ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『祈りのエチケット(2):正しい祈りってあるの?』 マタイによる福音書6:5〜15

聖書研究祈祷会 2020年9月30日


『祈りのエチケット②:正しい祈りってあるの?』聖書研究祈祷会 2020年9月30日

 

案 内

華陽教会ではこれまで『信徒の友』の聖書日課に沿って、水曜日の聖書研究をしていましたが、先週からしばらくの間、『祈りのリテラシー』をテーマに、聖書朗読とメッセージを行うことになりました。今日は「祈り」について考える第2回目です。

 

讃美歌

それではただいまより、聖書研究祈祷会を始めます。最初に、讃美歌21の62番「天にいますわたしたちの父」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆愛と力の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、ここに集まった人たちと、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆私たちの神様、今日は9月最後の1日です。この1ヶ月も様々な危険や不安から、あなたが守ってくださったことを感謝致します。どうか今、深刻な葛藤や問題を抱えている人に、あなたの知恵と助けをお与えください。

◆私たちの神様、最初は少なかった子どもたちも、だんだんと教会に顔を見せるようになってきました。今なお、幼稚園や学校でいつもと違う日常を送っている子どもたちに、あなたのお守りと祝福をお与えください。

◆私たちの神様、病気のため、怪我のため、障がいのため、不調のため、入院中の方や通院中の方がおられます。また、病院にも行けない方がおられます。どうか今、その一人一人にあなたの癒しと回復の手立てをお与えください。

◆私たちの傍におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書6:5〜15(新共同訳より抜粋)

 

「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。』もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」

 

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congerdesignによるPixabayからの画像

メッセージ

人前で祈るのは苦手

教会に何年も通っている人でも、人前で祈るのは苦手という方が多いです。実を言うと牧師をしている私自身も、そんなに得意じゃありません。礼拝でも、聖書研究祈祷会でも、その他の集会でも、皆さんの前で祈るときには、あらかじめどんなことを祈るか紙に書いたり、整理したりしています。そうしないと、頭がテンパってしまうんです。

 

自分の祈りがどう聞こえるか、人にどう受け取られるか、怖いのはみんな同じです。何せ、祈りは神様との対話です。自分が神様にどんなお願いをするのか、どんな問いかけをするのか、どんな訴えをするのか、他の誰かに見られてしまうというのは、けっこう恥ずかしいですよね。

 

「あんなお願いしているんだ……」「こんなこと訴えているんだ……」自分ではおかしいと気づかないで、人から変に思われていたり、愚かに感じられていたり、影で不信仰だと言われていないか、気になっちゃうこともあるでしょう。こんなに短いお祈りじゃ、こんなに浅いお祈りじゃ、こんなにまとまってないお祈りじゃ、ダメかもしれない。

 

正しい祈りって何ですか? どう祈るのが無難ですか? 口には出さなくても、多くの人が考えます。神様へ個人的に祈るのはいいけれど、人前で誰かのために、教会のために、社会のために祈るのは、公の祈りを行うのは、やっぱりハードルが高すぎる。そんな人に、聖書は祈り方の基本というものを示します。そう、皆さんよくご存知の主の祈りです。

 

祈り方を聞いていい?

聖書の中で、主の祈りについて書かれているのは、マタイによる福音書とルカによる福音書の2箇所です。ルカによる福音書では、弟子の一人がイエス様にこう尋ねています。「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」……そこで教えられたのが主の祈りでした。

 

教会にいると、お祈りって何となく、牧師や他の信徒のマネをして、自然に身につけなければならないように感じます。なかなか「祈り方を教えてください」ってダイレクトに聞いてくる人は珍しいです。むしろ、何年も聞けないで、総会で役員に選ばれてから初めて「先生、実は祈り方を教えてほしいんです」と恐る恐る聞いてくる。

 

誤解のないように皆さんに言っておくと、お祈りが自然に身につかなくても、思うようにできなくてもかまいません。人に聞いていいんです。「どうやって祈ったらいいですか?」イエス様はそれに対して「こう祈るんだよ」と教えます。かつて私の父は、死を迎えようとしている親戚のため、病院で祈ろうとして言葉が出なくなったときがありました。

 

何も出てこない、何も祈れない。呆然とした父は、そのときお世話になっていた牧師に電話して、苦しんで死を迎えようとしている彼女のために、どう祈ったらいいか分からないと言いました。すると、牧師は言いました。「主の祈りを祈りなさい」……毎週、礼拝でみんなと祈る主の祈り。それならスラスラと出てきました。最も基本的な祈りです。

 

すると、主の祈りを口にしてから、父はポツポツと彼女のために、祈る言葉が出て来ました。たぶん、そんなにまとまった言葉じゃなかったと思います。私も病院で、弱り切った人のために祈るとき、しどろもどろな祈りになります。短い文をいくつもつなげたような稚拙な祈り。しかし、その祈りをイエス様は十分なものにしてくださる。

 

主の祈りは、非常にシンプルな祈りです。普通に祈ったら、30秒ちょっとしかありません。礼拝で司会をする人も、祈祷会で順番に祈る人たちも、たぶんそれよりもっと長い祈りをしようとしますよね。でも、これくらいシンプルで短い祈りでいいんです。もっと長いお祈りをしないと失礼じゃ、受け入れられないんじゃ……と思わないでください。

 

こんな祈りでもいい?

むしろ、マタイによる福音書で、イエス様はこう言っています。「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」……さらに、非常に大胆なことも言われます。

 

「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」……人前で祈るとき、自分が何か大切なことを祈り忘れていないか怖くなるかもしれません。私もかつてそうでした。あの人のことも、この人のことも祈らないと! これを忘れたら大変だ! 誰か祈りに漏れていないだろうか?

 

しかし、祈るときには、自分が口にする前から全ての願いを神様が知っておられます。そして人前で、公の場で祈るとき、私たちは相互にとりなす関係です。よく祈祷会で「あの人のことを祈り忘れた!」と思うことがあります。でも、誰かが私のあとでその人のために祈ってくれる。また別の誰かが他の誰かをとりなしてくれる。

 

礼拝で、祈祷会で、様々な集会で祈るとき、信仰者は自分が口にできなかった願いも、神様が既に受け取っておられること、自分と一緒に祈る誰かが、口に出して祈ってくれることを信頼して祈ります。自分一人で、全てのことを網羅して祈る必要はありません。そんなこと私たちにはできません。でも、神様は全ての願いを受けとめます。

 

マタイによる福音書では、主の祈りについて教えられるとき、最初にこう言われていました。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」……確かに人前で祈るとき、私たちは少しでも見栄え良くしようとするでしょう。

 

何も見ないで祈れるところを、スラスラと噛まずに祈れるところを、格調高く堂々と祈れるところを人に見せて、信仰者として見劣りしないように振る舞いたいと思うでしょう。私だってそうです。でも、神様が求めているのは、そういう姿勢じゃありません。全ての願いを知っておられ、その一つ一つを受けとめる天の神様への信頼です。

 

紙を見ながら祈ったってかまいません。スラスラ言葉が出てこなくてもかまいません。たった一言の祈りでもかまいません。あなたが普段、隠れたところで、見えないところで神様に抱く感謝の思い、誰かをとりなす思いやり、言葉にならない悔い改め、一つ一つを神様は見ておられるからです。「こうすれば正しい」なんて祈り、実は特にないんです。

 

他にも、主の祈りにはまだまだ驚くべき秘密があります。教会で最初に教えられる最も基本的な祈りについて、次回も引き続き、皆さんと一緒に考えたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(広島県広島市の広島船越教会)のために、「信仰の虐待」を受けた人のために、精神的虐待を受けた人のために、身体的虐待を受けた人のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆広島県広島市の広島船越教会のために祈ります。この教会に必要な平らな土地が与えられますように。そして、介護施設に入居している高齢の信徒の方々に信仰と健康との平安が与えられますように。

◆「信仰の虐待」を受けた人のために祈ります。信仰の評価を受けて傷ついた人、不安と恐怖を煽るメッセージに振り回された人、間違ったことを正しいと思わされてきた人、それぞれに、あなたの癒しと回復が与えられますように。

◆精神的虐待を受けた人のために祈ります。人格を否定され、自信を失い、何もかも自分のせいだと思っている人に、あなたの慈しみがありますように。支える人と守る人とが与えられ、必要な力が与えられますように。

◆身体的虐待を受けた人のために祈ります。暴力を振るう者から離れられず、コントロールされ、痛みを受け続けている人に、逃れる手段と居場所が備えられますように。その人の回復に必要な助けが与えられますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「わたしたちは旅人」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。それでは、また日曜日まで、皆さん一人一人に主の平和がありますように。