ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『無慈悲な主人に従えと?』 ペトロの手紙一2:18〜25

日曜礼拝 2020年9月20日


『無慈悲な主人に従えと?』日曜礼拝 2020年9月20日

 

 

招 詞

自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。(ペトロの手紙一2:16)

 

讃美歌

マスクをしたままで讃美歌21の459番を歌いましょう。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

◆愛と平和の主である私たちの神様、今日もまた、あなたによって守られて、日曜日の礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、職場で、施設で、屋外で、あなたの言葉が必要な人を導いてください。

◆私たちの王なる神様、力と権威に溺れる支配者から、それぞれの国を守ってください。どうか今、民の声を聞かない者から、抑圧され、排斥され、拉致され、搾取されている人たちを助けてください。

◆私たちの友なる神様、自分を正当化する誘惑から、それぞれの良心を守ってください。どうか今、難しい問題に対処したり、過ちを認めなければならないとき、私たちを励まし、行動を助ける味方となってください。

◆私たちの母なる神様、自信と尊厳を奪う者から、それぞれの魂を守ってください。どうか今、何もかも自分が間違っていると項垂れている人たちに、自分の価値と尊さを実感できる機会を与えてください。

◆私たちの傍におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。ペトロの手紙一2:18〜25(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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ddzphotoによるPixabayからの画像

メッセージ

権力に服従させる?

無慈悲な主人に従えと?……メッセージのタイトルに思わず付けてしまったように、今日の聖書箇所は、大きなつまずきを与えます。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」……奴隷制度の容認か? パワハラに無抵抗でいろと? 色々な疑問が出てきます。

 

さらに、こうも続きます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」……いやいや、不当な苦しみに遭うことを神様は許しちゃうんですか? それが不当だと分かっていて、耐えなさいと言うんですか?

 

上司の理不尽な叱責にも、夫の身勝手な我儘にも、両親の虐待やネグレクトにも、黙って耐えなさいと言うんですか? 会社でセクハラを受けても、家族からDVを受けても、議員からレイプされても、それに黙って耐えることが、神の御心だと言うんですか? どうも納得がいきません。

 

善良で寛大な主人にも、無慈悲な主人にも服従する。それって褒められたことでしょうか? 「この世の権力に服従する」という観点から言えば、より大きな問題にも発展します。国家に戦争協力を要請されても従うのか? 徴兵を命じられても従うのか? あるいは人種差別や移民の排除に従うのか?

 

「お上の言葉に逆らうな」という言葉がありますが、それってズルズルやっていると、自分どころか、後の世代の首まで締めてしまいます。主人の仕打ちに抵抗せず、口を挟まず、黙って従い続ける姿勢は、果たして、この手紙が求めていることなんでしょうか?

 

耐え忍ぶべき苦しみ

この手紙が書かれたのは、ローマ帝国によるキリスト者への扱いが、徐々に変わってきた頃でした。もともとはユダヤ教の一派として擁護されていたキリスト教は、ユダヤ教からは異端として、ローマ帝国からは新宗教として、迫害が厳しくなっていきます。キリスト教徒がいかにおかしく、野蛮で粗野な人たちか、悪評が飛び交うようになりました。

 

そんな中、キリスト者が生き残るには、自分たちが国家の転覆を図ったり、ローマ帝国に逆らったりすることのない、安全で、穏やかで、善良な市民であることをアピールする必要がありました。私たちの生活態度を見てください! 決して危険な団体ではありません。むしろ、忍耐強く冷静で、平和的な人間です!

 

私たちは法に則って生活します。主人に虐待されても、召し使いで徒党を組んで、殴ったり、奪ったり、盗んだりは致しません。私たちの抵抗は、罵ったり、脅したり、暴力に訴えることではありません。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いることではありません。かえって相手のために祝福を祈り、正しい裁きに委ねることです。

 

これが、キリスト者の姿勢ですと、手紙の著者は語ります。神の御心に適うとされる、「不当な苦しみを受けること」「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶこと」とは何なのか、もう一度考えさせられます。それは単に、黙って耐えろ、我慢しろという囁きではないでしょう。というのも、ここには模範にすべき、あの方の姿が出てくるからです。

 

「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」

 

まさに、イエス様が不当な訴えで十字架につけられたときの姿ですよね? ヨハネによる福音書によれば、あのときイエス様は、自分を見ていた人たちに聞けば、訴えられるような罪はないことを大祭司に向かって証言しました。しかし、それを見ていた下役の一人は「大祭司に向かって、そんな返事のしかたがあるか」といきなり平手で打ってきます。

 

イエス様は彼をののしることも、侮辱することもありませんでしたが、静かにこうおっしゃいます。「何か悪いことをわたしが言ったのなら、その悪いところを証明しなさい。正しいことを言ったのなら、なぜわたしを打つのか」……打ってきた相手に殴り返すことも、法廷で暴れることもしませんでしたが、はっきりと抗議の言葉が返されます。

 

さまよわずに生きる

無慈悲な権力の行使者に対し、イエス様は従いつつも、平和的な抗議をしていきます。それは、あらゆる場面で見られた姿勢です。イエス様が自分を打った相手に打ち返すことはありませんでした。群衆を煽って、祭司長やサドカイ派にけしかけることもありませんでした。

 

むしろ、弟子の一人が、敵に剣をかけたとき、それを制止し、切り落とされた人の耳を癒されました。対立する者に対しても従う者に対しても、悪いところは悪いと指摘し、良いところは良いと評価しました。ひたすら誠実に、批判すべきことを批判し、指摘すべきことを指摘しました。

 

この方は、ファリサイ派からも、繰り返し罠にかけられました。言葉尻を捉えて貶めようとされました。しかし、イエス様の方から彼らを罠に嵌めることはありませんでした。むしろ、対立しているにもかかわらず、彼らと共に食事をし、対話を惜しみませんでした。時には、「あなたは神の国から遠くない」と敵を祝福することさえありました。

 

この方の生き方が、不当な支配や抑圧に苦しむ私たちをも癒します。正しいことのためにどうやって抵抗するべきか、どうやって抗議するべきか、私たちに示します。偽らず、ののしらず、脅さずして、過ちを犯す者のために祈りつつ、その悪事を指摘する。正しい裁きに委ねていく。

 

多くの支配者から自由と人権が勝ち取られてきた歴史には、その繰り返しがありました。現在、世界中でアフリカ系アメリカ人に対する残虐行為に抗議する“Black Lives Matter”という運動が行われています。そのうち93%は非破壊的で平和的な抗議です。けれども、7%の暴力や略奪行為によって、運動全体が貶められています。

 

私たちと同じ、クリスチャンでもあるアメリカ大統領は、この7%に焦点を当てて、運動全体をデモ隊やテロ組織だと煽り、対立を助長しています。罪のない善良な市民として、平和的に活動している人たちまで、無慈悲な扱いを受けています。それでも、破壊や暴力に訴えず、平和的に声を上げ続けようと必死に立っている人がいます。

 

権力に対し、剣を向けるやり方ではなく、法と秩序を守りながら、対話を惜しまないで立ち続ける。それは非常に苦しい道のりです。暴力に訴えて捕まるよりも、地味で、しんどく、結果の見えない苦しさです。けれども、この苦しみは、神の御心に適った苦しみだと言われます。

 

正しいことのためにあなたが負った苦しみは、キリストの足跡に続く道……だから、さまよわずに行きなさい。魂の牧者であり、監督者であるイエス様のもとに留まって、この世の無慈悲な主人にも、謙虚に、誠実に抵抗しなさい。あなたが不当な苦しみから解放され、全ての人が本当の主人を知る日が来るように。

 

紹 介

本日、初めて来られた方、久しぶりに来られた方で、紹介をご了承いただいた方のみ、受付の方と一緒にお立ちください。配信に乗らないようにお名前は後ほど紹介させていただきます。神様の平和が皆さんと共にありますように。

 

とりなし

共に、祈りを合わせる者として、とりなしの務めを果たしましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス・キリストが私たちに教えられた、最も基本的な祈りを祈りましょう。

主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

オンライン讃美歌『神よ 諦めない心』(©柳本和良)を歌いましょう。マスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げよ。(イザヤ書52:7より)

 

主がすべての災いを遠ざけてあなたを見守り、あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも、主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。(詩編121:7〜8)