ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『私じゃない私』 ローマの信徒への手紙7:13〜25

2020年5月27日                       在宅聖研祈祷会


『私じゃない私』ローマの信徒への手紙7:13〜25

 

讃美歌

ただいまより、在宅聖研祈祷会を始めます。最初に、讃美歌(453)番「何ひとつ持たないで」を歌いましょう。著作権に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美を味わいつつ、御言葉を受け取る準備をしましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆復活と希望の主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて5月最後の聖書研究祈祷会を持つことができ、感謝致します。どうか今、あらゆる変化に困惑し、振り回されている人たちを、あなたの大いなる手で支えてください。

◆主なる神よ、感染症によってみんなで集まることができなかったこの一ヶ月、様々な形で礼拝の時間、祈りの時間を与えてくださり感謝致します。これからまた、再び集まろうとしているそれぞれの教会も、その都度、誠実な判断と行動ができるよう助けてください。

◆主なる神よ、来週は弟子たちに聖霊が降ったことを記念するペンテコステの礼拝です。世界中へ広がった教会の誕生日でもあるこの日、再び、あなたのもとで一つとなることができますように、導いてください。

◆主なる神よ、緊急事態宣言の解除と共に、接触や交流が増えていく中、冷静な目を失わないよう、私たちを起こしてください。極端な不安にも、極端な楽観にも陥らない、誠実で慎重な対策ができるよう、あなたの声を聞かせてください。

◆主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ローマの信徒への手紙7:13〜25

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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John HainによるPixabayからの画像

メッセージ

 

もう一人の自分

 

「自分の中に、もう一人の自分がいる」……そう表現したくなる場面に、私たちは度々遭遇します。大切な相手に心にもないことを言ってしまった。誤魔化すつもりなんてなかったのについ嘘をついてしまった。本当は関わりたくないことに思わず手を出してしまった。数え上げればキリがありません。

 

よく「魔が刺した」なんて言いますが、まさに本当の自分とは違う何かが、自分の中に巣食っているように、私たちはこういう失敗を何度もします。本当はこんなこと望んでいなかった。本当はこんなことしたくなかった。けれど、意志に反して他人を傷つけ、偽りを口にし、欲に駆られて行動する。

 

「こうしなきゃ」「ああしなきゃ」と思っていることは、たいてい実行できずに終わる。そんなとき、ローマの信徒へ送られた手紙は、ピンポイントで私自身に語りかけてきます。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」……まさに、「私」と同じ境遇について、あの宣教者パウロが語るんです。

 

いやいや、パウロさん。あなたはたくさんの教会を建て、何通も手紙を出し、新約聖書の4分の1を後世に残した善人でしょう? キリスト教に回心する前、老若男女問わず迫害していた頃ならともかく、復活したイエス様と出会ってからは、たくさん良いことをしてきたし、悪いことを避けてきたじゃないですか?

 

思わず、単なる謙遜か保険で言っているんじゃないかと疑いますが、でも実際、回心してからも、彼はたくさん「悪」を行っています。手紙の中には人種差別や性差別に該当することが臆面もなく書かれていたり、明らかに個人をディスる発言があったり、仲間を貶め、分断させることも言っています。

 

パウロがどこまで自覚的だったか分かりませんが、「互いに愛し合う」という生き方から離れた自分、ほど遠い自分を感じずにはいられないときがあったようです。「わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」この言葉は謙遜でも何でもなくて、彼の正直な暴露です。自分で思うように行動できない。悪いことを避けられない。実は今ももがいている。

 

私じゃ倒せない

自分が指導する教会へ、そのことを素直に明かすパウロは、けっこう絶望的な告白を容赦無く展開していきます。「善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている」「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」

 

こんなこと言いっぱなしにされたら、パウロのことを「先生」と慕う信徒たちは途方に暮れてしまうでしょう。自分を教える教師が罪人で、今も思うように行動できなくて、良くない法則に囚われていると言ってくる。それじゃ、私たちはどうしたらいいんです? 私たちもそこから抜け出せないと言うんですか?

 

私たちが期待するのは、このあと彼が「しかし、私はこの法則と戦って、ついに勝つことができました!」と宣言してくれること。「あなたたちもこうすれば、自分の中の罪に勝てる」「本当に望む生き方ができるようになる」……そんなノウハウが教えられること。でも、実際には完全なる無力が宣言される。

 

「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか!」……これは問題発言です。何とか生き方を改めたい、清い生き方を求める人に、絶望をもたらす言葉です。だって、「私じゃ私の望まないことをさせる私を倒せない」と言い切っちゃうんですから。

 

漫画や小説、アニメの中では「自分との戦い」というテーマが繰り返し何度も出てきます。史上最も長いベストセラーの聖書にも、このテーマは欠かせません。けれども、普通は「戦って、戦って、自分に勝つ」というところで落とし所を作るのに、聖書は現実を突きつける。「私じゃ倒せない私がいる」

 

一度悪事を踏みとどまっても、また良くない方向へ行かせようと、再び囁いてくるもう一つの自分の意志。欲望に支配された「肉の人」が私全体を捕えている。善をなそうとする自分にどこまでも付きまとってきて、弱らせ、傷つけ、誤魔化させる……覆すことのできない法則のようなこの力に、私は勝てないし、支配できない。

 

仕えている相手

パウロの言葉は一見、「打つ手なし」という諦めのように感じます。私じゃ私に勝てません……ですが、実はこれって私たちがスタートに立つ、大切な自覚でもあるんです。私はよく、罪からの救いと律法の関係は、依存症からの回復と規制の関係に似ているなと思うんです。

 

アルコール、たばこ、薬物、自傷行為……自分の力で止められる、自分の力で制御できる。そう思っているうちは、これらの治療はできません。「その気になれば止められる」「まだまだ全然大丈夫」「本気になれてないだけだ」……どれだけ規制を厳しくしても、その法律が正しくても、そこにハマった人たちに救いや回復は訪れません。

 

回復の道は、「私じゃ私に勝てません」と認めることから始まります。自分の意志で自分の意志に勝てません。私一人では望まない私を止められません。どうか私を助けてください……罪からの救いも同じです。私じゃ私に勝てないことを認めて「助けてください」と声を上げることが、救いの道の始まりなんです。

 

だからパウロは、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう!」と言いながら、次の瞬間には感謝を口にするんです。私じゃ私に勝てないけれど、イエス様が私を救ってくれる。意志が弱く、掟を守れず、失敗し続ける私のことを、見捨てず導いてくれる方が、私を回復させてくれる。この方が、私の望まない悪を遠ざけ、私の望む善をさせてくれる。

 

あなたがあなたに勝てないことを知ったとき、それは終わりではなく始まりです。自分で自分を制御できない、自分で自分に打ち勝てない、そのことを認めて告白し、神様に「助けて!」と叫ぶとき、パウロに訪れた救いが私たちにも訪れます。だから、恐れず自分を見つめましょう。本当に望んでいることが、主によって果たされますように。

 

とりなし

共に主イエス・キリストが与えられた、とりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(宮崎県串間市の日向福島教会)のために、学校や幼稚園が始まる子どもたちのために、介護や福祉の現場で働く人のために、病院や施設で過ごしている人のために祈ります。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆宮崎県串間市の日向福島教会のために祈ります。主よ、戦後間もないときから信仰の火を灯し続けてきたこの教会に、あなたの祝福がありますように。特に、建物の維持や外壁の塗装など、必要なところに助け手を送ってください。

◆学校や幼稚園が始まる子どもたちのために祈ります。主よ、たくさんの課題や宿題をこなさなければならなくなった子どもたちに、必要なゆとりを与えてください。大人の私たちに誠実な知恵をもたらしてください。

◆介護や福祉の現場で働く人のために祈ります。主よ、人手が足りない現場でたくさんの要求を突きつけられている人たちに、あなたの癒しがありますように。支援する人もされる人も、お互いを尊重する関係ができますように。

◆病院や施設で過ごしている人のために祈ります。主よ、十分なサポートが受けられなかったり、できなかったりする患者や職員を助けてください。足りないもの、欠けているものが満たされるよう、一人一人を守ってください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

讃美歌(452)番「神は私を救い出された」を歌いましょう。こちらも著作権に配慮して動画内では歌いませんが、『讃美歌21』をお持ちの方はぜひ、この賛美の応答の思いに心を合わせましょう。

 

主の祈り

共に、主イエス・キリストが弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、あなたの一日一日が導かれますように。