ぼく牧師 〜聖書研究・礼拝メッセージ、ときどき雑談〜

*聖書の引用は特別記載がない限り、日本聖書協会『聖書 新共同訳』 1987,1988 から引用しています。

『そんなとこから?』 イザヤ書9:1〜3、マタイによる福音書4:12〜17

在宅礼拝/オープン礼拝 2021年1月24日


『そんなとこから?』在宅礼拝 2021年1月24日

 

案 内

本日は、昨年度から毎年1月に行うようになったオープン礼拝です。1年が始まる月に、前奏から後奏まで、一つ一つの要素を説明しながら、礼拝の意味についてみんなで振り返るときを持ちます。

 

本来なら、礼拝後に研修会を行う予定でしたが、感染拡大による岐阜県の医療提供体制の逼迫を受けて、会衆が集まる礼拝を休止しているため、今回は、配信等による在宅礼拝の中で、礼拝の諸要素を味わいたいと思います。

 

前 奏

最初に、前奏を聞いて心を静めましょう。前奏は、礼拝の開始を告げる音楽です。奏楽者は、その日の教会暦や行事に合わせて曲を選び、会衆が礼拝へ参加しやすいように、その日に歌う讃美歌も、礼拝が始まる少し前から流しています。

 

招 詞

神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神は侮られることはない。(詩編51:19より)

 

招詞(招きの言葉)は、礼拝に集まった人たちへ、神の招きを告げる聖句です。礼拝の最初は神の言葉をもって始めるため、司式にあたる人は、必ずしも聖書箇所まで告げる必要はありません。この言葉は、その日の教会暦やメッセージに即したもの、あるいは、聖書日課で指定されている聖書箇所から選ばれます。

 

讃美歌

旧讃美歌300番「みそらのかなたに」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

最初の讃美歌は、神の招きに対する応答の賛美です。礼拝委員会で季節毎にふさわしいものを選びます。多くの讃美歌で、最後につけられている「アーメン」という言葉は「本当にそうです」「本当にそうなりますように」という意味のヘブライ語です。讃美歌は立って歌われることが多いですが、座ったままでも大丈夫です。

 

お祈り

共に祈りを合わせましょう。

 

開会の祈祷は、神の前に立った会衆がその言葉を受けとめるために、主に5つのことを祈っています。まず、【罪の告白】によってへりくだった心で神に向かい、【憐れみの賛歌(キリエ)】にあたる言葉で神による憐れみを願い、【赦しの言葉】によって神による罪の赦しを聞き、【頌栄(グローリア)】にあたる言葉で神の栄光をたたえ、【聖霊の導きを求める祈り】によって、聖書から神の言葉を聞く準備をします。

 

呼びかけ

愛と憐れみの主である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝に集まることができ感謝します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。

 

罪の告白

私たちの母なる神様。私たちはこの一週間、思いと言葉と行いによって罪を犯し、あなたを悲しませてしまいました。どうか今、私たちが傷つけた人、怒りをぶつけた人を癒し、回復させてください。

 

憐れみの賛歌(キリエ)

私たちの父なる神様。私たちはこの一週間、自分自身も傷つけられ、痛みと苦しみを覚えてきました。どうか今、私たちの心と体の傷を癒し、変化と回復をもたらしてください。

 

赦しの言葉

私たちの友なる神様、あなたは心から悔い改め、あなたに立ち返る全ての人を赦してくださいます。どうか今、ここに連なる一人一人をあなたが憐れみ、全ての罪から清め、永遠の命を受け継ぐ者としてください。

 

頌栄(グローリア)

私たちの王なる神様、あなたは後悔する者に癒しを、責める者に希望を与えてくださいます。本来なら、恵みを受け取れない者が喜べるように、変化と回復をもたらします。どうか今、天の上にも地の上にも、あなたの栄光が現されますように。

 

聖霊の導きを求める祈り

正義と公正の主である私たちの神様。あなたは心に平安をもたらし、大切な言葉を与えてくださいます。どうか今、心を乱す様々な事柄に惑わされず、あなたの声を聞かせてください。これからのち、新しい人として主に仕え、あなたの栄光を現すことができますように。人と人との間におられるイエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

聖 書

聖書の言葉を聞きましょう。

 

聖書朗読は、神の語りかけを聞くときです。主に聖書日課で指定されている【旧約】【使徒書】【福音書】の中から選ばれます。礼拝の中心は神の言葉なので、できるだけ、この3つ全てを読むことが望ましいです。どれかを省略しなければならないときは、クリスマス前の日曜日には【旧約】が、クリスマスからペンテコステ前までは【福音書】が、ペンテコステからアドヴェント前までは【使徒書】か、それに準ずる新約の文書が、必ず読まれるようにしています。聖書についている見出しは箇所を見つかりやすくするもので、礼拝の中では読み上げません。

 

イザヤ書9:1〜3、マタイによる福音書4:12〜17(新共同訳より抜粋)

*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。

www.bible.or.jp

 

交読文

共に、詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編44:2〜9(新共同訳交読詩編より抜粋)

 

交読文は、聖書の言葉を聞いた会衆が祈りへ導かれるように、詩編の言葉を司式者と交互に唱えていくものです。詩編の箇所も、聖書日課で指定されているものを選んでいます。交読詩編付きの讃美歌21を持っている方は、一段下がったところと太字のところをお読みください。司式者は、会衆が読むところを間違えないように、テンポよく読むようにします。(*起立のジェスチャー)

 

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jplenioによるPixabayからの画像

メッセージ

本日は、「そんなとこから」と題して、柳本伸良牧師にメッセージをしていただきます。

 

メッセージは、朗読された聖書の意味を解き明かし、神の恵みと忠告を受け取る時間です。「説教」や「宣教」とも呼ばれます。牧師は、聖書箇所の文脈や出てくる単語の意味を調べて、現代の会衆に語られているメッセージを伝えます。教会の信徒が信仰に至ったきっかけや、聖書の言葉に助けられた体験を話す【信仰の証(奨励)】をする場合もあります。本日は『そんなとこから?』と題して、私からメッセージをさせていただきます。

 

 

今、この礼拝に参加している方は、どこから配信を見ていますか? 感染症の拡大により、未だ教会に集まれない皆さんは、自宅や病院や施設の中から、オンライン礼拝に参加していると思います。あるいは、日曜日も仕事があるため、職場から礼拝を覗いている人人もいるでしょう。

 

もしかしたら、通勤中の電車の中から、休憩中の車の中から、聖書の言葉を聞いているかもしれません。お腹を壊して、やむを得ず、トイレの中から見ている人もいるかもしれません。ネットサーフィンをしていたら、たまたまこの配信に行き着いて、他県から、海外から、礼拝に参加している人もいるかもしれません。

 

会衆が集まる礼拝から、オンライン礼拝に切り替えて、思わず「そんなとこから?」とびっくりするような人たちが、華陽教会の礼拝を一緒に見るようになりました。それは、場所や地域に限りません。日曜日、礼拝に参加できなかった人が、数日、数週間経って、見えない教会に集められ、私たちがいるこの礼拝に、参加することもあるからです。

 

2021年が始まった最初の月に、集会の自粛が求められる中、幸いなことに、私たちはそれぞれの場所から、聖書の言葉を聞き、祈りを合わせ、賛美を歌うことができます。でもそれは、大半の人たちにとって、望ましいスタートではなかったでしょう。直接集まる場所を失った、仲間と会えるところを失った、そんなスタートだからです。

 

私も当初、会堂に集まることを休止しようと決めたとき、「今年の伝道は終わった……」と思ってしまいました。正直言うと、非常事態宣言が出た日の午後になるまで、あの手この手の対策をして、集まる礼拝を続けようとしていたからです。もう、顔の見えない礼拝は嫌だ。もう、声が聞けない空間は嫌だ。次は奪われてたまるかと。

 

ですが、そんな努力も虚しく、岐阜県の医療提供体制は逼迫状態になりました。もし、教会で誰かが感染したら、速やかに治療を受けられる保証はありません。私たちは、教会という建物から、仲間と会える場所から離れて、それぞれの家、病院、施設で、礼拝を守ることになりました。「これってちゃんとした礼拝かな?」と疑問を持ちながら。

 

さあ、難解なスタートです。2021年の信仰生活を始めるのに、ふさわしい門出とは言えません。いきなりつまずく展開となりました。もう既に新年が始まって4週目。今年、何かを始めようという気力もない人が多いかもしれません。そんな中、私たちと同じように、暗く、寂しいスタートを切った、ある方の姿が語られています。

 

「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた。そして、ナザレを離れ、ゼブルンとナフタリの地方にある湖畔の町カファルナウムに来て住まわれた」……それは、神様から遣わされた救い主イエス・キリストの姿です。実は、神の子であるイエス様も、宣教活動の開始には、最悪のスタートを迎えていました。

 

自分に洗礼を授けてくれた、自分のために色々な準備をしてくれた洗礼者ヨハネが、捕らえられてしまった。この時点で、ほぼ唯一の理解者、唯一の仲間と会えなくなってしまった。どう考えても、望ましいスタートではありません。むしろ、活動を始めようと思えないのが普通でしょう。

 

にもかかわらず、イエス様は仲間と集まれなくなったとき、すぐさま、預言者に言われていたことを実現するため、ゼブルンとナフタリの地方にある、カファルナウムに移り住みます。そして、何度も外国の侵略を受け、土地と財産を奪われてきたガリラヤで宣教を始めます。

 

非常に奇妙な行為です。ヨハネが捕まってすぐ、仲間と会えなくなったばかりなのに、故郷を離れ、人々に良い知らせを語っていく。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が差し込んだ」……天の国は近づいた。神の救いから遠いと言われている人に、神様は私を遣わした。

 

本来なら、神の子が遣わされた知らせは、イスラエルの首都エルサレム、神を礼拝してきた神殿から、広げられていくものでしょう。しかし、イエス様が神の国について語り始めたのは、「異邦人のガリラヤ」と揶揄される、負の歴史、負の背景がたくさんあるところでした。

 

考えてみれば、イエス様が現れるのは、いつも「そんなとこから!?」という場所でした。まともな家ではなく家畜小屋から誕生し、屋根の下ではなく夜空の下で礼拝され、神殿ではなくヨルダン川で洗礼を受け、首都ではなくカファルナウムから宣教する。嵐の日には、湖の上から現れ、復活後は、戸に鍵をかけた部屋の中から現れる。

 

暗闇にいる人、死の陰にいる人、どん底にいる人、閉じこもる人……これから何かを始めようとは思えない、希望も力も失っている人たちに、同じどん底から現れて、「天の国は近づいた」と言うんです。終わったんじゃない、始まったんだ。良い知らせを聞きなさい。わたしについてきなさい。

 

あなたが住んでるその場所は、イエス様が来られる場所なんです。光が差し込む場所なんです。何もかも終わった状況に見えるとき、最悪のスタートに見えるとき、実はイエス様と一緒にスタートを切っています。あなたが閉じこもり、うなだれ、もがいているその場所は、イエス様が引っ越してきた、あのガリラヤの町なんです。

 

教会に、神殿に、集まれない人たちが……日曜日に、安息日に、休めない人たちが……親しい者と、理解者と会えなくなった人たちが……今ここに、見えない教会に集まっています。

 

あの日、神殿に集まれなかった、会堂に入れなかった、人々に避けられていた者たちが、イエス様を礼拝し、祈りを合わせ、賛美を歌った聖域に、あなたも居合わせているんです。時を超え、場所を超え、ここに集められた人たちで、イエス様の教えと業を、一緒に伝えていきましょう。あなたの生き方が、神を現すものとなりますように。

 

讃美歌

讃美歌21の504番「主よ、御手もて」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。

 

メッセージ後の讃美歌は、神の言葉を締めくくるのにふさわしい歌を歌います。今回は、私たちと共に歩んでくださるイエス様を信頼しよう、という賛美を歌います。立ちあがるのがしんどい方は、座ったままで大丈夫です。

 

使徒信条

感謝の応答として使徒信条を告白しましょう。讃美歌の93-4Bをお開きください。

 

使徒信条は、神の言葉に共鳴して、教会の信仰を告白するキリスト教会共通の信条です。信仰者が何を信じているのか表す便利な要約となっており、信徒一人一人が教会に集まった人々へ、神とキリストについて伝える時間でもあります。キリスト教に入信する洗礼式がある場合は、受洗者が自分の信仰を告白し、集まった人たちへ伝道する初めての機会となります。その性質上、なるべく自分たちからかけ離れてない、初めて来た人にも分かる言葉で、告白することが望ましいです。

 

華陽教会では、今も文語の使徒信条を使っていますが、本日は、一緒に礼拝を覗いておられるご家族や、初めて礼拝を見ている人にも届くように、口語の言葉で、私たちの信仰を告白したいと思います。使徒信条……

 

わたしは、天地の造り主、全能の父である神を信じます。わたしはそのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、おとめマリヤから生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり、天にのぼられました。そして全能の父である神の右に座しておられます。そこからこられて、生きている者と死んでいる者とをさばかれます。わたしは聖霊を信じます。きよい公同の教会、聖徒との交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、永遠のいのちを信じます。アーメン。

 

とりなし

神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。

 

とりなしの祈りは、世界のため、教会のため、身近な人のため、子どものため、苦しんでいる人のために、礼拝に集まった会衆が、神にとりなす祈りです。信仰者が、自分自身もキリストのとりなしによって罪赦されたことを覚え、周りのために祈ることは、神様から与えられた大切な使命です。お祈り毎に沈黙を挟むので、配信を見ている方も、それぞれ思い浮かぶ人のためにお祈りください。

 

◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。

◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。

◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。

◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。

◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。

◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。

◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。

◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。

◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

 

 

 

主の祈り

共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。

 

主の祈りは、神の支配(神の国)の実現を願って祈り、聖餐式の陪餐に備えて祈るものです。イエス様が「祈るときには、このように祈りなさい」と弟子たちに教えた祈りであり、現代でも、教会に集まった人たちへ最初に教えられる最も基本的な祈りです。「祈り方の基本」を伝えるものでもあるため、なるべくみんなに分かる言葉で唱えることが望ましいです。華陽教会では、今も文語を使っていますが、本日は「日本聖公会/ローマ・カトリック教会共通口語訳」で祈りたいと思います。主の祈り……

 

天におられるわたしたちの父よ、み名が聖とされますように。

み国が来ますように。

みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。

わたしたちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。

わたしたちを誘惑におちいらせず、悪からお救いください。

国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。アーメン。

 

 

 

献 金

感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。

 

献金は、神の恵みに対する感謝の応答です。自分の体(生き方)そのものをささげるしるしでもあるため「奉献」とも呼ばれます。初代教会では、信徒一人一人がパンや飲み物を持ち寄って祭壇にささげ、集まった食事を生活に困っている人たちへ分け与えていました。そのとき集められた一部を聖餐に用いたため、献金と聖餐は、通常セットで行われます。現代では、集まった献金は教会の維持や運営のため、牧師の謝儀(給与)のため、地区・教区・教団の働きのため、福祉や慈善活動のために使われています。あくまで「恵みに対する感謝」としてささげるものなので、金額に定めはありません。もし、どうしても迷ったら「自分と誰かが一緒にご飯を食べられるくらい」で考えるといいでしょう。献金の後、係の方が祈りをささげます。

 

讃美歌

オンライン讃美歌「離れているけれど」(©️柳本和良)を歌います。オンライン讃美歌は、日本基督教団鈴蘭台教会のホームページか、今日の礼拝原稿を公開しているブログから、楽譜を見ることができます。(*楽譜の掲載は許可をいただいています)

 

最後の讃美歌は、会衆が神の栄光をたたえて、礼拝から送り出されていくものです。神の栄光をたたえる頌栄の讃美歌が選ばれる他、祝福との関連で派遣をテーマにしたものが選ばれます。季節毎に礼拝委員会で話し合って決められます。本日は、離れたところにいるお互いを日常へ送り出す賛美を歌いましょう。

 

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祝 福

共に、神様の祝福を受けましょう。

 

派遣の言葉と祝福は、会衆一人一人が神を証しする生き方ができるように、神の祝福を宣言して日常へ送り出すものです。祝福の間、お祈りのときと同様、目をつぶっている方が多いと思いますが、決してそうしなければならないわけではありません。祝福の所作にも意味があるので、この時は顔を下に向けるより、顔を上げてもらえると嬉しいです。また、体の不自由な方やしんどい方は座ったままで大丈夫です。立っている方も、牧師が手を下げた後は、静かに座っていただいて大丈夫です。

 

派 遣

平和のうちに、この世へと出て行きなさい。主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えなさい。

 

祝 福

見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る。わたしは決して見捨てない。(創世記28:15より)

 

報 告

本日も、配信を通して在宅礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、私と奉仕者の4名、同時に視聴されていた23名、計27名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝します。

 

来週の日曜日も、配信等による在宅礼拝を行います。水曜日も、このチャンネルから在宅聖研を行っています。他に、ビデオ通話による小礼拝を希望される方、牧師と話がしたい方は、教会の電話番号か、ホームページの問い合わせフォームからご相談ください。

 

また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。