ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『服従を喜ぶな』 ルカによる福音書10:17〜24

在宅聖研祈祷会 2020年8月26日


『服従を喜ぶな』在宅聖研祈祷会 2020年8月26日

 

 

讃美歌

それではただいまより、在宅聖研祈祷会を始めます。最初に、オンライン賛美歌「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、配信を通して、離れた人たちと一緒に祈りを合わせる時間が与えられました。どうか今、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、夏休みも終わりを迎え、新しい学期を迎えます。どうか今、学校が始まる子どもたちや先生、職員の安全を守り、楽しい日々が与えられますように。また、学校に行けない子どもたちに、安心できる居場所を与えてください。

◆私たちの神様、仕事ができなくなった人、子育てができなくなった人、勉強ができなくなった人に、あなたの憐れみがありますように。どうか今、それぞれに十分な休息と回復が与えられますように。

◆私たちの神様、怪我や病気や体調不良で、自信を失ったり、元気をなくした人たちがいます。どうか今、あなたから慰めと励ましを得て、新しい力がもたらされるように、一人一人を導いてください。

◆私たちと共におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ルカによる福音書10:17〜24(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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Myriam ZillesによるPixabayからの画像

メッセージ

悪霊に打ち勝ったら?

もしも、誰かを苦しめている悪霊がいて、それを追い出すことができたら、ちょっとテンション上がりますよね。悪魔祓いやエクソシストを知らない人はいないでしょうし、自分にも同じことができたら、「すごい体験をしてしまった!」「苦しむ人を助けられた!」って喜ぶ反応が普通です。

 

皆さんの中にも、誰かのために祈って、それが叶えられたという経験があるかもしれません。熱が下がらない子どものために手を置いて祈ったら、次の日から平熱になった。頭痛に苦しむ友人のために額に触れて祈ったら、そのあと痛みが消えていった。不幸が続く人のために一生懸命祈ったら、どんどん良いことが起きるようになった。

 

もしかしたら、自分には特別な力が神様から与えられているのかもしれない。もっとたくさんの人を癒せるかもしれない。もっと大きな負の力にも勝てるかもしれない……たぶん、そう思うのって自然なことだと思うんです。自分の関わった人が、苦しみから解放されるのを目の当たりにすれば、誰だって喜びたくなります。

 

イエス様から各地の村に派遣され、病人を癒し、神の国について言い広めてきた72人の弟子たちも、帰ってきてすぐ、興奮気味に報告します。「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します」……あの子を苦しめていた力も、あの人を悩ませていた力も、みんな私に降参し、退場していきました!

 

ところが、イエス様は喜んでいる彼らに対し、こう言います。「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を、わたしはあなたがたに授けた」「しかし、悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない」……いやいや、人を苦しめる力に打ち勝てたら、喜ぶのは当然じゃないですか? 悪い力を屈服させるって普通嬉しいことでしょう?

 

知恵も賢さもない人?

悪い敵をやっつけたのに「敵が服従するのを喜ぶな」って、どうもイエス様の言うことは不思議です。今まで敵に苦しめられてきた人たちが、今度は自分たちに従ってくれるチャンスなのに、それを喜ぼうとはしない。むしろ、悪霊に打ち勝った弟子たちも「知恵ある者」や「賢い者」ではなく、「幼子のような者」なんだと語ります。

 

今でこそ、「幼子」という言葉には無垢で素直なイメージがついていますが、かつてのユダヤ教社会において、「幼子」はそれ自体積極的な意味を持ちませんでした。どちらかというと、知恵のない愚か者という意味を持ちました。イエス様や72人の弟子たちに悪霊を追い出してもらった人たちは奇妙に感じたことでしょう。

 

知恵のない愚か者が神様に用いられるのか? むしろ、悪霊を追い出せたんだから、神様に力を受けたんだから、それ相応の知恵や賢さがある人たちに違いない! 偉い人たちに違いない!……そんな意識があったと思います。実際、宗教界で「癒しの業を行える」と言うリーダーは、頭が良くて、知恵を持った、賢いイメージを大事にします。

 

高学歴のエリートたちを従わせ、「彼らも自分の言うことを聞いている」とアピールし、自分が力を分けたという人の業績を見せ、さらに多くの人を集めます。そして、より多くのアンチを屈服させ、信者を増やせる弟子を喜びます。

 

ところが、イエス様は「知恵ある者や賢い者」というイメージを剥がし取り、弟子たちが誰かの上に立とうとすれば、「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」と話します。一般に「権威ある者」としてイメージされる姿とは著しくかけ離れている。けれど、それこそが神様に選ばれ、遣わされ、用いられている人の姿だと語るんです。

 

打ち勝てなかったら?

人々から悪霊を追い出す話と言えば、もう一つ別の出来事が思い出されます。それは、この話の少し前、9章の37節から始まります。ここに出てくる、悪霊に取り憑かれた息子の父親は、衝撃的な発言をします。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした……」

 

イエス様から権能を授けられたはずの弟子たちが、悪霊を追い出せなかった……あってはならないことですよね? イエス様の弟子になったのに、力を与えられたのに、それが機能しなかったなんて! たちまち「奇跡は偽物だった」と言われてしまいます。ところが、イエス様は難なくその子の悪霊を追い出し、子どもを癒して父親に返します。

 

他の福音書では、弟子たちがなぜ、自分たちには悪霊を追い出すことができなかったのか、イエス様に質問するエピソードが続きます。そこでは、「信仰が薄いからだ」とか「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」という返事が返されます。

 

私は正直、弟子たちが祈らなかったはずないだろうと思うんです。目の前で苦しんでいる幼い子どもがいて、泡を出して転げ回っている。「神様、どうにかしてください!」って誰もが必死に願いますよね……けれど、どれだけ何とかしようとしても、子どもは一向に良くならない。こうなったら、イエス様を呼んでくるしかない。

 

ところが、イエス様を呼びに行ったのは、悪霊を追い出せなかった弟子たちではなく、弟子たちに助けを求めた父親でした。弟子たちはいつでもイエス様を呼べたのに、すぐそこに「助けて」と言える救い主が存在したのに、呼ぶことができませんでした。神の子であるイエス様に、頼る勇気が湧かなかった。

 

怖かったんだと思います。「自分たちには追い出せない」「力を与えられたのに何もできない」という現実が……それはまさに、人々から「あの人たちは実際には知恵も賢さもないんじゃないか?」「他の人と同じただの人間に過ぎないんじゃないか?」と思われる出来事でした。そして、そのとおりだったんです。彼らは知恵も賢さもなく、普通の人でした。

 

イエス様の与える権威

72人の弟子たちも普通の人でした。旧約聖書を読むことができたり、お金の計算ができたりする人はほとんどいませんでした。「先生」と呼ばれるような教養を身につけた人もほとんどいなかったでしょう。彼らの多くは、権威ある振る舞いなんてできず、むしろ初めての派遣で緊張しながら、各地の家の戸を叩いたことだと思います。

 

そう、イエス様がもたらした「敵のあらゆる力に打ち勝つ権威」とは、自分の知恵や賢さを証明する、自分の偉大さを証しするものではないんです。むしろ、自分の力じゃ敵わないことがあると、すぐに「助けて!」と泣き叫ぶ子どもたちのように、体当たりで神様に頼れる信仰なんです。「ごめん、私じゃ無理でした!」って神様に泣きつく祈りなんです。

 

神様は、知恵のない愚かな私でも、弱くて情けない私のことも、ちゃんと天に名前を書き記して、いつでも助けようと見ておられる。私じゃ苦しみに打ち勝てなくても、困難を克服できなくても、悪を屈服させる力は、神様が働かせてくださる。あなたを苦しめる力が服従するのは、あなた自身の手柄ではなく、あなたを大事にされる神様の力だ。

 

イエス様はそう呼びかけて、神様の偉大な業を喜びます。特別な修行をした者でも、秘密の知恵を身に付けた者でも、徳の高い功績を収めた者でもなく、幼子のような者に対して、イエス様は最強の力を与えました。あなたのことを、神様は天に名前を書き記すほど大切にしておられるよ、安心して行きなさいと……。

 

何かを支配し、屈服させ、服従させる力は非常に魅力的ですが、それ自体は健全な喜びになりません。むしろ、私たちが手放しで助けを求められる、私を大切に守ってくれる方がいる、という究極の福音を一緒に喜びたいと思います。どうか今、癒しと解放を求める全ての人が、天に記された自分の名前を知ることができますように。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(高知県南国市の南国教会)のために、近しい人が弱っている人のために、自分自身が傷ついている人のために、誰かを傷つけてしまった人のために、祈りを合わせます。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆高知県南国市の南国教会のために祈ります。教会員の家族や友人があなたを知ることができますように、信徒一人一人の証が誠実に導かれますように。また、十市での開拓伝道が豊かに用いられますように。

◆近しい人が弱っている人のために祈ります。自分の家族や友人、恩師や仲間たちが弱っている人に必要なサポートができますように。何をしたらいいか分からないとき、支える人をも助けてください。

◆自分自身が傷ついている人のために祈ります。不当な扱いを受けた人、大きな誤解を受けた人、理不尽な攻撃に晒されている人、困難や苦しみに襲われている人に、あなたの癒しと導きがありますように。

◆誰かを傷つけてしまった人のために祈ります。感情に支配されてしまったり、間違いを犯してしまった人に、あなたの気づきと回復がもたらされますように。やるべきことが示され、適切な行動をとる力が与えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「神よ 諦めない心」(©️柳本和良)を歌いましょう。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、あなたに平和がありますように。