ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『祈りのエチケット(4):こんな祈りってあり?』 ヨブ記6:2〜13

聖書研究祈祷会 2020年10月14日


『祈りのエチケット(4)こんな祈りってあり?』聖書研究祈祷会 2020年10月14日

 

案 内

華陽教会では『信徒の友』の聖書日課に沿って、水曜日の聖書研究祈祷会をしていますが、今年の秋から5月と10月に4回ずつ、祈り方や祈りそのものをテーマに、聖書朗読とメッセージを行うことになりました。今日は「祈り」について考える第4回目、最終日です。

 

讃美歌

最初に、讃美歌21の500番「神よ、みまえに」を歌いましょう。飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

お祈り

ひと言お祈りをします。共に心を合わせましょう。

 

◆人と人との間におられる私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、水曜日の聖書研究祈祷会を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を必要としている人を祝福してください。

◆私たちの神様、この前は配信トラブルのため、開始が大幅に遅れたり、音量が小さくなったりしてしまいました。どうか今、離れている人も、ここにいる人も、共に祈りを合わせる貴重なときが、今日こそ、きちんと守れますように。

◆私たちの神様、来週は延期していた岐阜地区の交換講壇です。どうか今、在日大韓基督教会岐阜教会の方々と、メッセージに来られる牧師の上に、あなたの恵みと祝福が豊かにありますように。そして、より深く交わりを持つことができますように。

◆私たちの神様、岐阜地区にあるそれぞれの教会、特に山間部の教会や、フィリピン合同教会、UCCP-Japan、コロナ禍でつながりが持ちにくくなった人たちに、あなたの癒しと憐れみがありますように。どうか今、新しいつながりと交わりをもたらしてください。

◆私たちに命を吹き込むイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖書朗読

聖書の言葉を聞きましょう。ヨブ記6:2〜13(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

f:id:bokushiblog:20201014111134j:plain

David MarkによるPixabayからの画像

メッセージ

嘆きと悪態の祈り

感謝の気持ちが出てこない日ってありますよね。何も上手くいかなかった、誰も助けてくれなかった、一人も理解してくれなかった……その中で、いつものように大人しく、お行儀よく、丁寧な言葉で祈るって、なかなか難しいものがあります。神に対する感謝どころか、嘆きや悪態しか出てこない。

 

神様、どうしてこんなことなさったんですか? どうして助けてくれないんですか? どうして黙ってるんですか? 私のことは守られず、私を傷つけ、私を蔑み、私を不当に扱う者は守られる。悪事を働く者は見逃され、正そうとする者は散らされる。こんなの納得できません。いっそ私の存在を消してください!

 

こんな祈り人前でしたら「罰が当たる」と言われるでしょう。牧師によっては厳しく叱り付けるかもしれません。「神になんてこと祈るんだ!」「なぜ神様を悲しませるのか?」「どんなときにも感謝しなさい」……あるいは、困った顔で何一つ言葉をかけられない。「そんなお祈りしないでくれ」と暗にこっちへ訴えてくる。

 

私たちは、自分が嘆きと悪態しかつけないとき、あるいは誰かのそういう祈りを聞いたとき、どう祈ればいいか、どう反応すればいいか迷います。いっそ祈らずに黙った方が良い、変なこと祈るくらいなら黙らせた方がいい。そう思うかもしれません。こういう厄介な叫びが出てくるとき、あるいは受けとめるときの姿勢って、何が正しいんでしょう?

 

嘆き祈るキリスト

神に対して悪態をつく、神に対して抗議する、あるいは神に愚痴を言う……そんなの祈る姿勢じゃない。祈りとは、謙虚に、丁寧に、お行儀よく、神様に感謝と願いを言うことだ……そう思っている人が多いかもしれません。でも実は、旧約にも新約にも、行儀がいいとはとても言えない人たちの祈りが、いくつも収められています。

 

その中の一つが、先ほど読んだヨブの祈りでした。善人であるにもかかわらず、サタンの挑戦によって子どもを亡くし、財産を失い、自らも重い皮膚病になった悲劇の人物。彼は神様に対し、抗議の言葉を発します。「わたしは言葉を失うほどだ。全能者の矢に射抜かれ/わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた」

 

こんなこと、誰かが教会で言い始めたら、たぶん慌てて止めようとするでしょう。「こらこら、神様に何言ってるの?」「落ち着いて、ちょっと冷静になって」……ヨブの友人たちもそうでした。自分の境遇を嘆く彼に、そんなことになった責任は、きっとあなたにあるんじゃないか? なぜそんな罰当たりなこと祈るのか?

 

けれども、ヨブはお構いなしに続けます。「わたしはなお待たなければならないのか。そのためにどんな力があるというのか。なお忍耐しなければならないのか。そうすればどんな終りが待っているのか。わたしに岩のような力があるというのか。このからだが青銅のようだというのか。いや、わたしにはもはや助けとなるものはない」

 

もう神様に期待できません! と正直に告白して祈る。いっそ私の命を取ってくれと願い始める。これって、ヨブに限ったことではありませんでした。有名な預言者エリヤも、哀歌を残したと言われるエレミヤも、神に対して思いっきり嘆きと悪態をつきました。「こんな祈りってあり?」というものが、今も「祈り」としてしっかり伝えられているんです。

 

誰かが嘆き祈る時

あるとき、祈祷会で誰かがこう祈るかもしれません。「主よ、もう私は限界です。あなたは私を酷い目にばかり遭わせます。私を責める者は守られて、私を庇う者は現れません。いっそ、私の存在を消してください」……そのとき、牧師の私はどうするでしょう? 周りの皆さんはどうするでしょう?

 

「そんな祈りよくないよ」って注意する。「あなたにも悪いところがあるんじゃない?」と呼びかける。それが正しいと思われるかもしれません。でも、聖書はむしろ、彼らと神様の対話をそのまま続けさせています。神様にガチンコでぶつかっていく。正直に抗議と悪態をついていく。そんな人間を止めようとする友人たちが、かえって神に注意される。

 

神様に悪態をつく祈り、ひたすら嘆きを連ねた祈り、それも立派な祈りなんです。神様は止めるどころか、それに付き合われるんです。全ての者を救うために、十字架にかかったあのイエス様も、殺される前夜、ゲッセマネで、恐怖と嘆きを口にしました。どうかこの試練を取り除いてくださいと。

 

でも、祈りの中で、神様と対話する中で、「御心のとおりになりますように」という最後の言葉が出てきます。嘆きや悪態をつく祈りは、神様に自分を委ねる過程の祈りでもあるんです。私たちはそれを聞いたとき、止めるよりもむしろ、嘆く人の傍に自分が遣わされたことを思い出すべきかもしれません。

 

「主よ、この人に必要な助けをお与えください。私にできることを示してください。どうか彼の、彼女の叫びを聞いてください」……感謝が口にできないとき、神に期待できないとき、その人の傍で代わりに祈ることができる、一緒に祈ることのできるあなたが、実は遣わされています。あなたが祈れないときも、同じように誰かがそこに遣わされます。

 

自分が嘆き祈る時

もちろん、神様に抗議する祈り、悪態をつく祈り、ひたすら嘆きを呟く祈りは、時として誰かを傷つける祈りになります。みんなの前に誰かをさらし、その人を貶める道具にもなります。自分を傷つけた人の実名を出したり、その人のプライベートを晒したりするような祈りは、公の場で、不特定多数の人がいる場で、するべきではありません。

 

しかし、自分の境遇を嘆くこと、悪事が正されることを求める祈りは、決して間違った祈りじゃありません。「主よ、話を聞かない人の耳が開かれますように」「私の訴えを聞いてくれない人が、耳を傾けますように」「困っている人が無視されるのを、いい加減変えてください」……そんなふうに個人を貶めないように抗議する、訴える祈りもあるんです。

 

そういう祈りは、聞いていて気持ちのいいものじゃないかもしれません。口にしてスッキリするものじゃないかもしれません。でも、これらの祈りは、そのままで完結はしないんです。なぜならそこに、イエス様をはじめ、共に祈る仲間が与えられているからです。祈れないことを代わりに祈り、嘆きと悪態を共に受けとめ、一緒に神様と対話する……そんな共同体の一つが、この聖書研究祈祷会という場所なんです。

 

今、30分に短縮している日曜日の礼拝も11月から45分まで緩和されます。聖書研究祈祷会も11月からは、メッセージが終わった後、配信後に2階集会室で団欒のとき、一緒に祈るときを持ちたいと思っています。こんな祈りもありなんだよ……こう祈るといいんだよ……と思い出しながら、これからも皆さんと一緒に祈りを合わせたいと思います。

 

とりなし

共に、神様から与えられたとりなしの務めを果たしましょう。本日は『信徒の友』の「日毎の糧」で紹介されている(山口県大島郡の大島教会)のために、過疎化している地域のために、自治が侵されつつある国のために、報道と学問の自由のために、祈りを合わせましょう。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、私たちがささげる祈りをお聞きください。

◆山口県大島郡の大島教会のために祈ります。この教会に招かれた6人の信徒が、これからも心身共に支えられ、宣教の業が祝されますように。信仰の輪が広がって、新しい人や主任牧師を迎えることができますように。

◆過疎化している地域のために祈ります。だんだんと人が少なくなっている地域にも、あなたの恵みがもたらされますように。特に、少子高齢化が深刻な地域に、希望と喜びが新しく生まれ、発見されていきますように。

◆自治が侵されつつある国のために祈ります。様々な要素が絡み合い、国民の主権が脅かされている国の上に、あなたの憐れみがありますように。自由と民主主義を守ろうとする一人一人に、あなたのお守りがありますように。

◆報道と学問の自由のために祈ります。国の安全が守られつつ、独裁化や暴走が防げるように、一つ一つの機関が健全な関係を築けますように。それぞれ必要な変化と変えてはならないものが見極められますように。

◆今も生きておられ、私たちをとりなしてくださる方、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

讃美歌

オンライン賛美歌「心騒ぎ不安になる夜に」(©️柳本和良)を歌いましょう。こちらも、飛沫感染を避けるため、マスクをしたままで歌います。

 

主の祈り

共に、イエス様が弟子たちに教えられた最も基本的な祈りを祈りましょう。主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン。

 

以上で聖書研究祈祷会を終わります。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。