ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『離れていくの?』 ヨハネによる福音書13:1〜15

最後の晩餐記念礼拝 2020年4月9日

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Free-PhotosによるPixabayからの画像

 

今日は洗足木曜日、イエス様が死ぬ前日の出来事を記念する日です。人が死ぬときって、自分と相手との間にある距離を、最も強く感じるときですよね。死んだら人は離れ離れ。挨拶も、会話も、抱擁も、食事もできなくなる。今まで身近だった人と、急に大きな開きができる。もう二度と会えない距離、二度と関係を築けない距離。

 

過越祭を迎えるためにエルサレムへ入場してからというもの、人々とイエス様との距離は、どんどん開いていくように見えました。イエス様は、自分が十字架につけられて死ぬことを話し、人々はそれを受け入れない。イエス様の語ることは、ますます理解されなくなり、どんなしるしを前にしても、信じない者が出てきます。

 

イエス様は度々、身を隠されたり、嘆いたり、叫んだりされました。側にいた弟子たちでさえ、いったい何が起きようとしているのか、予想がつきませんでした。今まで近くにいた人が遠くへ行ってしまう気分。あの人のことが分からない。あの人と距離ができている。そんな感覚があったでしょう。

 

食事の席で、急にイエス様が弟子たちの足を洗い始めたときも、ペトロは不安になってこう言います。「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」……それは、本来奴隷の仕事でした。自分とイエス様との関係が分からない。いったいこの方は、私の何になろうとしているのか?

 

かつて、イエス様の足に香油を塗り、自分の髪の毛で拭って、綺麗に洗った女性がいました。彼女を見たとき、弟子たちの誰もが「何て愚かな女だろう?」と思いました。食事の席で、高価な油を無駄遣いし、奴隷のような振る舞いを見せる。こういう人とは距離を置こう……普通はそう思うはずが、イエス様は彼女に感謝します。

 

この人は私のためにしてくれた、葬りの準備をしてくれた……そう言って、より近い関係を結ばれます。反対に、いつもイエス様と一緒にいた弟子たちはこう言われます。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」

 

イエス様自身が、そのときの女性と同じ行動をとったとき、弟子たちはまさに「一緒にいるイエス様が離れていく!」という思いだったでしょう。そんなことしないでください! わたしの足など、決して洗わないでください! 思わず叫んだペトロに対し、イエス様はこう返します。

 

「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」……自分とイエス様との関わりが、なかったことになる。それこそ、ペトロの恐れていたことでした。「主よ、足だけでなく、手も頭も」即座に返すペトロの姿は、調子の良いように見えますが、実際は不安でいっぱいです。

 

何とかして、イエス様を繋ぎ止めたい。自分との関係を確かにしたい。主よ、どうか私から離れないでください……たくさんイエス様に叱られてきました。教えも理解できませんでした。本当にとるべき行動が分からないなんて、日常茶飯事のことでした。

 

ちょうど今、新型コロナウイルス感染症の拡大に伴って、会衆が集まる礼拝を休止したり、反対に会堂での礼拝を続けたり、とるべき行動が分からないまま、行ったり来たりしている私たちのように、弟子たちも不安でいっぱいでした。こんな自分からイエス様は離れていくかもしれない、関係がなくなるかもしれない!

 

けれども、不安でいっぱいの私たちに、イエス様は自分から関わりを持ち続けます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」かつて、何度も神様がおっしゃってきたように、イエス様は自分との距離を感じる弟子たちに、「わたしはあなたとかかわるために、あなたの足を洗っている」と示すんです。

 

イエス様が足を洗った人の中には、自分を裏切るユダもいました。「皆が清いわけではない」と言いながら、彼の足も洗われました。何があっても、どんなときでも、私とお前の関係は変わらない。私はお前に関わり続ける……そう最後の最後まで示されました。

 

弟子たちの中で、イエス様と最も距離のできていくイスカリオテのユダは、イエス様から直接パンを受け取ってから出て行きます。あの「最後の晩餐」を共にしてから……やがて来たる神の国で、一緒に食べて、一緒に飲もうと言われたあの食事を、ユダもあずかってから出て行きました。

 

「たとえ見えなくなっても、わたしはあなたと共にいる」「神はあなたに出会われる」……今私たちは、互いに見えづらい状況にいます。礼拝に集まること、顔を見合わせることが困難になり、どんどん信仰生活から離れていくような、イエス様との距離ができるような気持ちの中で過ごしています。

 

しかし、この方はあなたに近づいて足を洗い、あなたにパンを渡します。再び一緒に集まることを、共に食事をする約束を思い出させます。だから、今こそ希望を持ちましょう。私たちはまた集まります。主はあなたから離れません。共に礼拝できる日は、必ずやってくるんです。

 


『離れていくの?』ヨハネによる福音書16:1〜15