在宅礼拝 2021年1月31日
案 内
華陽教会では、感染拡大による岐阜県の医療提供体制の逼迫を受けて、会衆が集まる礼拝を休止し、配信等による在宅礼拝へ切り替えています。共に今、見えない教会に集められていることを覚え、互いのために祈りを合わせ、神の招きにあずかりましょう。
招 詞
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。(イザヤ書30:21)
讃美歌
旧讃美歌300番「みそらのかなたに」を歌います。54年版讃美歌をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
お祈り
共に祈りを合わせましょう。
◆愛と平和の源である私たちの神様。今日もまた、あなたによって守られて日曜日の礼拝を始めることができ、感謝致します。どうか今、自宅で、施設で、職場で、屋外で、あなたの言葉を受けようとしている人を祝福してください。
◆病と共におられる神様。苦しみや不自由さを抱える人に、あなたは今日も手を伸ばされます。どうか今、癒しと回復を求める人に、あなたの慈しみを示してください。特に、しんどさを理解されない人に、あなたの隣人を遣わしてください。
◆痛みと共におられる神様。弱らされ、傷つけられている人に、あなたは今日も手を伸ばされます。どうか今、心身が悲鳴をあげている人に、あなたの憐れみを示してください。特に、解決策が見えない人に、あなたのつながりをもたらしてください。
◆悲しみと共におられる神様。期待も信頼も失われている人に、あなたは今日も手を伸ばされます。どうか今、求めることさえできない人に、あなたの愛を示してください。特に、自分自身を責めている人に、あなたの気づきをもたらしてください。
◆人と人との間におられる、イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
聖 書
聖書の言葉を聞きましょう。マタイによる福音書5:17〜20、テモテへの手紙一4:7〜16(新共同訳より抜粋)
*当ブログ全体における聖書の引用を適切な範囲内で行うため、後ほど聖書箇所のみ記載し、本文をカットすることがあります。後からご覧になる方は、該当する聖書箇所を日本聖書協会の「聖書本文検索」か、手元に新共同訳聖書がある方はそちらからお読みください。 |
交読文
共に、詩編の言葉を読み交わしましょう。詩編119:9〜16
(*起立のジェスチャー)
讃美歌21をお持ちの方は、後ろの方をお開きください。配信では私が全て読みますが、皆さんは一段下がったところと太字のところをお読みください。(新共同訳交読詩編より) |
メッセージ
「掟の厳守」「ルールの徹底」……こうした言葉にポジティブなイメージを持つ人は、あまりいないと思います。新型コロナウイルスが流行し、手洗い・消毒・マスクの徹底と三密の回避を心がけるよう、全国民に求められる時代になって、ちょっと変わってきたかもしれませんが、それでも、「規律」や「法」と聞いたら窮屈な感じを覚えます。
どこか冷たい響きがある。掟を守らない人が責められて次々と裁かれていくような、恐怖で行動を縛るような、そんなイメージがつきまとう。一方で、ルールがあると私たちは安心します。それさえ守っていれば、自分の居場所が確保される。間違いないと判断される。今、どういう行動を取るべきか一々考える手間も省けます。
そう、私たちは非常に都合よく掟やルールを口にします。あるときは否定し、あるときは無批判に支持します。権威に屈さないという名目で、悪事を防ぐ規定が無視される。法に従うという名目で、隣人の痛みが無視される。本当は、ルール一つ一つに果たすべき目的があるはずなのに、「守るべきか」「守らなくていいか」に関心が偏ってしまいます。
聖書における掟もそうです。神様から与えられたルール、信仰者が守るべき掟……この分厚い本を読んだら分かるとおり、ここにある掟の全てを守ることはできません。どうあがいても遵守することはできません。現代の私たちからすると、意味のない規定、人道的な問題がある規定もあります。
だから、多くの人は考えます。どのルールを守るべきで、どのルールは守らなくていいか? どうすれば、神の掟を守っていると言えるのか? けっこう真剣に考えます。なにしろ、掟を守らなければ、天の国に入れないかもしれません。神様に受け入れてもらえないかもしれません。
信仰者として救われるには、どうしたらいいか、何を守ればいいかは、切実な問題になってきます。なにしろ、掟を守らない人に対して、聖書はけっこう手厳しい。「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
一方で、これらを語ったイエス様は、けっこうたくさんの掟を破った方でもありました。仕事をしてはならない安息日に、仕事とみなされる癒しの業を行ったり、空腹になった弟子たちが、収穫を禁じられた日に麦の穂を摘むのを咎めなかったり、関わってはならないはずの罪人たちと関わったり、死罪に当たる女性の処刑を止めたことさえありました。
挙げていくとキリがありません。律法を真面目に守ってきた人からは、「掟を与えた神様を冒涜している」と訴えられ、「あの男は罪人たちと食事をしている」と囁かれました。イエス様を擁護したい人たちからは、「掟破りの救世主」「ルールに囚われないヒーロー」と讃えられたかもしれません。
それなのに、イエス様は律法についてこう言います。「これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる」……いやいや、あなたが言えたことではないでしょう? 旧約の教えをいったい幾つ破りましたか? あなただって守らなくていいと思ったから、これらのルールを破ったんでしょう?
いえ、違います。イエス様は律法を守るべきか、守らなくていいかで判断することを許しません。「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」とはっきり言われます。厄介ですね。現代の私たちから見て差別的な規定や意味のない食物規定も消え去ることはないと言うなんて。それどころか、念押しするようにこう言います。
「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」……どういうことでしょう? 律法を文字通り、厳格に守ろうとしていた律法学者やファリサイ派からは、イエス様こそ掟を破壊する者、律法を廃止する者に見えたでしょう。伝統的な預言者の価値観を無茶苦茶にする異端者です。
しかし、彼らは自分たちこそ、律法を蔑ろにしていると気づきません。既に、当時の人々の間では、神様が与えた掟は2つに要約することができると言われていました。「あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」……イエス様もこれを支持します。
そう、律法の一つ一つが目指しているのは、神様を愛し、人を愛することです。そのために、時代ごとに与えてられてきたルール……それを、現代でどのように適用するかが問われます。守るべきか、守らなくていいかではなく、その掟が何を目指して与えられたか、根幹にどんな意味があるか、考えるように促されます。
本当は、無視したい掟もたくさんあります。私たちが目を背けたくなる理不尽な規定も存在します。簡単に「これはもういらない」「これは無視していい」と机の隅に追いやりたくなる神の言葉……でも、目を背けたくなる、かつての掟を安易に扱わないことで、私たちが避けてきた複雑な問題に向き合う力を与えられるかもしれません。
なぜ、人を受け入れる規定と排除する規定が混在するのか? なぜ、一方では厳格な裁きを追求し、一方では寛容な対応を求めるのか? なぜ、何度も破られてきた掟が繰り返し更新されるのか? ルールを文字通り守るだけ、ルールを安易に無視するだけでは、矛盾する人間と付き合い続ける、神様の苦悩と憐れみが見えてきません。
「腹を立ててはならない」「誓ってはならない」「復讐してはならない」「敵を愛しなさい」「人の前で善行をするな」「思い悩むな」「人を裁くな」……よく見てみたら、旧約の掟以上に、イエス様の教えって無理難題です。まともに向き合えるものではありません。これを守らせるように言うなんて、暴力もいいところです。
メッセージで取り上げるときも、何とかして「ここまでできたら大丈夫」「ここからは守れなくても仕方ない」と自分で線を引きたくなります。現実的で、シンプルな基準を示す作り話をしたくなります。でも、神様はどう考えても守れないルールを、たぶん破ってしまうルールを、懲りずに私たちへ与えます。
神様、これほどのことをまだ私に期待しますか? イエス様、本当にこれらのことが私にできるとお思いですか? 私よりも、はるかに私自身の弱さを知っておられるこの方は、間髪入れずに頷きます。もちろん、私があなたのもとに来たのだから。あなたにできないことは何もない。
大言壮語にも程があります。だけど、私はこの方の態度を笑えません。だって、神の言葉に従えなかった者たちを、キリストを見捨てた弟子たちを、命をかけて従う者へ変えてしまった方ですから。信仰的ルールは、信仰の弱さ・強さを評価するものではなく、信仰者の生き方を揺るがし、変革し続けるものです。凝り固まって、変化を失った私たちを動かし続ける力です。
ある手紙では、若き伝道者に対して、こんな言葉が語られています。「あなたの内にある恵みの賜物を軽んじてはなりません」……そう、軽んじてはなりません。神様の命令は、あなたを変え続けるからです。あなたの生き方を新しくし続けるからです。キリストに呼びかけられた自分自身を過小評価せず行きなさい。「あなたは自分自身と、あなたの言葉を聞く人々とを救う」ことになるからです。
讃美歌
讃美歌21の153番「幸いな人」を歌います。讃美歌21をお持ちでない方は、そのままお聞きいただき、心で賛美を合わせましょう。
使徒信条
教会の信仰を告白しましょう。使徒信条(讃美歌21の93-4Aです)。
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン。
とりなし
神様から委ねられた、とりなしの務めを果たしましょう。
◆神様、あなたは祈りに応えて恵みを与えてくださいます。どうか今、わたしたちがささげる祈りをお聞きください。
◆世界の国民と政府のために祈ります。主よ、政治に携わる人々に、知恵と勇気と良心を与え、全ての場所に、自由と平和をもたらしてください。
◆世界に広がる全ての教会のために祈ります。主よ、教会を聖霊によって力づけ、その信仰を新たにし、私たちの一致と結びつきを強めてください。
◆教会員のために祈ります。主よ、私たち全てを、御言葉によって豊かに養い、あなたの愛と平和を伝える者として送り出してください。
◆一緒に礼拝できなかった人のために祈ります。主よ、病気や衰え、仕事や様々な事情のために、一緒に礼拝できない人たちを、あなたが癒し回復してください。
◆身近な人のために祈ります。主よ、私たちの家族や友人、仲間たちが、あなたの愛を知れますように、私自身を用いてください。
◆幼稚園、教会学校、地域の子どもたちを覚えて祈ります。主よ、子どもたちの健康と安全を守り、疲れを癒し、安らぎと成長をもたらしてください。
◆苦しんでいる人のために祈ります。主よ、病気や怪我、悩みや苦しみを抱える人たちに、あなたからの平安と、必要な助けを与えてください。
◆今も生きておられ、とりなしてくださる方、主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
主の祈り
共に、イエス様が教えられた最も基本的な祈り、『主の祈り』を祈りましょう。讃美歌21の93-5Aです。
天にまします我らの父よ。
願わくは御名をあがめさせたまえ。
御国を来たらせたまえ。
みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ。
我らの日用の糧を今日も与えたまえ。
我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ。
国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。
アーメン。
献 金
感謝の献げ物として献金をします。礼拝のライブ配信に参加されている方は、また後日、教会に来られたときにおささげください。
讃美歌
オンライン讃美歌「戻らない世界で」(©️柳本和良)を歌います。オンライン讃美歌の楽譜は、著作者の許可を得て掲載しています。
祝 福
共に、神様の祝福を受けましょう。
あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。(マタイによる福音書28:19〜20)
願わくは主があなた(がた)を祝福し、あなた(がた)を守られるように。
願わくは主がみ顔をもって/あなた(がた)を照らし、あなた(がた)を恵まれるように。
願わくは主がみ顔をあなたに向け、あなたに平和を賜るように。(民数記6:24〜26)
報 告
本日も、配信を通して在宅礼拝にご参加くださり、ありがとうございます。先週の在宅礼拝は、私と奉仕者の4名、同時に視聴されていた16名、計20名の出席でした。後から配信や原稿を見て、祈りを合わせてくださった方も感謝します。
来週の日曜日も、配信等による在宅礼拝を行います。会衆が集まる礼拝の再開は、2週間毎に役員会で検討し、決定次第、教会員への連絡網とホームページのお知らせでお伝えします。また日曜日まで、皆さん一人一人に神様の平和がありますように。