在宅礼拝 2020年5月17日
招 詞
だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。(ローマの信徒への手紙8:35)
讃美歌
讃美歌419番「さあ、共に生きよう」を歌いましょう。(動画では著作権に配慮して歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美を味わいつつ、御言葉を受け取る準備をしましょう)
お祈り
共に祈りを合わせましょう。
◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝を迎えることができ、感謝いたします。どうか今、病気と、怪我と、仕事と、家事と、勉強と虚無に覆われる中、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆主なる神よ、岐阜や愛知に出されていた緊急事態宣言も14日に解除されました。会衆礼拝を再開するため、様々な準備や対策も進めています。どうか今、一人一人の命と魂が守られるように、私たちに冷静な判断と誠実な選択を与えてください。
◆主なる神よ、生活が困難になった人、経営が厳しいお店や企業も、少しずつ補償が受けられるようになってきました。どうか今、一人一人を支えようと、対応している自治体や職員を守ってください。
◆主なる神よ、感染症による混乱の中、司法の健全さが崩されようとしています。どうか今、正義と公正を求める一人一人の声をお聞きください。政治に携わる人たちに、その声を受けとめる良心と勇気がもたらされますように。
◆主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。ヨハネによる福音書16:25〜33(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。 |
メッセージ
戸惑いません?
この箇所はイエス様が弟子たちに語った決別説教の結びと言われています。決別説教、文字通り、死ぬ前に送る最後の言葉、これから別れる人へのメッセージです。「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
今まで自分を「ぶどう園の農夫」や「良い羊飼い」にたとえてきたイエス様は、ここでついに、自分が神から遣わされた神の子どもであることをはっきりと弟子たちへ語ります。同時に、これから全ての人に見捨てられ、苦しみを受け、殺されてしまうこと、3日目に復活し、天へ帰ってしまうことも語ります。
「はい、そうですか」とそんな簡単に受けとめられる話じゃないですよね? 弟子たちはあっさり、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と返しますが、イエス様が「世を去っていく」ことについてはスルーです。
いや待って、私たちを置いていくんですか? 一緒に居てくれないんですか? 一人くらい、そう尋ね返してもいいはずです。実際、他の福音書では「どういうことです?」「どこへ行こうとしているんです?」「ちょっと何言っているのか分かりません」と弟子たちの戸惑う様子が描かれます。
弱気な言葉?
確かに、ヨハネによる福音書は他の福音書に比べて、圧倒的に物分かりの良い弟子たちが描かれます。イエス様を受け入れ、その言葉に従おうとする態度、模範とするべき姿が見られます。けれども、私たちと同様、彼らも肝心なことが分かってません。
「この人こそ神の子だ」「この方こそ救い主だ」と信じている人が、適当な裁判で有罪になり、裸にされ、十字架につけられて殺される。捕まえに来た人たちを倒したり、追い返したりすることもなく、大人しく引いていかれて罵倒される。
普通、神から遣わされた人が、みんなを救いに来た人が、こんな負け組みたいな姿をさらすなんて思わないですよね? ピンチに陥ったときこそ、圧倒的なカリスマを見せ、自分たちを率いて敵を撃ち倒してくれる。まさか、自分たちを残して死んでしまう、天に昇って見えなくなるなんて、この時は思っていなかったでしょう。
それを知ってか、イエス様も彼らにツッコミます。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」と……結局、あなたがたは分かっていない。私はあなたたちにも見捨てられ、あなたたちにも裏切られ、あなたたちにも理解されてないことを。
下手したら、すごく弱気な言葉に聞こえます。どうせ私は一人にされる。誰にもついてきてもらえない。信じると答えた人にさえ見捨てられる。ところが、イエス様は最後の最後に、状況にそぐわない言葉を残します。
「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」……どこが勝っているんでしょう?
これから自分を見捨てて逃げる弟子たちに、散らされて帰ってしまう人たちに、「わたしは既に世に勝っている」なんて宣言するのは、見栄っ張りもいいところじゃないですか? せめて、復活してから言うべき言葉じゃないでしょうか?
一人にされた方から
まるで、感染症で礼拝に集まれなくなった私たちが、散らされて自分の家に帰り、聖書も讃美歌も開かなくなった日曜日、「キリストは死に勝利された!」という言葉を、ふと思い出したときのよう。
そういえば、イースターにそんなこと言われたな。まあ、今は物理的にも心理的にも教会から離れてしまっているけれど……たぶん、キリスト教会の多くで「負けた」気分を味わっている人が多いんじゃないかと思います。
神様を信じていれば、感染症から守られると思っていた。みんなでイエス様に祈れば、新型コロナという「敵」もあっという間に打ち倒され、勝利を宣言できると思っていた。でも、劇的な収束はやってこず、息切れしている自分たち。長引けば、第二波がくれば、さらに信仰から離れる生活が予想できる。
この状況で、イエス様は平然と勝利を語ります。わたしは既に世に勝っている! 自分は一人にされると言いながら……先週の日曜日、午前8時に、私たちの教会で長年お世話になった姉妹が亡くなりました。土曜日の午後、会ったのが最後となりました。
私たちが帰ったあと、家族がいない間に、独りきりになったとき、死を迎えてしまったらどうしよう。みんなが集まれないときに、葬儀を迎えたらどうしよう……その不安が現実となりました。彼女は一人で亡くなった。
けれども、十字架につけられるとき、みんなから一人にされたイエス様の言葉が、今私たちを励まします。「しかし、わたしはひとりではない。父なる神が共にいてくださるからだ」……この方は私を復活させ、私を一人にしたあなたたちのもとへ再び遣わした。
私は誰も一人にしない。私から離れる者にも、私のもとへ集まれない者にも、私の平和を得させるために、今これらのことを語っている。わたしは既に世に勝っている。
勝ち組に見えない方から、とんでもなく大胆な言葉が語られました。でもその言葉は、笑うことができません。だって、本当にこの宣言で、私は今、なかなか収束しない新型コロナにも、なかなか改善しない社会の状況にも、負けない希望を得てるんですから。
主の祈り
共に、主イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
讃美歌
讃美歌450番「死に勝利された」を歌いましょう。(こちらも著作権に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美に込められた応答の思いに心を合わせましょう)
とりなし
神の祝福にあずかった者として、とりなしの務めを果たしましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。
◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。アーメン。(創世記28:15より)