ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『どこからの知恵か分かります?』 ヤコブの手紙3:13〜18

聖書研究祈祷会 2020年3月4日

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【知恵を見分ける?】

知恵には「上からの知恵」と「この世の知恵」がある。上からの知恵である神の声と、この世の知恵である利己的な思いを聞き分けて、自分をよく吟味しなければならない……『信徒の友』の「日毎の糧」にも載っていましたが、教会ではよく「知恵を見分ける」ことの重要性が説かれます。

 

上からの知恵とは神の声、神を畏れる心です。自分本位な思いではなく、神様が何を求めているのか聞き分ける心……反対に、この世の知恵とは妬みや利己心、高慢や嘘を伴う心です。自分自身の利益や保身を優先させる、神様を無視してしまう心……悪魔から出た知恵とも呼ばれます。けっこう手厳しい言い方ですね。

 

でも、自分の下した決断や仲間と行った判断が、どちらの知恵から出たものなのか、実際にはなかなか分かりません。たいていの信者は、神を畏れているつもりです。悪いことをしたら裁かれる、あるいは、懲らしめを受けて悔い改めを迫られる……そうなる前に、正しく判断して行動したいと願うでしょう。

 

だから、多くの人は「上からの知恵」で判断したいと思ってますし、「上からの知恵」だと思う決断をしています。かつて、奴隷制度を維持しようとしたクリスチャンも、女性教職を認めなかった牧師たちも、同性愛者を罪だと語る教会も、神の声に従って判断していると思っています。

 

それも、「上からの知恵」だから、この世の人権だとか、男女の平等だとか、性の多様性だとかより優先される、絶対的に従わなければならないもの!……と思って行動します。法律や常識や倫理に関係なく従うものがあったとき、その行動はものすごく力強いですが、同時に、大きな危険を孕んでいます。間違ったまま突き進めば、取り返しがつかない……

 

【見分けられない知恵】

先日、新型コロナウイルス感染症の対策について、教会の中から発信しました。今のところは礼拝も祈祷会も中止せず、できる限りの感染症対策をして続けていく。信仰生活を守るため、信仰の火を絶やさないため、礼拝はそう簡単に止められない。でも、これが上からの知恵なのか、この世の知恵なのか、私は正直、自分の判断に自信がありません。

 

既に、いくつかの教会では礼拝や祈祷会を中止しています。それぞれうちとは異なる事情があるので、いずれも正しい判断と言えるかもしれません。でも、もしかしたら「礼拝を中止するのは上からの知恵ではなく、この世の知恵だ!」と言いだす人がいるかもしれません。

 

あるいは、「安息日のために人がいるのではなく、人のために安息日があるように、危険があるにもかかわらず礼拝を続けることこそ、上からの知恵ではなくこの世の知恵だ!」と言い出す人がいるかもしれません。どちらが正しいのか、状況によって判断は揺れ動きます。

 

聖書には、上からの知恵は柔和な行いと分別をもたらし、純真で、温和で、優しく、従順で、憐れみと平和に満ちていると語られます。でも、私たちが「正しい知恵に基づいている」と思う行動でも、そんなことほとんどないですよね? 感染症対策一つ取っても、様々な議論が巻き起こり、怒りや指摘が相次いでいます。

 

礼拝を中止するという判断は、感染のリスクが高い人に配慮する、温和で優しい判断である一方、感染症への不安をあおる結果になったり、礼拝の配信も見れない人たちを孤立させる結果を招くかもしれません。

 

礼拝を継続させるという判断は、神への信仰を守ろうとする純真で従順な気持ちに満ちている一方、感染のリスクが高い人たちへ大きなプレッシャーを招くかもしれません。

 

聖書には、この世の知恵は妬みや利己心をもたらし、混乱やあらゆる悪い行いを引き起こすと書かれています。一生懸命小さな者に配慮した、信仰に基づく判断でも、結局これらを引き起こすことが多々あります。

 

もうほとんどの行動が、この世の知恵から出たもので、上からの知恵が身を結んだものなんて、ないに等しいと言っても過言ではないかもしれません。

 

上からの知恵の見分け方について聞いたとき、私たちが分かるのは、神の声たる正しい知恵を、ほとんどの場合実践できない、きちんと受け取ることができない現実です。今、私が「聖書的に」「神の声に聞き従った」と思い込んでいる行動は、果たして本当にそうなのか?

 

妬み、利己心、自慢、嘘を伴う姿にハッとしたとき、「神の声」と称して、都合の良い決断や行動をしている自分に気づかされます。そう、上からの知恵に従うとは、自分には神様の求めていることが正確には分からないんだという態度です。

 

だからこそ、常に聞く態度、考える態度を持ち続ける。私は間違っているかもしれないという謙虚な姿勢で生きていく……聖書の中にも、神の言葉をきちんと受け取れず、間違いを犯した人たちの話がたくさん出てきました。

 

それは、族長と呼ばれる人であったり、英雄と呼ばれる人であったり、王と呼ばれる人であったり、預言者と呼ばれる人であったりしました。彼らは、神に聞き従っているつもりで度々間違え、「もしかしてこれは違いましたか……?」と何度も聞かねばなりませんでした。

 

私たちも同じです。上からの知恵だと思っているものが、この世の知恵でしかないことは、聖人であろうと祭司であろうと、いくらだってあるんです。自らの罪を振り返り、悔い改める受難節に入った今、この箇所が読まれるのは、私たちにとってふさわしいことでしょう。

 

「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい」……共に、この言葉の厳しさを噛み締めながら、神様の知恵を求めていきたいと思います。