ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『同じ鉢の飯を食う』 マタイによる福音書26:14〜25

聖書研究祈祷会 2020年3月25日

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【裏切り者はどうなる?】

「洗礼を受けたい」「クリスチャンになりたい」と思うきっかけの中に「天国に行きたいから」「汚れを洗い流したいから」という理由があります。けっこう多くの人がそうかもしれません。今までたくさんの罪を犯したけれど、褒められた人生じゃなかったけれど、こんな私でも悔い改めて、神様を信じるようになれば、新しい命を受けると言われている。

 

だけど、神様を信じると言った後、従いますと告白した後、裏切ってしまったらどうでしょう? これからは清く生きていくはずだったのに、むしろ、かつてないほど酷いことをしてしまった。汚い生き方をしてしまった。自分を信頼してくれた人を裏切り、傷つけてしまった。

 

さて、それでも私は神様に受け入れてもらえるだろうか? 神に背いた罪人として、もう見捨てられてしまうだろうか? 神様に従う以前、信仰を告白する前に犯した罪は赦されても、その後、信仰を捨ててしまったら……疑い、迷い、道を踏み外す行為をしたときは、容赦なく裁かれるんだろうか?

 

この問いに関して、教会に通っている人たちが、度々思い浮かべるようになるのが、先ほど読んだ聖書箇所、イエス様の弟子の一人であるユダが、裏切りを企て、銀貨30枚で敵に引き渡そうとした話です。彼についてはどの福音書も手厳しく、「裏切り者」「悪魔の子」「サタンが入った者」などと記されています。

 

イエス様自身、十字架につけられる前夜、「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」と言われました。「生まれなかった方が、その者のためによかった」……神の子にこんなこと言われるなんて、呪いに等しい出来事ですよね。思わず、弟子たちは口々に言います。「主よ、まさかわたしのことでは?」

 

たぶん、同じことを聞かれたら、私たちも不安になって尋ねるでしょう。「主よ、それってわたしのことじゃないですよね?」「度々過ちを犯してきましたが、あなたを裏切るつもりはないんです」「どうか、わたしのことじゃないと言ってください」「生まれなかった方がよかったなんて、言わないでください」……その後、裁かれるのは嫌だから。

 

【裏切り者って誰です?】

イエス様の最も近くで行動していた弟子たちでさえ、「わたしはあなたを裏切りません」ときっぱり否定できる者はいませんでした。なにせ、彼らは度々、イエス様の言うことが理解できず、イエス様の教えを実行できず、的外れなことを言っては、何度も怒られてきたからです。

 

「自分のことじゃないと言ってくれ」……そう願う弟子たちに、イエス様はずばり、裏切り者が誰かを教えます。「わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸した者が、わたしを裏切る」ここまで分かりやすく言われて、その場にいる誰が裏切り者か分からないなんて、ちょっとおバカさんですよね?

 

でも、弟子たちを責められません。なぜなら、みんな同じ鉢に入った調味料に、パンを浸して食べていたから……「わたしもイエス様と一緒に、同じ鉢でパンを浸した」「わたしもさっき、イエス様と一緒にパンを浸したかもしれない」「というか、この中でイエス様と一緒に手で鉢に食べ物を浸していない者など、いるんだろうか?」

 

結局、裏切り者が誰か分からない。むしろ、みんな裏切ると言われているのかもしれない……考えてみれば、「たとえ死んでも一緒についていきます」と言った弟子たちは、誰一人最後までついていきません。この後、イエス様がゲッセマネで逮捕されるシーンでは、彼らは全員、イエス様を見捨てて逃げてしまうから。

 

それでも、ユダほどはっきりした裏切りではないかもしれません。でも、誰がユダになっていたかは分からない。銀貨30枚、おそらく120デナリオンということは、日給4ヶ月分でイエス様を売ったということです。100万かそこら、奴隷一人の価格でこんなことをした……政府の狙う重要参考人を引き渡すには、かなり控えめな金額です。

 

単純に金銭的な欲求から裏切ったとは考えにくい。そもそも、お金の管理ができるような人物です。かつては良い仕事についていたと思われるのに、それらを自発的に投げ打って、イエス様に従った一人だった……実際、彼はこの後、逮捕されたイエス様が有罪になったのを見て後悔し、あっさり銀貨30枚を返そうとします。

 

自分から裏切ったのに、こんな結末になるとは思わなかったかのようです。もしかしたら、みんなが注目する法廷という場に連れ出せば、かえってイエス様の無実が証明され、敵対する人たちの間違いが正されると期待したのかもしれません。事実、イエス様がかけられた裁判は、きちんと反論すれば十字架刑になるはずのないものでした。

 

こんなことになるなら生まれなかった方がマシだった……後から首を吊って死んだユダの痛みを、イエス様はこの時から知っていました。自分を三度「知らない」と言うペトロの離反を予告したように、「こんなはずじゃなかった」と苦悩するユダに対しても、裏切りが実行されるその時まで「友よ」と呼びかけ続けたんです。

 

【再び一緒に食卓に着く】

マタイによる福音書では、この後行われた主の晩餐、教会の聖餐式の原型となるものにユダが同席していたのか、既に退席していたのか、明らかにしていません。しかし、ルカによる福音書では、ユダもイエス様からパンと杯を受け取ったことがはっきり記されています。ヨハネによる福音書では、よりあからさまにイエス様からパンを受け取ったと書かれています。

 

この食事は、やがて来たる神の国で、招かれた人々があずかる食事の予行でもありました。「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」……その言葉からは、イエス様が再び、ここに集った弟子たちと神の国で食卓に着こうとしているのが分かります。

 

そこには、裏切ろうとしているユダもいた。これから大失敗をする、この世で最大の過ちを犯す弟子もいた。「取って食べなさい。これはわたしの体である」「この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」……あなたのために、私は血を流したんだ。あなたのために、私は肉を裂かれたんだ。あなたが赦されるように、あなたが命を受けるように。

 

イエス様は、繰り返し罪を犯してしまう私たちにも呼びかけます。復活した私ともう一度出会うその日まで、神の国で一緒に食卓に着く日まで、わたしの記念として、これを行いなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。そのことを思い出して、わたしに立ち帰り、わたしに従いなさい。わたしは今も「同じ鉢から飯を食う」あなたの仲間なのだから。