体を隠して活動すれば、破壊的カルトのやっていることと変わりません。周りの者に「私が救い主だ」と直接言わないで、関節的にそう信じるよう誘導するのも、健全なやり方とは言えません。事実、そうした反キリストのリーダーも存在しています。

 

正体隠しちゃダメでしょう? それじゃあ神の子だって伝わらないし、まともに伝道もできないし、みんなもついていけないじゃないですか? それなのに、イエス様は「自分を信じなければ死ぬ」と言ってくる。こんなのあんまりです。ちょっと文句を言いたくなります。

 

でも実は、イエス様が「わたしは◯◯である」と言ってきた言葉の数々は、旧約聖書に親しんでいる人であれば、誰でもその意味が分かるはずの言葉でした。「わたしはある」という言葉……これは、有名な出エジプト記3章で、神様がモーセに自己紹介をするときの台詞です。

 

「わたしはある。わたしはあるという者だ」……ユダヤ人で、この場面を知らない者はいませんでした。「『わたしはある』ということを信じなさい」と言えば、イコール「わたしは神の領域に属する者だと信じなさい」という意味です。けれども、それを信じない者は、自分の罪のうちに死んでしまう。

 

ところが、なんとこのとき、弟子たちを含め、イエス様を「神の子だ」と心から信じている者は、一人もいませんでした。口では「あなたは神の聖者です」と言いながら、本当にこの方が自分の罪を取り除き、永遠の命を与えてくれるとは、弟子たちも思えなかったんです。

 

【信じられない者に】

私たちもそうですよね? 自分の罪が赦されるとは、どこか信じ切れないでいる。繰り返し嘘をついてしまう。何度も人を傷つける。不正を見逃し、困った人を無視して、自分を守ることばかり考える。この生き方が変えられるとは、正直なかなか思えない。過ちを繰り返す日々は変わらず、自分は汚いままだろう。

 

この性格は治らないし、過去を変えることはできないし、あの人との関係は回復しない。どうしようもない私自身から、私が自由になれる日は来ないだろうと思ってる……せいぜい、ちょっと助けてくれる人、自分にアドバイスをくれる人が、身近に現れたらいいなと思うくらい。

 

イエス様がいた時代も、人々が期待していたのは、病を癒し、教えを語り、自分に足りないものを補ってくれる人でした。自分の人生を根本から変えてくれることなんて、ほとんどの人が期待さえしていませんでした。だって、そのためには社会全体を変えるほどの大きな力が必要でしたから。

 

貧しさゆえに、神様に献げ物をできないでいる。生きるために娼婦をしているから、律法を破らざるを得ない。徴税人で食べているから、人々に嫌われ続けている。病気のために、家族を養うこともできない……自分は正しい枠組みを外れ、健全な生き方から離れている。そして、この状況を覆すことは不可能だ。

 

ところが、イエス様と出会った人々は、その生き方を根本から変えられて生きました。身を寄せるところのなかった娼婦はイエス様の弟子になり、家族と離れていた病人は自分の家へ帰っていき、徴税人だった男は仕事を捨てて、イエス様についていきました。

 

「信じなければ死ぬ」と言われていたにもかかわらず、イエス様を見捨てた弟子たちは、復活の主と再会し、新たに従う者となりました。「わたしは決して信じない」と語っていたトマスさえ、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する者に変えられます。

 

イエス様は、信じない者をほっておかれず、信じる者に変えられます。長年自由になれなかったところから、人々を自由にしていきます。

 

「わたしはある」「わたしは世の光である」「わたしは命のパンである」「わたしは道であり、真理であり、命である」……イエス様が、神の子である自分の正体を隠しているような表現は、よく見ると、「わたしはあなたに関わる神である」という宣言でもありました。あなたを照らし、あなたを満たし、あなたの進んでいく道を整える。

 

「わたしはあなたを新しくする者だ」……礼拝は、このことを証しする場所です。イエス様が、あなたに関わり、あなたを癒し、あなたを変えていくことを、私や私と共にいる人が、一緒に伝えていく場所です。そして、新しくされたあなた自身も、キリストを証しする者として、この世へと送り出されます。

 

キリストの平和の使者として行きなさい