ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『暴力的なイエス様?』 マルコによる福音書11:12〜19

在宅聖研祈祷会 2020年6月17日


『暴力的なイエス様』マルコによる福音書11:12〜19

 

 

讃美歌

ただいまより、在宅聖研祈祷会を始めます。最初に、オンライン賛美歌「恐れ惑うこの身に」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらの賛美歌は、著作者の許可を得て使用・配信しています。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて祈りと学びの時を与えてくださり、感謝致します。どうか今、この時間を通して私たちに必要なショックと励まし、慰めと希望を与えてください。

◆私たちの神様、今度の日曜日から、半分ずつ集まっていた教会員が、複数の部屋に分かれてみんなで集まるようになります。どうか今、心と魂を養いつつ、健康と安全が守られるように、必要な知恵と配慮を備えてください。

◆私たちの神様、幼稚園では今朝、花の日こどもの日の礼拝が行われました。いつもと違って、みんなで花を持ち寄ることや施設へ届けることはできませんでしたが、どうか今、一人一人が届けたい所に、希望の花が咲きますように。

◆私たちの神様、自分にはどうにもできない不安や恐れ、答えられない問題にぶち当たったとき、本当に頼るべきもの、相談すべき相手を示してください。どうか今、痛みと弱さを抱える一人一人が、尊厳と生活を破壊されないように守ってください。

◆私たちと共におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マルコによる福音書11:12〜19

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp 

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PublicDomainPicturesによるPixabayからの画像

メッセージ

 

呪いによる奇跡?

イエス様が誰かを呪ったり、暴力を振るったりするシーンは、クリスチャンにとって想像しにくいかもしれません。というか、みんな想像したくない。神の子であるイエス様は優しく冷静で落ち着いた方なんだから、そのイメージを崩さないでほしい。急に暴れ出したり、理不尽な呪いを吐くところなんて、私たちに見せないでほしい。

 

そう、たった今読んだ聖書箇所は、まさにイエス様のキャラ崩壊とも言える場面。病人を癒し、罪人を招き、子どもたちを祝福した、あの優しいイエス様が、空腹なのに実がなっていなかったという理由でイチジクの木を枯らせ、神殿にいる両替人や献げ物を売買していた人を追い出した事件……明らかに「暴力」と言える出来事が存在します。

 

何せ、イチジクの木に実がなっていなかったのは、「その季節ではなかったから」という真っ当な理由がありました。神殿の境内に両替人や鳩を売る者がいたのも、遠くから礼拝へ来た人に必要な献げ物を提供するためでした。特に、鳩は貧しい人々が献げられる数少ない犠牲です。彼らが追い出されて最初に困るのは、最も貧しい人々でした。

 

多くの人はこのエピソードを聞いて引っかかります。イエス様は何をしたかったのか? なぜこんなに荒ぶったのか? いったい何が気に障ったのか? どうしても「理不尽」や「暴力」という単語が頭の中に浮かびます。私たちはここから何を教えられているんでしょう? 

 

拒否したら滅ぶ?

イエス様がイチジクの木を呪った逸話は、旧約聖書に残された預言者の言葉が下地になっていると言われます。かつての預言者は、神の言葉を拒否するイスラエル人を、実をつけていないイチジクの木にたとえました。

 

つまりここでは、実をつけていないイチジクの木は、イエス様を拒絶する人々を表し、自分を受け入れない人たちは、後で枯れてしまう木と同様、滅んでしまうと言っています。ようするに、「私を拒否したらこうなる」という脅しに近い預言です。これではやはり、暴力的と言わざるを得ません。

 

神殿でイエス様が暴れ回ったのも、「異邦人の庭」でユダヤ人たちが献げ物の売り買いをすることで、外国の人たちが祈る場所を失っていたからと言われます。けれども、両替人や鳩を売る者がいなければ、外国の人たちも献げ物を用意することができません。結局彼らを困らせるなら元も子もありません。

 

むしろ、イエス様の行動は「神殿で犠牲をささげる」という行為そのものを不可能にしてしまいます。当時、神殿の役割は、罪を犯した人々が罰を受ける代わりに、牛や羊や鳩をささげて犠牲にすることで、神様に赦してもらうことでした。けれども、イエス様はそれ自体を邪魔してしまいます。神殿の意義を破壊するような出来事です。

 

倒された木と神殿

そう、イエス様に呪われたイチジクと、イエス様が暴れ回った神殿は、どちらもイエス様によって何かが崩壊し、破壊されることを示していました。全ての者の救い主にこんなことされたら、救いもへったくれもありませんよね? けれども、イエス様が滅ぼすもの、破壊するものって何だったのか、もうちょっと見つめてみたいんです。

 

神の言葉を受け入れず、イエス様を拒否する人々が滅ぼされる。その様子を暗示したイチジクの木は、次の日の朝、根元から枯れていました。弟子たちが一眼で枯れていると分かったんですから、根元から折れていたのかもしれません。呪いによって枯れ果て、根元から裂けるように倒れたイチジクの木は、もはや死んだのも同然です。

 

しかし、根元から倒れた木と聞いて、私はイエス様が生まれる前に預言者イザヤが語った言葉を思い出します。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」……これは、不信仰のゆえに敵から切り倒され、死んでしまったかに見える切り株に、神様が新しい命を宿らせるという出来事を預言している言葉です。

 

実のならないイチジクの木と同様、切り倒されたこの木もイスラエルの人々をたとえています。そして、この根から生えてきた芽こそが、イエス様の到来を意味すると、後の人々は受け取りました。神様を受け入れられない、イエス様を拒否してしまう人々が切り倒されてなお、やっぱり生かそうとして、新しい芽を萌え出させる。

 

自分の言葉を聞かない人たち、理解しない人たちに語り続けたイエス様。自分を見捨てて逃げた弟子たち、もはや心が折れている彼らのもとへ、復活して現れたイエス様……その様子を思い出すとき、イエス様が滅ぼされるのは、まさに私たちの中にある過去の自分、赦された自覚を持たず、拒絶と絶望に囚われた状態ではないかと思うんです。

 

イエス様が「神殿で犠牲をささげる」という行為を不可能にしたのも、罪を赦されるために犠牲をささげることは、もはや必要ないことを示そうとしたのではないかと思います。私はあなたが赦されるためにやってきた。もはや、あなたがその犠牲をささげる必要はない。むしろ、感謝の応答をささげなさい。感謝の祈りをささげなさい。

 

「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである」という言葉には、そんなメッセージが込められているように感じます。赦されていない人々が集う神殿は破壊され、赦されたことを信じる人々が教会へ集まるようになりました。

 

今日も、私たちは切り倒されて終わるはずだった自分自身が、神に赦され、新しく生かされるようになったことを覚えます。共に、感謝の祈りをささげつつ、互いのためにとりなしたいと思います。

 

とりなし

共に主イエス・キリストが与えられた、とりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(香川県丸亀市の丸亀教会)のために、破壊的カルトの被害者やそのご家族・ご友人のために、DVやデートDV、友人間の暴力に悩む人のために、性差別や女性蔑視にさらされている人のために祈りを合わせます。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆香川県丸亀市の丸亀教会のために祈ります。交代する牧師の上に、あなたの導きが豊かにあって、教会が地道に、丁寧に、誠実に、聖書を読んでいく群れでありますように。

◆破壊的カルトの被害者やそのご家族・ご友人のために祈ります。それぞれに必要な相談先とタイミング、支えとなる仲間が与えられますように。

◆DVやデートDV、友人間の暴力に悩む人のために祈ります。本人の自信と周りの理解が取り戻され、適切な関係性ができるよう、一人一人が守られますように。

◆性差別や女性蔑視にさらされている人のために祈ります。被害者の傷つけられた尊厳が回復し、加害者でありうる私たちの心が照らされ、必要な気づきがありますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「神よ 諦めない心」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらの賛美歌も著作者の許可を得て使用・配信しています。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、あなたに平和がありますように。