ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『最初の罪の告白は……』 マタイによる福音書27:1〜10

2020年4月1日

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Klaus HausmannによるPixabayからの画像

【そんなはずでは……】

そんなつもりじゃなかった……罪を犯し、過ちを犯し、責任を取るよう迫られたとき、私たちはしばしばこう口にします。悪気はなかった、仕方なかった、こうなるなんて知らなかった。あの人にこう言われたから、あいつらに煽られたから、パニックに襲われたから、こんなことになってしまった。

 

よく聞く言葉ですよね? 不正を働いた政治家が謝罪するとき、問題を起こした企業が会見するとき、暴行や事故を犯した人が釈明するとき、度々責任を逃れようとする、あるいは軽くしようとする言葉が聞こえてきます。私自身、あなた自身も、何度も言ったことがあるかもしれません。「こんなはずではなかった」と。

 

イエス様を裏切って、祭司長たちに引き渡したイスカリオテのユダからも、こんなはずではなかった……という戸惑いと後悔が見えてきます。「そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返そうとして、『わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました』と言った」。

 

まるで、イエス様が捕えられても、有罪になるとは思っていなかったような反応です。まさか! ありえない! そんなはずは! どうやら、イスカリオテのユダがイエス様を裏切ったのは、捕まって処刑されることを願ったからじゃないようです。

 

お金のためでもないでしょう。銀貨30枚という数字は、だいたい給与4ヶ月分……全てを捨てて従ったユダが、裏切りの代償に求めたにしては少なすぎます。判決を知った途端、あっさり返そうとすることからも、金銭欲から裏切ったようには見えません。

 

むしろ、ユダが求めていたのは、イエス様が裁判にかけられることで、身の潔白と正しさがはっきり証明されることじゃなかったかと思うんです。事実、直前の26章でかけられた裁判では、偽証人が何人も現れましたが、イエス様を有罪にする証拠は見つかりませんでした。

 

「神を冒涜した」と判断されたイエス様の言葉も、そのままでは何の冒涜にもなりません。「あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る」これって、詩編110編1節とダニエル書7章13節の組み合わせで、もともと旧約聖書に書かれているメシア預言です。これを言ったからって、普通は冒涜罪になりません。

 

【キリストの死の責任】

そう、本来この裁判は、イエス様を有罪にできるわけがなかったんです。ユダヤ社会の規定では、死刑に関する尋問は、昼間の裁判でするよう定められているので、そもそも前夜に行われた裁判自体が違法です。反論さえすれば、イエス様は確実に無実を勝ち取り、祭司長や長老たちの誤りを世に主張できるはずでした。

 

少し前から、イエス様を捕えよう、殺してしまおうという動きが強くなる中、それらの動きを封じるために、イエス様の正しさを知ってもらうために、何とかしようという気持ちが、弟子たちみんなにあったでしょう。その中で、ユダは思い切ってイエス様を捕えさせ、裁判に持ち込み、確実な勝利を手にしようと画策したんじゃないでしょうか?

 

ところが、予想に反して、イエス様は裁判にかけられてから、一切反論することなく黙り続けます。祭司長たちの誤りを暴くどころか、冤罪を仕立て上げられてしまいます。良かれと思って裁判に持ち込んだユダは慌てます。そんなばかな! なぜ反論しない! このままじゃ本当に死刑になってしまう!

 

残念ながら、イエス様を敵に引き渡した行動は裏目に出ます。違う、こんなはずじゃなかったんだ、反論しないイエス様が悪いんだ、私は正しいことをしようとした……そう言い訳してもおかしくありませんでしたが、彼はただ項垂れてこう言います。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」

 

直前の記事で、イエス様が裁判にかけられている間、「あなたもイエスと一緒にいた」と問い詰められ、「知らない」と三度否定してしまったペトロは、ただ泣くことしかできませんでした。しかし、ユダは自らの罪を正面から認め、公にそのことを表します。「私は罪のない人を死に引き渡した罪人です」……これって、イエス様を信じた人が口にする『罪の告白』の原型ですよね?

 

そう、キリスト教における『罪の告白』を最初に行ったのは、イエス様を裏切ったユダでした。彼は、こんなはずではなかった……という状況に陥りながら、自分の罪を正面から見つめ、その責任をとろうとします。私は無関係ではない、私こそキリストの死に関わった。だから、その責任をとらねばならない。

 

聖書に出てくる多くの人が、イエス様の死について、直接責任を取るのを避けています。イエス様が捕えられたとき、見捨てて逃げた弟子たちは、その後も謝罪を口にしません。イエス様に死刑の判決を下したピラトも「この人の血について、わたしには責任がない」と語ります。

 

けれども、ユダは最も早い段階で、「自分こそ、この人の血について責任がある」と告白し、誰もとろうとしなかった責任を果たそうとします。イエス様を引き渡した相手に、「あの人は本当は無実で、自分こそ罪人なんだ」と告白し、受け取ってもらえなかった銀貨を神殿に投げ込み、それでも変えられない状況の責任を、自らの命でとろうとした……。

 

【ユダの結末と私たち】

実は、イスカリオテのユダこそ、誰もが避けている罪の告白をきちんと行い、誠実にその責任を果たそうとした人間だったかもしれません。しかし、神の子を死に引き渡した責任は、自分の犯した罪の責任は、自らの力ではどうしようもないものでした。もう命によって報いるしかない……。

 

有罪になるとは思ってなかった、神の子だとは思ってなかった、死ぬのが怖くて見捨ててしまった……イエス様の死に関わった者全員が、その責任を果たそうとしたとき、最終的には、ユダと同じ結末をたどらざるを得ないでしょう。だって、もう取り返しがつかない、責任なんてとりようがない、自ら罰を受けるしかない。

 

裏切り者のユダの死は、人間が自分の犯した罪の責任を、自分の力で取ることができない事実を露わにします。けれども、イエス様はご自分の命によって、神に背いた人間の罪を赦します。ユダのように「死」という結末を迎えるしかない私たちを救うために……あなたのとるべき責任を私がとった、あなたに平和があるように……死を超えて再会した弟子たちに、イエス様はそう宣言されるんです。

 

気になるのは、イエス様が復活する前に、首をつって死んでしまったユダのことです。死を超えて弟子たちに再会し、死者を復活させられるイエス様は、自分を裏切って命を絶った彼のことをどうされるんでしょうか? 私は彼こそ、イエス様が贖った罪人の象徴だと思います。自分の過ちを自覚させられ、罪を告白する人たちの姿。

 

彼は、イエス様を裏切るまさにそのとき、「友よ」と呼びかけられていました。最後まで、イエス様はユダと関係を結ばれていました。十字架につけられる前、最後の晩餐にもユダは呼ばれていました。やがて来たる神の国で、また食事をしようと集まった部屋……そこに招かれていた彼も、いつかイエス様と再会し、再び食卓に招かれるでしょう。

 

私はあなたの罪を赦している、信じない者ではなく信じる者になりなさい、あなたに平和があるように……受難節も、残り少なくなってきました。自らの罪を悔い改めるこの期間、私たちも、自分の犯した過ちを正面から見つめ直し、神様に告白しつつ、罪の赦しを信じていきたいと思います。