ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『ふさわしくなかったら?』 コリントの信徒への手紙一11:23〜29

日曜礼拝 2020年8月9日


『ふさわしくなかったら?』日曜礼拝 2020年8月9日

 

 

招 詞

「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」(箴言9:4〜6)

 

讃美歌

讃美歌21の419番を歌いましょう。前後左右の人と十分に距離を取って、マスクをしたまま歌います。マスクをしておられない方は、受付で使い捨てマスクをお受け取りください。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まれたことを感謝致します。どうか今、この場に集まった人たちと、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、岐阜県で第2派非常事態宣言が出されてから、感染者の数も未だ増え続けています。現在、感染している151名の方と、そのご家族の上に、全国で治療を受けている方の上に、あなたの癒しとお支えがありますように。

◆私たちの神様、今日は延期していた役員選挙が礼拝後に行われます。色々なことが例年通りにいかない中、不安も多いと思いますが、どうか新しく選ばれる役員にあなたの祝福が豊かにあって、みんなで支えていけますように。

◆私たちの神様、夏休みに入っていく幼稚園や小学校、中学、高校、大学生たちに、あなたの恵みがありますように。いつもと違うこの夏も、一人一人に素敵な経験と楽しい出来事がもたらされますように。

◆私たちに現れたイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。コリントの信徒への手紙一11:23〜29(新共同訳より抜粋)

 

わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。

 

f:id:bokushiblog:20200809083452j:plain

congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

謎の食事

教会に何年か通っている人は、先ほどの聖書箇所が聖餐式で何度も読まれてきた箇所だと気づいたでしょう。聖餐式、それは神の子であるイエス様が、全ての人を救うために、十字架にかかって死んだこと、死者の中から甦り、悲しむ人と再会してくださったことを記念する食事です。

 

イエス様は十字架につけられる前の日も、復活してみんなに再会した後も、弟子たちのためにパンを裂き、共に食事を分けられました。そして、自分が天に挙げられて姿が見えなくなってからも、やがて神の国でみんなと食事ができることを思い出せるように、弟子たちに繰り返し記念するよう教えました。

 

それが、聖餐式の原型となった「主の晩餐」です。現在の聖餐式は、礼拝の中で少しの間、細かく切り分けた小さなパンと、一口で飲める少量のぶどう液を分け合っています。しかし、教会ができたばかりの頃は、文字通り、実際の食事として行われていたので、もっとガッツリ食べたり飲んだりしていました。

 

ちょっと羨ましいかもしれません。日曜日の朝って、本当はゆっくりしていたいのに、朝から慌てて礼拝へ来るので、食事を取り損ねる人も多いでしょう。皆さんの中にも、礼拝が始まるとちょうどお腹が空いてくる……という人がいるかもしれません。白状すると、朝まで準備に追われている私もそうです。

 

仲間割れ

かつてのように、礼拝の中でしっかりお腹を満たせたら、お昼まで空腹を我慢しなくてすみますよね。ところが、この食事について、初代教会の宣教者パウロはこんなふうに注意します。

 

「従って、ふわさしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」

 

子どもの頃、聖餐式の中でこの言葉が読み上げられる度、洗礼を受けないであのパンを食べたり、ぶどう液を飲んだりすると、お腹を壊したり、病気になったりする罰を受けるんだと思ってました。実際、パウロはコリントの教会でたくさんの人が死んでしまったことを書いています。ちょっとした脅しに聞こえますよね?

 

皆さんもときどき、聖餐式のパンと杯を受けるのが恐ろしく感じるかもしれません。特に、何かで失敗した後や、間違いを犯してしまった後は、自分なんかがこのパンと杯を口にしたら、罰を受けてしまうんじゃないかと不安になります。だって「ふさわしくない」者は裁きを受けるって書いてますから。

 

でも注意したいのは、パウロがどのような状況でこんなことを書いたかです。実は、少し前の17節から、手紙の送り先であるコリントの教会で、仲間割れが起きていたと書かれています。そして、一緒に集まっても各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる始末という状況が書かれています。

 

ようするに、イエス様の死と復活を記念する食事なのに、神の国の食事の再現なのに、一緒にではなく、バラバラに食べているという寂しい食事になっていたんです。もともとは、イエス様が一つのパンをみんなに分け与えた食事が、お互いに行き渡っているかも気にしない、分かち合う気持ちを持たない食事になっていました。

 

「ふさわしくないまま」というのは、そういうことです。あなたが信仰的に弱かったり、未熟だったりするのは関係ない。そもそもイエス様は、自分のことを理解しない、自分を見捨ててしまう弟子たちに、この食事を分け与えて新しい力をもたらしました。問題とされているのは個々人の「資格」ではなく、「分かち合う食事」になっているかです。

 

分かち合う

コリントの教会には、裕福な人も貧しい人も来ていました。生活のためにギリギリまで仕事をして、礼拝の時間、駆け込むように入ってくる人もいたでしょう。しかし、その人たちが教会へ来て、落ち着いて食事を取ろうとするときには、既に自分の分を食べた人、酔っ払っている人たちがいました。

 

彼らは気づきます。この人たちは、私と一緒にイエス様の食事を分かち合おうとは思わないんだ。私のことは気にしてないんだ……弱い人、病気の人もいるのに、食事が行き渡るか、一緒に食べられるかも気にされてない。「多くの者が死んだ」というのは当然かもしれません。

 

「わたしの兄弟たち、こういうわけですから、食事のために集まるときには、互いに待ち合わせなさい」……主の晩餐は「分かち合う食事」であり、聖餐式にふさわしくないのは、分かち合う姿勢を持たない共同体です。

 

私たち一人一人は、みんなふさわしくないのに、イエス様から信じるように、パンと杯を分けられました。このパンと杯を一緒に分け合うべき相手が、あなたの前に、隣に、後ろにもいます。

 

小学生の頃、まだ洗礼を受けていないとき、父方の祖父母が、私と弟と一緒に礼拝に出てくれたことがありました。その日は聖餐式がありました。みんながパンと杯を受け取る中、信仰告白をしていない私たちは「いいなぁ……」と思いながら、こっちを見向きもしない人たちを眺めていました。

 

子どもの横で、自分たちだけ食べ物を受け取るのが気まずかったんだと思います。聖餐式のときはいつも、私たち兄弟に顔を向ける人はいませんでした。ところがその日、隣にいた祖母がゴソゴソと鞄から飴を取り出して、みんながパンをもらうタイミングで、私と弟の口に入れてくれたんです。

 

祖母も洗礼を受けていなかったので、パンと杯を受け取りませんでしたが、2人の孫と一緒に小さな飴を分け合いました。私たちのすぐそばでパンと杯を受け取っていた教会員も、そのとき始めてこちらに顔を向け、ホッとした表情をしていました。私にとって「聖餐式」として思い出される最初の記憶は、祖父母と分かち合ったこの食事です。

 

確かにあのとき、私たちの間にイエス様がおられました。共に聖餐式に出ていた一人一人が、ふさわしくされた瞬間でした……ここに来ている皆さんも、ふさわしい者となりましょう。イエス様はあなたにも、自分自身の体を分け与えているからです。

 

紹 介

本日、初めて教会に来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。今日は( )名の方が来てくださいました。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

とりなし

共に、礼拝につながった者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『あなたの内なる人を』(©柳本和良)を歌いましょう。先ほどと同じく、前後左右の人と十分に距離を取って、マスクをしたまま歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

父である神とわたしたちの主キリスト・イエスからの恵み、憐れみ、そして平和があるように。(テモテへの手紙二1:2)