ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『見殺しにしないで』 マタイによる福音書2:13〜23

新年礼拝 2021年1月3日


『見殺しにしないで』日曜礼拝 2021年1月3日

 

案 内

新年あけましておめでとうございます。礼拝前に感染症対策についてアナウンスがあります。寒くなってきたので、礼拝の中で3度、最初の讃美歌と、交読文と、メッセージ後の讃美歌からとりなしの祈りまで、会堂の窓を開放し、換気の時間を作ります。

 

後ろにいる方は窓の開閉にご協力ください。寒い方は、コート、帽子、マフラーをつけたままで大丈夫です。受付で膝掛けもお貸しています。借りられた方は、お帰りの際、返却口へお返しください。

 

また、室内の人数が16名を超えた場合は、体に無理のない方、目や耳が悪くない方に、ロビーや3階集会室、2階配信部屋への移動をお願いしています。ご協力どうぞよろしくお願いします。それでは前奏を聞いて、神様を礼拝する準備をしましょう。

 

招 詞

主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。(エレミヤ書31:16)

 

讃美歌

会堂の窓を開放しましょう。マスクをしたままで、旧讃美歌300番「みそらのかなたに」を歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。(*起立のジェスチャー)

 

お祈り

(*着席のジェスチャー)共に祈りを合わせましょう。

 

◆全ての者を新しくする私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて、新年最初の日曜礼拝に集まることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

◆赦しと慰めの主である私たちの神様。私たちは去年、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてきました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。

◆癒しと回復の主である私たちの神様。私たちは去年、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、悲しみの連鎖を断ち切らせてください。

◆復活と希望の主である私たちの神様。あなたは心から悔い改め、主に立ち返る全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。

◆信仰と希望と愛をもたらす、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書2:13〜23(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

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andreas160578によるPixabayからの画像

メッセージ

見殺しにした存在

新年早々、穏やかとは言い難いニュースが私たちの耳に入ります。大晦日には、岐阜県で過去最多の83人が新型コロナウイルスに感染したと発表されました。同じ日に、全国の感染者も過去最多の4520人となりました。亡くなった人は累計3492人。一つの町に値するほどの人数です。

 

これだけの人が亡くなっているのに、高齢者ばかりか、子どもにも感染しているのに、神様は未だ、新型コロナを収束させてはくれません。震災や台風の被害に続き、感染症に襲われている被災地の人たちも、泣きっ面に蜂のような状態です。世界各地で困窮し、抑圧に苦しめられる人たちも、ますます危険にさらされています。

 

なぜ神様は、最も力を持たない人、最も弱っている人に、更なる試練をもたらすのか? なぜ苦しむ人、傷つく人を守ったり、助けたりしてくれないのか? 叫び出したい気持ちになる人も、あちこちでいると思います。そんな私たちに、理不尽の極みとも言えるエピソードが、先ほどの聖書から語られます。

 

それは、ヘロデ王がベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を一人残らず殺させたという出来事です。まさに、一つの町に値する規模で子どもたちの虐殺が行われた。逃げ延びたのは、夢で「エジプトへ逃げなさい」とお告げを受けたマリアとヨセフの子どものみ。神の子を授かった家族だけが、危機を逃れられました。

 

つまり、他は全員死んだんです。2歳以下の男の子が、ベツレヘムにいた新生児が、イエス様以外、殺された。神様は、自分の子だけを逃れさせ、他の子どもは見殺しにした……そうとも取れる聖書箇所。年明けに喜んで聞きたい話じゃありません。今こそ、多くの人は叫ぶでしょう。「主よ、なぜ他の子たちは見殺しに!?」と。

 

子どもたちが虐殺されるとき、それを傍観している存在は、人であろうと神であろうと非難を受けます。なぜ止めなかったんですか? なぜ助けなかったんですか? あなたなら、この子たちを逃がすことができるでしょう? 悪い奴から守れるでしょう? 見殺しにするなんて酷すぎる!

 

そう、ベツレヘム周辺の2歳以下の男の子が一人残らず殺される、というのは、どう考えても異常です。普通、遂行できません。誰も子どもを守らなかったのか? 誰も子どもを逃さなかったのか?……ただの一人も? 王の臣下は、この命令に一人も反対しなかった。兵隊たちは、この命令に一人も背かず従った。

 

普通じゃありませんよね? ユダヤ人は誰一人、子どもたちを庇えなかった。ローマ人はこれを聞いて、誰一人総督に訴えなかった……なかなかないですよ、こんなこと。ローマの許可なしに、処刑を執行できないイスラエル人が、勝手に子どもを虐殺した、なんて分かったら、ヘロデ王と言えど、帝国から制裁を受けるでしょう。

 

そう、子どもたちが一人残らず殺されるには、あまりに多くの傍観者が存在しないとあり得ません。王の臣下も、兵隊も、ユダヤ人も、ローマ人も、みんな口をつぐんで、生まれたばかりの赤ん坊を見殺しにする。たった一人の神が人々を見殺しにするより、あり得ないことが起きています。

 

犠牲にされた存在

同様に、あり得ない虐殺が、他の箇所にも出てきます。有名なのは、出エジプト記に出てくる男児殺害命令です。自分の国で増え続けていくヘブライ人に、恐怖を感じたエジプトの王が、「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め」と全国民に命令する。その世代で生き延びたのは、後にヘブライ人をエジプトから脱出させるモーセだけ。

 

彼の両親以外、全国民がこの命令に従ったと言うのなら、やはり異常です。王が無視できないほど勢力を増していたヘブライ人が、子どものために団結して抵抗しなかったのか? 王の臣下であるエジプト人も、誰も反対しなかったのか?

 

そもそも、この書物には「ヘブライ人はエジプト人の好意を得た」という記述が所々に出てきます。ヘブライ人のみならず、彼らに好意を抱いていたエジプト人の隣人たちから反対の声は挙がらなかったんでしょうか? いくら、外国人労働者の数が増し、不安が広がっていったとしても、全国民がその子どもたちを見殺しにするのか?

 

もう一つ、罪のない子どもたちがたくさん死んだ出来事として、このエジプトに下された「最後の災い」が出てきます。ご存知の方も多いでしょう。王が何度、モーセに言われても、ヘブライ人を解放しなかった罰として、エジプトにいる全ての初子、最初に生まれた子どもたちが殺された話。

 

助かったのは、家の入り口に羊の血を塗って、災いを過ぎ越すようお告げを受けたヘブライ人の家族だけ。他は全員、王の子どもから女奴隷の子どもに至るまで、無差別に殺されてしまいます。かつて、ヘブライ人が受けた報復だったとしても、罪のない子どもたちが殺されるのはあんまりです。いくら敵への罰だとしても、受け入れ難い話です。

 

ところが、事前に「最後の災い」について聞いていたモーセをはじめ、ヘブライ人の誰一人、「神様、それはエジプトの子がかわいそうです」と言いません。「あなたは罪もない子どもたちを死なせてしまうんですか?」と訴えません。かつて、アブラハムはソドムとゴモラの、面識もない人のために、「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」ととりなしたのに、その子孫からは一言も同じ言葉が出てこない。

 

たとえ、神様に直接訴え出るのが怖かったとしても、隣人のエジプト人を助けるには、簡単な方法がありました。それは、自分たちと同じように、家の入り口に羊の血を塗って災いを過ぎ越すように知らせることです。けれども、ヘブライ人の中で、エジプト人の子どもたちを助けるために、それを実行した人は一人もいなかったようでした。

 

隣人の子どもを全員が見殺しにする……そう、聖書に出てくる「見殺しにされた子どもたち」って、普通は誰かに庇われ、誰かに守られ、誰かにとりなしを受けて、助かるはずの子どもたちでした。残念ながら、これらの出来事は現実から遠いものではありません。アウシュビッツで虐殺されたユダヤ人や障がい者、関東大震災で虐殺された朝鮮人。

 

つい先日も、コロナ禍の保障を「夜の街」で働く人たちが受けられないかもしれないという事態が起きました。子どもを抱えて働いている人もいるのに、最も見殺しにしてはいけない存在が排除される。そんなことを私たちは繰り返しているんです。その泥臭い世の中に、神の子イエス・キリストは生まれます。

 

一人逃げ延びた存在

考えてみると、イエス様って相当悩ましい存在です。ベツレヘムとその周辺の虐殺を自分だけ逃げ延びた男の子……戦時中、空襲を生き残った人や事故や事件から生還した人が、自分だけ逃げ延びたことを悔み続けることがあります。けれども、イエス様はそれに加えて、自分が命を狙われた結果、自分以外が殺されるという残酷な経験をしています。

 

被害者家族からしたら、恨みの対象になりかねません。逃げ延びた命に罪はありませんが、なぜ彼らじゃなく、自分だけが助かってしまったのか……という重すぎる背景を背負います。さらに、イエス様は「一人だけ逃げ延びた者」であると同時に、「一人だけ見殺しにされた者」でもありました。

 

そう、無実の罪で捕らえられ、虚偽の訴えで十字架につけられていったとき、イエス様を庇い、守り、とりなしてくれる人は現れませんでした。弟子たちには全員見捨てられ、自分についてきた人たちは遠くから見守って、悪く言えば傍観していました。自分を愛していたはずの人からも、助けてもらえなかった存在……みんなから見殺しにされた人。

 

この方は、十字架の上で全ての人をとりなして、みんなが赦されるように、みんなが救われるように、自らの命をささげました。一人だけ逃げ延びて、一人だけ見殺しにされたイエス様は、みんなの荷物を一緒に背負い、その荷を軽くしてくれます。「私も自分だけ逃げ延びてしまったんだ」「私も見殺しにされてしまったんだ」

 

そして、傍観していた、動けなかった、見殺しにしてしまった人たちにも、復活して会いに来て、穏やかにこう言われます。「あなたがたに平和があるように」……もう、とりなしを受けることはないと思っていた人たちが、この方と一緒に食事をし「再び神の国で会おう」と約束される。

 

そう、神様は私たちを誰一人、見殺しにされる方じゃないんです。神様は、誰にも庇われず、守られず、とりなしを受けなかった人のところへ、自分の独り子を遣わして、永遠の命を与えます。死という隔たりさえ超えて、見殺しにした者と、見殺しにされた者を回復します。

 

全ての者をとりなす方は、今も私たちの間におられ、私たちをつなげているんです。今日は、そのことを思い起こし、互いに信仰を新たにする聖餐式が行われます。共に、一年の門出を祝い、神の招きにあずかりましょう。

 

讃美歌

会堂の窓を開放しましょう。マスクをしたままで、(讃美歌21)289番「みどりもふかき」を歌います。諸事情でマスクを外しておられる方は、飛沫感染を避けるため歌うのをご遠慮いただき、心で賛美を味わいましょう。(*起立のジェスチャー)

 

紹 介

本日、初めて来られた方で、ご了承いただいた方のみ、案内した方と一緒にお立ちください。ようこそいらっしゃいました、神様の平和が皆さんと共にありますように(拍手)。配信に乗らないように、お名前は後ほど紹介させていただきます。

 

とりなし

本日、ここに招かれた人たちで、とりなしの務めを果たしましょう。お手元にあるとりなしの祈りの用紙をご覧ください(持っていない方がおられたら、近くの方と一緒にご覧ください)。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです(*起立のジェスチャー)……主の祈り。

 

天にまします我らの父よ。

願わくは御名をあがめさせたまえ。

御国を来たらせたまえ。

みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。

我らの日用の糧を今日も与えたまえ。

我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。

我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。

国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。

アーメン。(*着席のジェスチャー)

 

聖 餐

ただいまより、聖餐式を始めます。本日は接触感染と飛沫感染を防ぐため、先にカップを配らせていただき、聖別後、ぶどう液を一人一人注がせていただきます。係の方は、アルコール消毒をして、カップの配布をお願いします。(*司式者、配餐者は手指の消毒をする)

 

主の食卓への招き

(*この間に配餐者はカップを配る)

兄弟姉妹、今から神の民の祝宴が開かれます。主は言われました。「やがて人々は東から西から、北から南から来て、神の国で共に食卓に着く」

 

また、主は閉じこもっている者にも言われました。「見よ、わたしは戸口に立って、叩いている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。」

 

主は、貧しい者、嫌われ者、負い目のある者をも招かれて、ご自分が用意された祝宴にあずからせてくださいます。この方を信じ、その信仰を公に告白した方は、進んでパンと杯を受けましょう。また、信仰を告白していない方も、共に祝福を受けましょう。

 

感謝と聖別の祈り

世界の創造者、また統治者である神よ、あなたはご自分にかたどって私たちを造り、あなたを愛し、あなたに仕え、全被造物と平和のうちに生きるために、この世界に住まわせられました。私たちがあなたに逆らい、信頼と服従を拒んだ時にも、あなたは私たちをお見捨てにならず、ご自分のものと呼んでくださいました。あなたは私たちを、ご自分の道に立ち返らせるため、御子イエス・キリストを世に遣わしてくださいました。

 

主イエスは、罪人と共に食事をし、その生き方を新たにし、信じない者を信じる者に、滅ぶべき者が永遠の命にあずかるために、十字架にかかってくださいました。そして、死という絶対的な隔たりを超えて、ご自分を見捨てた者たちに現れ、「あなたがたに平和があるように」と宣言してくださいました。

 

私たちの神よ、どうか、今ここにあるパンと杯を受け入れ、御言葉と聖霊によって、聖なるものとしてください。そして、これによって、御子イエス・キリストの尊い体と血にあずからせてください。これにあずかる者たちが、皆キリストの体と一つになり、永遠の命を受け継ぐことができますように。

 

陪 餐

ただいまより、パンとぶどう液を配ります。誰でも洗礼を受けて信仰を告白し、この食事にあずかることができます。洗礼式はキリスト者になるための式で、この聖餐式はキリスト者であり続けるための式です。ですから、この食事には洗礼を受け、信仰を告白してからあずかることをお勧めします。

 

まだ、洗礼を受けておらず、信仰を告白していない方は、恐れ入りますが、しばらくお待ちください。皆さんの信仰の自由と、その決断とを尊重させていただきます。なお、洗礼を受けて信仰を告白した方は、進んでこの聖餐にあずかり、パンと杯を受けない方へ、神様の祝福と平和を祈りましょう。

 

(パンを配るとき)

これは、あなたがたのために与えられた主イエス・キリストの体です。あなたのために主が命を捨てられたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

(パンを配り終わったら)

パンを手にしている方は、パンを受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と平和で満たされますように」

 「アーメン」

食べなさない。あなたがキリストから受けて、あなたから分けられるように。

 

(杯を注ぐとき)

これは、あなたがたのために流された主イエス・キリストの血潮です。あなたのために主が血を流されたことを覚え、感謝をもってこれを受け、御子イエス・キリストとの交わりにあずかりましょう。

 

(杯を注ぎ終わったら)

杯を手にしている方は、杯を受け取っていない方へ、神様の祝福を祈りましょう。

 「あなたの手が、キリストの愛と祝福で満たされますように」

 「アーメン」

飲みなさい。あなたがキリストから受けて、あなたから溢れ出るように。

 

陪餐後の感謝

共に、感謝の祈りをささげましょう。

 

愛と憐れみの主である全能の神よ、今日この場に、若者も年長者も、信仰を告白した者も告白していない者も、共にあなたが招いてくださったことを感謝致します。あなたは今、御子イエス・キリストの尊い体と血によって、私たちを養い、この食事を見ている全ての者を結び合わせてくださいました。

 

あなたはこれによって、私たちに対する愛と恵みを示し、私たちが御子の体の手足であること、御国を受け継ぐ者であることを確かにしてくださいました。今、イエス・キリストを通して、自分の体を生きた聖なる供え物として献げます。どうか聖霊を注いで、私たちをこの世に遣わし、あなたが求めていることを行わせてください。主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

(*新来者が来られたとき)献金は神様の恵みに対する感謝の応答です。教会の維持や運営、地区や教区の働き、福祉や慈善活動への寄付に使われます。金額に定めはありません。持ち合わせのない方は、受付で配られた袋をそのままお入れください。

 

讃美歌

マスクをしたままで、オンライン讃美歌『わたしたちは旅人』(©柳本和良)を3回繰り返して歌います。

(*起立のジェスチャー)

 

祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

永遠の契約の血による羊の大牧者、わたしたちの主イエスを、死者の中から引き上げられた平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように。栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン。(ヘブライ人への手紙13:20〜21)