ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

岐阜市の華陽教会にいる牧師個人のブログ

『私が祭司なわけがない!』 ペトロの手紙一2:1〜10

在宅聖研祈祷会 2020年4月15日

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Frank WinklerによるPixabayからの画像

讃美歌

ただいまより、在宅聖研祈祷会を始めます。最初に、讃美歌(127)番「み恵みあふれる」を歌いましょう。動画では、権利関係に配慮して歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美を味わいつつ、御言葉を受け取る準備をしましょう。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ペトロの手紙一2:1〜10。

 

だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。

 

あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。

 

あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。聖書にこう書いてあるからです。

 

「見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。」従って、この石は、信じているあなたがたには掛けがえのないものですが、信じない者たちにとっては、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」のであり、また、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。

 

彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。

 

あなたがたは、「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」のです。

 

メッセージ:私が祭司なわけがない!

まだ乳児なのに……

新型コロナの拡大に伴って、多くの教会で会衆が集まって礼拝を行えない中、洗礼を受けたばかりの人たち、教会に来始めたばかりの人たちは、何とも言えない心細い気分を味わっているかもしれません。せっかく信徒の一員として新しい生活が始まったのに、共同体に加えられて何かが変わっていくはずだったのに、仲間と集まれなくなった。

 

毎週、みんなと一緒に賛美歌を歌うことも、聖書朗読やメッセージを聞くことも、聖餐式にあずかることもできなくなった。私はまだ、信仰者として生まれたばかりの乳児なのに、教会の助けが必要なのに、その支えが受けられない。長年教会に通っていた人たちも不安でしょう。大丈夫かな? このまま教会から足が遠のいてしまわないか?

 

先ほど読んだペトロの手紙は、まさに洗礼を受けたばかりの人、教会の一員になったばかりの人へ、こんな言葉を残していました。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去って、生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」

 

霊の乳を受けなさい……言い換えると、信仰者に必要不可欠な「神の言葉」を受けなさいという話です。教会に集まれなくなった私たちのような会衆には、皮肉な話ですよね。「神様、確かに私たちには、あなたの言葉による養いが必要です。でも、その言葉を語ってくれる教会に、霊の乳を飲ませてくれる礼拝に、今集まることができないんです!」

 

選ばれた生きた石

まるで見捨てられたような気分です。信仰者は神様が守ってくれるかと思いきや、その信仰を養うための礼拝ができなくなるなんて! 母親からミルクを飲めなくなった乳児も同然じゃないですか? 神様は、この期間に洗礼を受けた私のことは、信仰を持った人のことは、面倒を見てくれないのか? 我々は選ばれず、捨てられてしまった者なのか?

 

そう思った矢先に、ドキッとする言葉が続きます。「この主のもとに来なさい」「主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです」……人々から見捨てられたかなめ石、捨てられた隅の親石とは、十字架につけて殺された、私たちの主イエス様のことです。

 

神の子なのに、ずっと父なる神に従ってきたのに、人々から嘲られ、鞭打たれ、殺されてしまったイエス様……どう考えても親から見放され、捨てられてしまった子どもです。しかし、そのイエス様こそ、「神に選ばれた尊いかなめ石」「隅の親石となった者」と語られます。ペトロの手紙は、そのイエス様と一つにされるあなた自身も、生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられると言うんです。

 

この手紙が書かれた頃、初代教会の人々は周囲の異教徒から様々な迫害を受けていました。キリスト教に回心したにもかかわらず、平安を与えられるどころか、かえって悲惨な状況、困難な現実にぶち当たることも、珍しくありませんでした。回心したばかりの人はみんな思ったはずです。「神様にとって、私はどうでもいい存在なのか?」

 

そんな中、手紙の著者は力強く励ましを語ります。そうじゃない、捨てられたように見えるあなたこそ、御子と同じく選ばれた、尊い生きた石なんだ!……でも、これを聞く私たちは思います。そうは言っても、私たちは今一緒に礼拝ができません。イエス様と一つになりたくても、霊的な家を造り上げるにも、聖餐にあずかることもできないんです。

 

教会では聖職者だけが聖餐式を執り行い、礼拝を休まず続けていますが、私たちは牧師じゃないので自分の家でまともな礼拝なんてできません。私だけの、私と家族だけの礼拝なんて果たして意味がありますか? ところが、ここでも驚くべきことが語られます。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」

 

これって洗礼を受けたばかりの人に、普通言う言葉じゃないですよね? いやいや、信仰者として乳児に等しい私なんかが祭司と言われるわけがない! 周りのサポートがなければ、すぐ信仰が脅かされる。まだミルクしか飲めない赤ん坊のように、聖書の言葉も柔らかく噛み砕いてもらわないと分からない。

 

そんな私なのに、神様から選ばれた聖なる国民、王の系統を引く祭司と言われるんです。乳児のような私がささげる礼拝も、神様は祭司が行う礼拝と同じように喜ばれる。牧師不在の日曜日、聖餐式なしの自宅で行う礼拝も、決して無意味ではありません。主はあなたを祭司として用い、祈りと賛美を受け取られます。

 

躓きの石、妨げの岩

そう、この言葉は宗教改革において、「全信徒祭司制」いわゆる「万人祭司」の根拠ともなった聖句でした。華陽教会の方々は、一昨年、年間聖句として繰り返し聞いてきましたね。礼拝に集まれなくて、取り残された気分のあなたに、主は繰り返し言うんです。あなたは私が選んだ生きた石、見えない教会の基礎であり、聖なる祭司として自分の生き方をささげるわたしの民……。

 

全ての人を救うため、十字架につけられたイエス様は、一見、神様から見放された「つまずきの石」でした。こんな状況に陥った人を信じても、意味なんてあるはずがない……ところが、人々につまずきを与えたイエス様は復活し、「自分こそ滅ぼされる運命だ」と絶望している人々に、生きる力を与えます。

 

誰もが見捨てられたと思っていた私のことを、神様は復活させ、永遠の命を与えられた。自分こそ見放され、見捨てられ、罰されていると感じるとき、私を信じて思い出しなさい。あなたも神の民であり、あなたも憐れみを受けている……。

 

教会に集まれなくなった私たちも「つまずきの石」「妨げの岩」となっているかもしれません。一見、信じても意味がないような、見放された者のような状況に身を置いているかもしれません。でもそれは、霊的な家を造り上げる、大切な一人となった証でもあるんです。あなたとあなたの覚える人も、「生きた石」として今、用いられますように。

 

とりなし

主イエス・キリストが与えられた、とりなしの務めを果たしましょう。本日は、『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(熊本県熊本市の錦ヶ丘教会)のために、礼拝や集会に集えない人たちのために、病や衰えで弱っている人のために、感染症の対応や対策に追われている人たちのために、祈りを合わせます。

 

神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。

どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

 

熊本県熊本市の錦ヶ丘教会のために祈ります。

主よ、震災後、再建された教会が、ますます豊かに用いられ、あなたの恵みを証ししていくことができるように、これからもその伝道を導いてください。

 

礼拝や集会に集まれない人たちのために祈ります。

主よ、一緒に集まることができない中、それぞれの自宅で祈りを合わせる兄弟姉妹に、あなたのお支えと導きが豊かにありますように。

 

病気や障害、怪我や衰えで弱っている人たちのために祈ります。主よ、動けない人、しゃべれない人、元気が出ない人たちに、あなたの癒しと回復がもたらされますように。この日々に、喜びと楽しみが生まれますように。

 

感染症の対応や対策をしている人たちのために祈ります。主よ、感染症の対応に追われている人々、特に医療関係者や、私たちのライフラインを支える人たちに、あなたのお支えと励ましが豊かにありますように。

 

今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

讃美歌

讃美歌(400)番「たとえ塔は崩れ」を歌いましょう。こちらも権利関係に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美の応答の思いに心を合わせましょう。

 

主の祈り

共に、主イエス・キリストが弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。

 

  天にまします我らの父よ。

  願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

  みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

  我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

  我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

  我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

  国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 


『私が祭司なわけがない!』ペトロの手紙一2:1〜10