礼拝メッセージ 2020年2月19日
【カルトっぽい記述】
華陽教会では、日本キリスト教団出版局から出ている『信徒の友』の「日毎の糧」に沿って、祈祷会の聖書箇所を選んでいますが、実は今月の「新刊案内」に、私の書いた書評が載っています。既に知っている方もいるかもしれませんが、『「カルト」はすぐ隣に』という本についての書評です。
有名なオウム真理教の問題を追及してきたジャーナリスト、江川紹子さんが書いた新しい本で、カルトに引き寄せられ、犯罪に至った人たちの証言を分かりやすく紹介し、自分の人生を奪われないためどうすればいいか、一緒に考えさせてくれます。
その中で、オウム真理教をはじめとする破壊的カルトが、しばしば信者に対し、「自分をなくして、教祖のコピーになれ」と教育していることが言及されていました*1。これを読んで、思わずドキッとしたクリスチャンもいると思います。
なぜなら、イエス様も「わたしにならいなさい」と繰り返し弟子たちを教育し、弟子たちも信徒に「キリストのようになる」ことを勧めてきたからです。
さすがに「コピーになれ」と露骨には書かれていませんが、「キリストを着る」などの表現を使って、自分を脱ぎ捨て、リーダーと同じ思考・行動になるよう導いているように見える箇所も出てきます。
実際、先ほど読んだガラテヤの信徒への手紙では「あなたがたもわたしのようになってください」と命じる教会のリーダー、パウロの言葉が載っていました。そう言えば、パウロ自身も、度々手紙の読者に対し、「わたしにならいなさい」と言っていました。かなり上から目線に聞こえます。
あれ、これってもしかしてカルトと同じ?……そう不安になったところで、パウロはさらに続けます。「あなたがたは……わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくださいました」と。おっと……教祖に従う熱狂的な信徒の群れを形成しているかのようです。恐ろしい言葉はまだ続きます。
「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してでもわたしに与えようとしたのです」「わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます」……やっぱりすごく教祖っぽい発言ですよね。
ちょっとした誇張表現と思いたいですが、これだけ頻繁に出てくると心配になります。そこまで言う? 大丈夫? とパウロに確認したくなります。
【キリストのようになる】
もしかしたら、ガラテヤの教会は相当パウロの権威が強かったのかもしれない。信徒一人一人の自主性よりも、リーダーに従うことが重視され、パウロの言うことに従わない者は、共同体から排除されるヒエラルキーの強い団体だったのかもしれない。そうなると、やっぱりカルトと言われても仕方のないような気がします。
実際、初期のキリスト教会は様々な問題を抱えていました。しばしば熱狂的になり、現在の破壊的カルトと同様の傾向を持つこともありました。しかし、教会は破壊的傾向が強くなる度に、軌道修正する力も与えられてきました。
「待て待て、これじゃ律法主義と同じじゃないか?」「神への信頼よりも人間の権威に従ってないか?」そう訴えて注意をし、健全化を促す人たちが、何度も、何度も立てられました。実はパウロ自身も、教会が熱狂的になりすぎないよう、指導者が暴走しないよう、信徒に注意を促してきた一人でした。
そう言えば、パウロの書いた手紙の多くは、彼に従った人よりも、従わなかった人の方が、圧倒的に出てきます。その人たちに対し、辛抱強く対処するよう、信徒一人一人に勧める言葉も出てきます。実際、彼は伝道においても、強権的な指導より、へりくだった態度で臨むことを求めていました。
「わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。
律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです……」
コリントの信徒への手紙一9章19節の有名な一節は、皆さんも聞いたことがあるでしょう。彼は、律法を持たない異邦人に対しては律法を持たない異邦人のように、弱い人に対しては弱い人のようになりました。自分を大きく見せるより、様々な問題を抱えた人たちと同じようになって、キリストの教えを伝えることを望みました。
「キリストのようになる」とは、まさに「一人一人の人格に寄り添う生き方」でした。パウロは、一方的に「わたしのようになりなさい」と言ったのではなく、「わたしもあなたがたのようになった」ことを思い出しなさい、あなたも人に寄り添う生き方へ変えられなさいと言ったんです。
【排除と招き】
この手紙が書かれた当時、ガラテヤの教会には、「律法を遵守できなければ救われない」という主張が語られるようになっていました。掟を守れなければ救われない、病や怪我、不幸に襲われ滅びに至る……だから、細かい規定をしっかり守ろう! そんな思想が広がっていました。
それは「すべての人は行いによってではなく、信仰によってのみ救われる」というパウロの教えと相反するものでした。だからこそ、パウロはガラテヤの人たちに、「わたしに良くしてくれた最初の頃を思い出しなさい」と呼びかけます。
パウロはガラテヤで伝道を初めて間もなく、何らかの病にかかりました。かつて、「病気は体に悪霊が取り憑くことによってもたらされる」と考えられていた*2ため、教会のリーダーが病気になるのは、伝道において致命的なことでした。
牧師である私の父がうつ病を患ってしまったときも、内心、「神にすべてを委ねる宣教者が心の病になるなんて!」とつまずいた人がいるかもしれません。神の使命を受けている人間が病になるとは、一歩間違えれば、神に背いた証、偽物であることの証明とも思われてしまうからです。
下手すれば、パウロは「神の使い」どころか「サタンの使い」であるかのように扱われる可能性もありました*3。ところが、ガラテヤの人たちは思いやりをもってパウロに接し、むしろ、彼が「キリスト・イエスででもあるかのように」受け入れてくれました。
彼の中には、マタイによる福音書25章40節でイエス様が話されたこの言葉が思い浮かんでいたかもしれません。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」
かつて、自分にそうしてくれたように、もう一度、一人一人に寄り添うイエス様の生き方に立ち返ってほしい……この箇所は、パウロの切実な願いを著した箇所でもあるんです。私たちも、立ち返るべき方向を忘れないように、真摯にこの言葉を受けとめたいなと思います。