ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私のせいじゃない!』 ヨハネによる福音書18:28〜38

礼拝メッセージ 2020年4月5日

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Daniel BoneによるPixabayからの画像

【取り調べの状況】

昨日、岐阜市の地域保健課で、教会の徒歩10分圏内のところでクラスター感染が起きたと判断されました。市内で10人目の感染……それもここからすぐ近く。幼稚園はやむなく入園式を取りやめ、近隣の集会もほとんどが中止されています。教会も礼拝をどうするべきか、役員と数人の方々で対応を考え続けてきました。

 

岐阜県全体でも12日連続で患者数が増えています。可児市の合唱団では、基礎疾患のあった男性が一人亡くなってしまいました。知事からは4日から12日までの間、「ストップ 新型コロナ 2週間作戦」として、不要不急の外出や密閉・密集・密接する場面を徹底的に避けるよう、強い呼びかけがありました。

 

こんな状況で、日曜日礼拝に集まってもいいのか、教会が感染源になるリスクを思えば中止するべきでないか、今も更新される情報を見ながら、対応を考え続けています。社会的には、礼拝も不要不急の外出だと見なされるでしょう。やめたからといって、直ちに生活に困るわけでもありません。

 

でも、信仰的には、個人ではなく共同体として神様にささげる礼拝が、何よりも生きる力になると思っています。「礼拝を中止するなんてとんでもない!」という信仰者もいるでしょう。逆に、「周囲へリスクをもたらす危険がある中、教会に集まってきたところで、本当に神様に心を向けられるのか?」という人もいるでしょう。

 

社会的な立場と宗教的な立場に挟まれ、詰め寄られる意見を想定し、この状況に振り回されなかったと言えば、嘘になります。ちょうど、イエス様の取り調べを行ったポンテオ・ピラトが、ローマ法を重視して公正な裁判をしようとする立場と、暴動につながりかねないユダヤ人の宗教的な立場との間で、行ったり来たりしたときのようです。

 

【うわべを飾る】

彼は、イエス様を神の子と認めたくないユダヤ人が、その宗教的立場から、証拠のない罪状で訴えてきたことを見抜き、何とか釈放しようと努めます。しかし、どれだけ「あの男には何の罪も見いだせない」と言ったところで、「いや、あの男は神の子と自称したから死刑だ」「十字架につけろ」と叫ばれるだけでした。

 

ピラトは、無実の者を自分の手で裁くのを嫌がり、ユダヤ人たちに、自分たちの宗教裁判で決着をつけるよう要求します。しかし、イエス様を死刑にしたい人々は、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言い、ピラト自身に死刑執行の決断を下すよう要求します。

 

注意深く見ていると、死刑を求めるユダヤ人も、釈放を望むポンテオ・ピラトも、イエス様の死の責任を一切負おうとしていません。イエス様は、ピラトに引き渡されたり、ユダヤ人に引き渡されたり、「ああだ」「こうだ」言われながら、最終的に死刑が決定されていきます。

 

ピラトからすれば、「私のせいじゃない、ユダヤ人のせいだ」と言いたくなる話でしょう。反対にユダヤ人も「死刑執行そのものは、我々ではなくローマ総督の決定だ」と言えるでしょう。ちなみに、福音書に登場するあらゆる人物が、自分はイエス様の死に責任があると言いません。

 

唯一、マタイによる福音書に出てくるユダだけが、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と告白します。他は皆、自分が悪いとは口にせず、「お前の問題だ」と誰かに言ったり、黙りこくってしまうんです。

 

ピラト自身も、自分の責任を最大限回避するため、イエス様の口から「わたしはユダヤ人の王じゃない」という回答を引き出そうとします。分かりやすく、「お前はユダヤ人の王なのか」と問いかけ、一言「違う」と言えばいい状況を作り出すんです。実際、イエス様がこの世の王や政治家になろうとしていないことは明白なので、これで、政治犯として訴えられたイエス様を釈放できるはずでした。

 

ところが、イエス様は「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と返してくるんです。ギリシャ語の慣用句で、「(あなたの言うとおり)わたしは王である」という言葉ですが、二重の意味が持たせてあります。それは、「わたしは確かに神の国に属する王であるが、あなたはその意味が分かっているか?」という問いかけです。

 

無実の者を死刑にすることも、ユダヤ人の暴動も避けたいピラトは、何とか公正な裁きができるよう行ったり来たりし、うわべを取り繕いますが、実際には、保身のために責任を回避するので精一杯でした。自分の責任ではなく、ユダヤ人たちの反応やイエス様の返答によって決断したと言えるように、必死になってしまったんです。

 

そんな中、イエス様は「あなた自身はわたしを何だと思うか?」と自らの責任で告白することを求めます。ピラトはイエス様が王であるか、神の子であるか、自分の思っていることを一切口に出しません。「ユダヤ人はこう言っている」「お前は自分を何だと言うのか?」と聞くばかりで、彼自身は主体的に答えようとしないんです。

 

【真理とは何か?】

イエス様は、「わたしの国はこの世には属していない」と返すことで、自分が神の国の王であることを証言し、ピラトにそれを受け入れるかどうか迫ります。「わたしは真理について証しするために来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」……一方ピラトは、「真理とは何か」とポツリと呟きます。

 

『信徒の友』を読んでいる方はご存知のとおり、「真理(アレテイヤ)」という言葉には「うわべを飾ったり、嘘をついたり、こそこそ隠れることのない姿」という意味もあるそうです。公正な裁きをしようとするピラトは、総督としての体面を保とうとする中で、率直に自分自身の思いを答えることができなくなっていました。

 

ちょうど私が、信徒に対し、牧師に対し、地域に対し、社会に対して、「あの教会もこうしている」「テレビでもこう言われている」「市からもこう発表されている」と、誰かに責任をあずけたくなるように、彼も自分自身の意志を持てなくなっていました。最高裁判所の責任者が「真理とは何か」と言うほどに……しかし、もうそれはやめましょう。

 

自分を隠して、うわべを飾って、この状況をやり過ごすのは終わりにします。自分の手を汚さないように、私の意志を明かさないのはやめにします。

 

現段階では、できる限りのリスクを避けて、たとえ小さな規模でも礼拝を続けようと思います。いずれ、教会に集まっての礼拝を休止することになったとしても、これは私自身の意志からです。正しいかどうかは分かりませんが、これらの決断の結果には、私の責任が伴います。

 

非常に心苦しいですが、飛沫感染や接触感染を回避するため、最大限の努力として、聖餐式や昼食を中止し、賛美歌も原則、奏楽に合わせて牧師が歌詞を朗読し、会衆は詩を味わいつつ、心の中で声を合わせようと思います。本来は、聖餐式の中止も、礼拝そのものの中止と同じくらい重いことで、賛美歌もこういうときこそ力強く歌いたいものです。

 

しかし今は、言葉一つ一つを味わって、私たちが共に心を合わせて礼拝できる一番良い形を考え続けて歩みたいと思います。あなたも、あなた自身の意志から、イエス様の呼びかけに応えられるよう、受難節最後の一週間を過ごしましょう。

 

近づいているのは、感染のリスクだけではありません。キリストの復活を祝うイースターの足音が、もうすぐそこまで近づいています……。

 

主の食卓を覚える祈り

本日は、月の第一日曜日なので、本来なら聖餐式が行われる予定です。しかし、感染のリスクを避けるため、今日とイースターの礼拝では、聖餐式を行わないという決定を下しました。しかし、主イエス・キリストは私たちのために、主の晩餐に備える最も基本的な祈り、『主の祈り』を与えてくださいました。

 

共に、パンと杯を受けられない間も、主の食卓を覚えて祈りを合わせ、神様のもたらす力に新しく生かされたいと思います。

 

【主の食卓を覚える祈り】

かつて、私たちの主イエス・キリストはこう言われました。

 

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」「わたしが天から降って来たのは、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」「わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである」

 

また、父なる神はこう言われました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせる」

 

主は、飢えている者、渇いている者、不安や苦しみを抱える人々に、命の言葉を与えてくださいます。今、日常の食事にあずかることができない人々、そして、聖餐式にあずかることができない人々も、主はそれぞれ養おうとしてくださいます。

 

共に、日毎の糧と御言葉による養いを求めて、主が私たちに教えられた「主の祈り」を祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いいだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。

 


『私のせいじゃない!』ヨハネによる福音書18:28〜38